イタリアの人文主義者,出版者。イタリア名Aldo Manuzio,本名Teobaldo Manucci。フェラーラでグアリーノGuarino da Veronaに師事してギリシア語とラテン語を学び,カルピの貴族の家庭教師を務めた後,特にギリシア古典研究を振興させる目的で1495年ころベネチアに印刷所を起こした。ムスロスやラスカリスなどビザンティン帝国からの亡命学者の協力の下に,主として自ら校訂編集も手がけ,生涯に96点27冊に上るギリシア古典作品と入門書を出版して,その普及に貢献した。かたわら1500年ころからは同じ趣旨の下に,全員ギリシア名を名のり会話もすべてギリシア語を用いるという規則をもつ団体〈ネアカデミア〉を組織して,ムスロスやラスカリスのほかに随時外国の学者も会員に加え,活発に活動した。1508年にはイタリア訪問中のエラスムスも一時その会員となったことがある。マヌティウスの全出版点数は約130冊に上り,ギリシア古典ばかりでなくラテン文学やイタリア語作品も多数出版したが,彼の用いたローマ字活字の字体は後の〈イタリック体〉のもとになった。また彼が好んで採用した小型本(八つ折判)の判型は,それまで大型の手写本に慣れていた読者層から,新しく簡便な判型として歓迎された。
アルドゥス・マヌティウスが創設した出版所は,彼の死後その末子パウルスPaulus Manutius(1512-74)が引き継ぎ,出版活動の本拠をローマに移し,おもにキケロの著作集などを出版して繁栄を続けた。パウルスの死後,出版所はその息子で祖父と同名のアルドゥス2世Aldus Manutius(1547-1597)が継承して大学教授の務めのかたわら出版を続けたが,アルドゥス2世が後継者を残さずに死ぬと,出版所は閉鎖され,初代以来収集してきた蔵書群も散逸した。
執筆者:片山 英男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…それらのうち,今日なお愛読されているのは《イミタティオ・クリスティ》だけで,土地の所有権を論じたリトルトンの著述などは当時のベストセラーであったにもかかわらず,完全に忘れ去られた。
[印刷・出版業の成立]
出版の側から見て,初期の活字印刷者中最も注目されるのはイタリアのA.マヌティウスである。彼は1495年ころにベネチアで印刷事業を始め,コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)から亡命してきた多くのギリシア学者たちに指導されて,ギリシア古典の正確な版本を刊行した。…
※「マヌティウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新