フランスのA.アントアーヌによって1887年に創設された劇場,およびそこを拠点とした演劇革新運動をさす。19世紀後半のフランスは,商業主義に基づいたスター中心主義,ウェルメード・プレー(いかにも〈お芝居〉らしく巧みに作られた作品)全盛の時代であったが,そのような演劇への根源的レベルでの反抗として,そしてまた,時代の有力な文学上の思潮であった自然主義の影響下に,アントアーヌを一人の媒介者として生まれ出たのがこの自由劇場であった。
この運動とそこに含まれる精神は,すぐにヨーロッパ各国に波及して,オットー・ブラームの〈自由舞台〉(ドイツ),グラインJacob Thomas Grein(1862-1935)の〈独立劇場Independent Theatre〉(イギリス)など,同様の演劇的精神(とまた類似の名称)をもったいくつかの劇場も生まれたので,広義にはこれらの劇場を拠点とした演劇運動も含めて〈自由劇場運動〉と呼ぶ場合も多い。
いずれにせよ,この流れはいわゆる近代劇の勃興・発展の中核をなすものであり,そのような視座からとらえれば,モスクワ芸術座にせよ,アイルランドのアベー座にせよ,あるいはさらなる派生としての日本の〈自由劇場〉にせよ,すべて同じ一つの歴史的潮流として展望することが可能であろう。
執筆者:川添 裕
アマチュア劇団〈セルクル・ゴーロア〉の一部俳優を母胎に,E.ゾラとその門下の自然主義新進作家の協力を得てアントアーヌによって設立された。パリのモンマルトルの一隅の小劇場での予約会員制の観客を前にした第1回公演で,ゾラ原作の《ジャック・ダムール》が空前の評判をとり,一躍自然主義演劇の中心となった。ついで,モンパルナス座からムニュー・プレジール座に移って一般公開にも踏み切り,G.deポルト・リッシュ(1849-1930),E.ブリュー,F.deキュレル(1854-1928),G.クルトリーヌ(1858-1929),L.エニック(1851-1935)などの劇作家を世に出し,L.トルストイの《闇の力》,H.イプセンの《幽霊》,G.ハウプトマンの《織工》など外国の近代劇でも成功を博した。その特徴は〈実人生の断片〉の舞台化という劇作家J.ジュリアン(1854-1919)の主張を理論的支柱とし,書割りを排して実物の小道具を使い,観客と舞台との間に〈第四の壁〉を想定してときには観客に背を向けるという徹底した写実的演技演出にあった。現実の人生と舞台上の虚構の人生とを混同する行過ぎもあったが,世紀末の大劇場で当たっていたスター中心のだまし絵的なウェルメード・プレーの虚偽と誇張を暴露して,現代劇への道を開いた。1894年にはアントアーヌの手をはなれ,96年には経営難で解散したが,演出家リュニェ・ポーや名優F.ジェミエもここから巣立ち,ベルリンの〈自由舞台〉や市川左団次と小山内薫の〈自由劇場〉など世界的な影響を残した。
執筆者:安堂 信也
1889年にパリの自由劇場に倣ってベルリンに設立された協会で,検閲で上演できぬ戯曲を会員だけに見せることを主たるねらいとしていた。自然主義運動と密接な関係をもち,社会的不正や虚偽の暴露を目的とし,忠実に現実を再現する自然主義的な上演法を確立した。ハルデン,シュレンター,ライヒアーなどが創立者だが,とくにO.ブラームが長として実際の運営に当たった。イプセンの《幽霊》によって活動を開始し,続くハウプトマンの《日の出前》は演劇における真の自然主義の登場として記憶されることになった。会員はしだいに拡大し,その主張が演劇界に浸透していったことは,1894年にブラームがドイツ座の監督に迎えられたことからもわかる。世紀末にはその使命を果たして解散したが,この運動のなかから生まれた労働者観客組織民衆劇場は現在まで存続している。
執筆者:岩淵 達治
ヨーロッパでの演劇研究の旅を終えて帰国した2世市川左団次と,伊井蓉峰一座を脱退後,海外の近代劇研究に当たっていた小山内薫(おさないかおる)とが,会員制度と〈無形劇場〉の方式による演劇革新の旗じるしをかかげて,1909年に創立した劇団。同年11月東京有楽座で,イプセン作・森鷗外訳《ジョン・ガブリエル・ボルクマン》を本格的に上演して,知識人や青年層に迎えられ,圧倒的な支持を得た。以後,年1,2回の試演を重ね,ゴーリキー《夜の宿(どん底)》,ハウプトマン《寂しき人々》,メーテルリンク《タンタジールの死》など近代戯曲の代表作や,鷗外はじめ,新進の吉井勇,長田秀雄,秋田雨雀,郡虎彦らの一幕物をとりあげて劇壇に新風を吹きこみ,演劇人の自覚を促した。俳優は市川左団次のほか,市川団子(2世猿之助),沢村宗之助,市川寿美蔵(3世寿海)ら歌舞伎俳優であったが,その研究的・実験的試演は,若い世代に強い刺激を与え,大正期の歌舞伎俳優による研究劇団勃興の契機ともなった。15年以降活動は中断し,19年の第9回公演ブリュー《信仰》をもって終わったが,文芸協会とならんで新劇運動の先駆的存在であり,後に続く新劇団に大きな影響を与えた。なお左団次は,36年末に,私費を投じて自由劇場の再興を企てたが,時局がら実現せずに終わった。
執筆者:藤木 宏幸
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明治・大正期の劇団。2世市川左団次と小山内薫(おさないかおる)が1909年(明治42)に創立し,同年11月に有楽座で第1回試演を行った。技芸員は左団次一座の歌舞伎俳優で,欧米の近代劇運動の例にならい会員制をとり,当時の文壇・画壇・劇壇の人々が参集した。演目はイプセン,ストリンドベリ,ハウプトマン,ウェーデキント,チェーホフ,メーテルリンクなどの当時画期的だった翻訳劇の上演を中心に,吉井勇・長田(ながた)秀雄・秋田雨雀(うじゃく)ら若手作家の戯曲も上演するなど多彩だった。大正期にも公演を重ねたが,19年(大正8)を最後に自然解消した。近代劇・翻訳劇の上演の定着をはじめ,演劇のみならず日本の近代芸術史に残した影響と意義は大きい。
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… 近年の成果としては,むしろ〈60年安保〉以後,若者の人気を集めた,いわゆるアングラ劇,小劇場運動の中から,佐藤B作,花王おさむらの〈東京ヴォードヴィルショー〉(1973発足),柄本明,ベンガル,高田純次らの〈東京乾電池〉などの,〈ネオ軽演劇〉ともいうべき一派が育ったことが大きい(ここには奇しくも,戦前の軽演劇誕生の状況に相通ずるものがある)。これらのタレントが巣立った〈自由劇場〉(1966発足。ただし正確には75年再組織のオンシアター自由劇場)の,斎藤憐作《上海バンスキング》(1979初演)は,戦後軽演劇の代表作といってよかろう。…
…まずドイツ,マイニンゲン市のゲオルク2世が1860年に組織した〈マイニンゲン一座〉は演技アンサンブルの重要性を強調し,写実的装置の確立をはかり,近代演劇の先駆となった。そして87年にパリでA.アントアーヌの〈自由劇場〉運動が展開され,その自然主義的演劇活動が大きな衝撃を劇界に与えた。同時に,劇作家の協力を得て,演出家を中核に,演技アンサンブルを尊重し,装置,照明に立体的造形をはかる上演集団のあり方が劇団制の問題として再検討・再認識された。…
…独特の身体論に基づく鈴木の演技術の提唱も,多くの人々の注目するところとなっている。 また,佐藤信(1943‐ )は,俳優座養成所を出たのち,同じく同養成所の卒業生であった串田和美(かずよし),斎藤憐(れん)らと66年に〈アンダーグラウンド自由劇場〉を結成,同年処女戯曲《地下鉄・イスメネ》を発表して注目される存在となった。自由劇場は68年には〈六月劇場〉〈発見の会〉と合同して〈演劇センター68/69〉と改組,さらに70年からは〈演劇センター68/70〉としてトラックで移動する黒色テント公演に入るが,その中でも佐藤は《鼠小僧次郎吉》《喜劇阿部定――昭和の欲情》など多くの好戯曲を執筆・演出して,中心的な役割を果たした。…
…日本へのイプセン紹介は,92年坪内逍遥による。本格的上演の最初は1909年の小山内薫,2世左団次らによる〈自由劇場〉旗上げ公演《ジョン・ガブリエル・ボルクマン》(1896)であった。2年後の文芸協会の《人形の家》公演はノーラ役の松井須磨子をスターにし,折からの女性運動とあいまってイプセン・ブームのきっかけをつくった。…
…1874年から90年にかけて彼の劇団マイニンゲン一座はヨーロッパ各地の都市を巡演したが,その集団的演技による群衆処理と写実的な演出は,各国の近代劇運動に大きな影響を与え,数多くの新しい演出者が登場してきた。戯曲の言葉を重視し,自然主義を徹底させた自由劇場Théâtre Libreを創設(1887)したフランスのA.アントアーヌ,V.I.ネミロビチ・ダンチェンコとともにモスクワ芸術座を結成(1898)してチェーホフ,ゴーリキーらの新しい戯曲をとりあげ,リアリスティックな俳優術を探究したK.S.スタニスラフスキーなどすぐれた演出家が生まれてきた。イギリスのE.H.G.クレーグは演出の概念を徹底化し,理論的考察を与えた最初の人である。…
…当時の生活は小説《大川端》に書かれているが,青年の日の小山内の多感な姿が示されている。やがて狂歌仲間として親しかった2世市川左団次が外遊から帰国したのを迎えて,1909年〈自由劇場〉という会員制で新劇を見せる形の演劇運動をはじめ,イプセンの《ジョン・ガブリエル・ボルクマン》以降,ゴーリキーの《夜の宿(どん底)》,ハウプトマンの《寂しき人々》,森鷗外の《生田川》など9回の公演を行い,坪内逍遥の〈文芸協会〉とともに,わが新劇界の草創期を形成した。その間1913年には帝政ロシアに行き,モスクワ芸術座を見て,再演の《夜の宿》を大きく訂正している。…
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[近代の小劇場運動]
既成劇場では十全な舞台表現を与えられない過激なリアリズム劇を,それに適した方法で上演しようとしたのが19世紀終りの若い演劇人による小劇場運動であった。近代的な演出家の最初の人ともいわれるマイニンゲン公ゲオルク2世が率いる劇団の写実的な舞台に感銘を受けていたA.アントアーヌは,1887年にパリで素人俳優の集りのような〈自由劇場Théâtre Libre〉を結成し,新しい作家を世に送り出すとともにイプセンの《幽霊》や《野鴨》をフランスで初演し,トルストイの《闇の力》を世界初演(1888)した。彼はみずからも舞台に立ったが,観客に背をむけてしゃべり,舞台上に本物の肉をぶらさげるといった徹底した自然主義をめざした。…
…まずドイツ,マイニンゲン市のゲオルク2世が1860年に組織した〈マイニンゲン一座〉は演技アンサンブルの重要性を強調し,写実的装置の確立をはかり,近代演劇の先駆となった。そして87年にパリでA.アントアーヌの〈自由劇場〉運動が展開され,その自然主義的演劇活動が大きな衝撃を劇界に与えた。同時に,劇作家の協力を得て,演出家を中核に,演技アンサンブルを尊重し,装置,照明に立体的造形をはかる上演集団のあり方が劇団制の問題として再検討・再認識された。…
…逍遥はシェークスピア劇の移植と歌舞伎の改革を目ざし,また西欧近代を呼吸して帰国した弟子の島村抱月は,イプセンの《人形の家》など,逍遥以上に西欧近代劇の移入に熱心であった。 一方,歌舞伎俳優として初の渡欧体験を持ち,しかし帰国後の革新興行には失敗した2代目市川左団次と,1906年に〈新派〉を失望裡に離れた小山内薫は,共同して09年に自由劇場を創設,試演活動を開始した。これは〈日本の劇壇に脚本・演技の両面で真の(西洋近代劇の)翻訳時代を興す〉意図で行われ,以後14年にかけて意欲的な活動を展開した。…
…彼はメロドラムの破壊的顕揚によって,メロドラムとロマン派演劇のヒーローとなり,舞台と実人生とを,生と自由性と演戯の限りない蕩尽の場としたからである。しかし,名優の芸術的独善が商業主義の君臨と表裏一体をなすと考えられるに至り,ゾラの自然主義演劇理論によるA.アントアーヌの自由劇場と,象徴派をよりどころとしたリュニェ・ポーの制作座という二つの〈小劇場運動〉が,初めて演劇の〈前衛〉として登場し,新しい文学戯曲の上演を使命とする〈演出家〉の市民権を主張する。これが19世紀の第3の転機であるが,一方この時期に,劇場から排除されていた詩人にほかならぬマラルメは,管弦楽演奏会やオルガン演奏会の流行とワーグナー楽劇に演劇が見失った〈祝祭性〉への〈群集〉の渇望を読み,カトリックの典礼に国家的祝祭の演出モデルを認め,また,バレエやパントマイム等の身体・空間芸術に演劇の基本的魅力を感じとり,しかも韻文劇に代表される〈言葉の演劇〉の限界的実験の必要をも説いていた。…
※「自由劇場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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