精選版 日本国語大辞典 「ベック」の意味・読み・例文・類語
ベック
- ( Henry Becque アンリ━ ) フランスの劇作家。「人生の断片」の再現をめざす厳格な写実主義的手法をとり、フランス近代演劇の発展に寄与。作「からすの群れ」など。(一八三七‐九九)
イギリスのロック・ギタリスト。サリー県生まれ。1960年代にエリック・クラプトンやジミ・ヘンドリックスとともに、エレクトリック・ギター演奏の可能性を広げた一人。ロンドンのアート・スクール在学中に音楽活動を始め、スクリーミング・ロード・サッチScreamin' Lord Sutch(1940―1999、ボーカル)のバンドでの演奏が注目を集める。1964年末にクラプトンの後任としてヤードバーズのリード・ギタリストとなった。フィードバック奏法(アンプの音をギターのピックアップに共鳴させて音を伸ばし続ける奏法)などの革新的な技巧を駆使しての攻撃的なギター演奏によって、白人ブルース・ロック・バンドであったヤードバーズのサウンドをサイケデリック・ロック風に発展させ、「ハート・フル・オブ・ソウル」や「シェイプス・オブ・シングス」などのヒット曲を生んだ。この時期のヤードバーズはミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『欲望』(1966)に出演しており、当時の彼らのパフォーマンスをみることができる。
ベックは1966年末にヤードバーズを脱退。ロッド・スチュアート(ボーカル)、ロン・ウッドRon Wood(1947― 、ベース)らとジェフ・ベック・グループを結成。1968年の『トゥルース』と1969年の『ベック・オラ』の2枚のアルバムを発表する。ベックのギターとスチュアートのボーカルのスリリングなかけ合いと、ブルースを大音量のハード・ロックに編曲したサウンドは、ヤードバーズの同僚であったジミー・ページJimmy Page(1944― )率いるレッド・ツェッペリンに先駆けるもので、1970年代のヘビー・メタルの雛型(ひながた)にもなった。
1970年にスチュアートとウッドがフェイセス加入のためにそろって脱退。ベックはグループを解散して、バニラ・ファッジのリズム・セクションであったティム・ボガートTim Bogert(1944―2021、ベース)とカーマイン・アピスCarmine Appice(1946― 、ドラム)とトリオを組もうとするが、自動車事故で重傷を負い、療養を余儀なくされた。1971年に健康を回復したベックは、マックス・ミドルトンMax Middleton(1946― 、キーボード)やコージー・パウエルCozy Powell(1947―1998、ドラム)らと第2期ジェフ・ベック・グループを結成し、2枚のアルバムを発表した後、翌年に解散。1973年にボガート、アピスと念願のトリオ、ベック・ボガート&アピスを実現させるが、結局はアルバム1枚と日本で録音されたライブ盤だけで解散し、トリオは短命に終わった。
ベックがソロ・アーティストとしての地位を確立したのは、ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンGeorge Martin(1926―2016)がプロデュースを手がけた1975年のアルバム『ブロウ・バイ・ブロウ』である。これは全曲がインストゥルメンタル曲で、ジャズ、フュージョンを志向した作品であった。そのアルバムへの高い評価と全米ヒット・チャート第4位という好セールスに励まされ、翌1976年には元マハビシュヌ・オーケストラのキーボード奏者ヤン・ハマーJan Hammer(1948― )と組んで、やはり全曲インストゥルメンタルの『ワイアード』を発表。ハマーのグループとはいっしょにツアーも行い、翌1977年にはライブ・アルバムを残している。
1980年代以降のベックはロンドン郊外の自宅で静かに暮らし、数年に1枚アルバムを発表するというペースで活動する。目だった活動としては、ナイル・ロジャーズNile Rodgers(1952― )にプロデュースをまかせた1985年のポップ・ロック・アルバム『フラッシュ』から、ロッド・スチュアートが客演して歌った「ピープル・ゲット・レディ」がヒットしたこと、1987年のミック・ジャガーのソロ・アルバムへの参加、1989年に行ったブルース・ギタリストのスティービー・レイ・ボーンStevie Ray Vaughan(1954―1990)との合同ツアーなどがある。2003年にアルバム『ジェフ』を発表した。
[五十嵐正]
フランスの劇作家。家が貧しく、高等中学校卒業後転々と職をかえながらオペラの台本や通俗喜劇を書いた。1870年社会劇『ミッシェル・ポーペ』がようやく日の目をみたが、翌年発表した『誘拐』とともに認められず、その後は演劇記者を勤め、やっと『梭(おさ)』(1878)と『堅気の女』(1880)で成功。かねてコメディ・フランセーズに提出してあった『からすの群』が採用されたのは1882年である。突然夫に先だたれた小工場の未亡人とその3人の娘が、死体に群がるからすのように冷酷な債権者らの餌食(えじき)になる惨状を、古典劇と同じ簡潔な台詞(せりふ)でありのままに描いたこの作品の真実性は、実生活にはあっても当時の因襲的な演劇にはみられぬものと、上演もそうそうに打ち切られた。85年初演の『パリの女』は、のちに自由劇場のアントアーヌがこの作にふさわしい雰囲気を醸し出して上演し、『からすの群』とともにベックは写実主義演劇の祖となる評価を後世に残した。しかしベックは貧困と病苦の63年の生涯を、孤独な慈善病院で終えた。
[本庄桂輔]
『小田切照訳『群鴉』(『世界戯曲全集 第33巻』所収・1930・近代社)』▽『堀口大学訳『巴里女』(『近代劇全集 第14巻』所収・1929・第一書房)』
ソ連の小説家。1941年のモスクワ防衛戦を描いた『ウォロコラムスク街道』(1943~44)で有名になり、その後は戦記物や、工業技術面に題材をとったドキュメンタルな伝記的ジャンルで新境地を開いた。夫人ロイコとの共作『若人たち』(1954)、長編『ベレシコフの生涯』(1956)などがあり、スターリン時代を告発した長編『新しい任務』(1972)は国外で発表されたものである。
[江川 卓]
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報
フランスの劇作家。自然主義演劇の大成者といわれる。貧しい家に生まれ,高等中学卒業後,生活のために諸種の職業に就きながら,オペラ台本,ボードビルを書いた。最初の重要な劇作品は社会劇《ミシェル・ポペール》(1870)であるが,すぐには認められなかった。1幕喜劇《梭(ひ)》(1878),《堅気の女》(1880)でようやく一部に注目され,1882年には傑作《鴉(からす)の群れLes Corbeaux》がコメディ・フランセーズで初演された。しかしこれも〈陰気すぎる〉などの非難を浴び,賛否両論だった。つづく《パリの女La Parisienne》(1885)の初演も惨めな結果だった。貪欲で無道徳な人物を登場させ,あるがままの人生を冷酷に舞台化したこれら2作は,それまでの演劇の因襲を打破する革新性をもち,自然主義演劇の完成を示していた。ただしこれらが認められたのは,A.アントアーヌの自由劇場発足(1887)以後のことである。大作喜劇《ポリシネル》は未完のままで,貧困と孤独に苦しみながら,不幸な一生を終えた。
執筆者:伊藤 洋
ドイツの仏教学者。ニュルンベルクに生まれ,当時インド学の世界的中枢といわれたベルリン大学でサンスクリットを学び,多数の仏典をドイツ語に翻訳した。彼は仏教を独自の〈生命の流れ〉であると定義し,単なる哲学や宗教教義を超越した実践思想の体系であると主張した。そしてこの肥沃な流れを別系統の〈生命の流れ〉すなわちキリスト教に合流させることこそ,西洋の精神的危機を救う道だと説いた。こうした彼の思想は1913年に開始された人智学運動と一致点を見いだした。また22年,F.リッテルマイヤーが人智学を基盤とする〈キリスト者共同体〉を設立したとき,彼もベルリン大学教授の職をなげうってこれに参加,死ぬまで教団活動を続けた。主著《仏教》(1928)は仏教的実践の要綱をヨーガにもとめた啓蒙書で,邦訳もされた。
執筆者:荒俣 宏
ドイツの古典学者。19世紀前半を代表する学者としてG.J.ヘルマンと並び称される。ハレ大学でシュライエルマハーとF.A.ウォルフに師事した。ハイデルベルク大学教授を経て,1811年には創立されたばかりのベルリン大学に古典学教授として招かれ,以後56年間その地位を保った。初めプラトン,ギリシア悲劇,ピンダロスなどの個別研究で業績を上げたが,ベルリン大学教授となってからは,ウォルフの構想を受け継いで,古代世界の全体像を包括的に理解しようとする〈古代学〉の理念を提唱した。この理念に則して,都市国家アテナイの財政に関する最初の実証的研究書(1817)をみずから著し,また史料整備のため《ギリシア碑文集成》(1825-77)をベルリン学士院に刊行させて,近代的な碑文研究の基礎を築いた。
執筆者:片山 英男
ポズナン(現,ポーランド領)生れのドイツ系ユダヤ人ラビ。1912年以降ベルリンのラビ職にあり,リベラルな立場からのユダヤ教解釈を行った。33年ドイツ・ユダヤ人組織の代表となってヒトラーによる迫害の苦難期に精神的指導者,道徳的支柱の役を果たした。第2次大戦末期には強制収容所に送られ,戦後ロンドンに居住。ユダヤ学の業績も多く,主著に《ユダヤ教の本質》(1923),《ユダヤ教の道》(1933)等がある。彼を記念する〈レオ・ベック研究所〉は1954年ロンドン,ニューヨーク,エルサレムに設立され,ドイツ・ユダヤ人史に関する資料収集,業績出版,年鑑の刊行を続けている。
執筆者:山下 肇
ドイツの軍人。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の中心人物。ライン地方の工業家の子として生まれ,1930年以来保守的なナチス支持者だったが,34年以降道徳的潔癖さからナチス批判に転じ,38年8月,ヒトラーのチェコ侵略の企図に反対して陸軍参謀総長を辞任。その後,保守派の政治家ゲルデラーや社会民主党,労働組合関係者までの広がりをもち,シュタウフェンベルク大佐を推進力とする反ヒトラー陰謀の指導者となった。しかし,7月20日の決起は失敗に帰し,自殺した。
執筆者:山口 定
ドイツの青年ドイツ派に属する詩人。ハンガリーのユダヤ系商人の家に生まれ,ウィーン,ベルリンなど各地を放浪する。詩集《武装した歌》(1838)でデビュー。《貧者の歌》(1846)では,当時ドイツで問題となっていた大衆的貧困と呼ばれる社会問題を題材としたが,同時代人エンゲルスにより,いわゆる〈真正社会主義者〉の〈小市民性〉を示す好例として,厳しく批判された。
執筆者:川越 修
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…その理由の一つとして,鉄鉱石から鉄を取り出すために必要な高熱(融点約1540℃)の獲得が古代人にとり長い間技術的に困難であったことが挙げられてきた。しかし,《鉄の歴史》全5巻(1884‐1903)の大著で知られ,みずから製鉄家でもあったベックLudwig Beck(1841‐1918)は,鉄の還元が銅の溶融(1084.5℃)よりも低い温度で始まることを指摘し,製鉄の起源をはるか古い時期に想定し,青銅器時代に先行すると主張した。ベックが説いたように,確かに鉄は低い温度で還元するけれども,それは直ちに製鉄の容易なことを証しない。…
…解釈者はテキストから生きた信仰のメッセージをひきださねばならないからである。 多様な解釈を統一する〈了解〉の一般理論を探求することによって,それまでの領域別解釈学を一般解釈学に普遍化しようとする動きは,19世紀にA.ベックやシュライエルマハーによって開始された。シュライエルマハーは聖書釈義学と古典文献学の両方の解釈技法を整合することに努めた。…
…これらの金石文は,古代ギリシア人が居住し,生活していた全域より出土し,その年代分布も前8世紀後半から後4世紀末におよぶ。金石文への言及あるいはテキストの収集・公刊は,すでに古代ギリシアの著作家たちによってなされ,近代においてはルネサンス期と啓蒙主義時代にテキストの収集と刊行が行われているが,今日のギリシア金石学の基礎が据えられたのは,19世紀の前半,ドイツの古典文献学者A.ベックの指導のもとに組織的なテキストの収集・校訂・刊行が企てられたことによる。その後,考古学の発展につれてギリシア金石文は加速度的にその数を増し,テキストの校訂も精緻の度を加えている。…
…一般的に文献をあつかう学問をいい,書誌学とテキスト・クリティックを主とするもの,あるいは,中国でいう〈目録学〉の同意語として使用されることもあるが,厳密には,ドイツの古典学者A.ベックの《文献学の総覧と方法論》(1877)にいう〈人間精神によって生産されたもの,すなわち認識されたものを認識すること〉とすべきである。ドイツ語のPhilologieは,ギリシア語philologia(学問好き)から出るが,それがしだいにことばの学問(博言学)に限定され,英語のphilologyはその意味で使用される。…
※「ベック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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