日本大百科全書(ニッポニカ) 「マラー」の意味・わかりやすい解説
マラー(Jean-Paul Marat)
まらー
Jean-Paul Marat
(1743―1793)
フランス革命期の政治家。山岳派の領袖(りょうしゅう)。当時プロイセン王国領であったスイスのヌーシャテル郡ブードリにカルバン派の両親の下に生まれる。父はイタリアのサルデーニャ出身の医師、母はフランス人。医学研究をボルドーとパリで行ったのち1767年、ロンドン、ついでニューカッスル・アポン・タインで開業し、そのかたわらニュートン批判の論文をフランスの科学アカデミーに送った。その後フランスに帰り、1777年からアルトア伯(後のシャルル10世)警固隊侍医を勤めたが、1789年の革命勃発(ぼっぱつ)を喜び、人権宣言私案を発表。また同年9月中旬から『人民の友』紙を発刊し、ジャーナリストとして発言した。ネッケル駁論(ばくろん)やラ・ファイエット攻撃に紙面を割き、民衆を革命の原動力として賞賛した。投獄されたり当局の追及を逃れたりしたが、情勢を鋭くつかみ、激情的で民衆には人気があった。コルドリエ協会員として国王のバレンヌ逃亡事件後は立憲君主制を攻撃した。民衆の直接行動を説いてチュイルリー宮襲撃のいわゆる「八月十日事件」に心理的影響を与えた。この間、地方からの連盟兵とも接触した彼は、蜂起(ほうき)コミューンの下で監視委員となった。国民公会にパリ県から選ばれ、山岳派のなかでも早くから独裁を主張し特異な存在であった。1793年4月、ジロンド派議員の決議で革命裁判所に送られたが、無罪となった。その後攻勢に転じ、6月2日の民衆蜂起の際、追放さるべきジロンド派議員を指定した。7月13日、自宅で疥癬(かいせん)治療のための入浴中、ジロンド派信奉者の女性シャルロット・コルデーに刺殺された。死後、エベールとジャック・ルーが彼の後継者を自認した。遺骸(いがい)はパンテオンに葬られたが、1794年7月に起こったテルミドールの反動ののち撤去された。
[岡本 明]
『前川貞次郎著『人民の友・マラー』(桑原武夫編『フランス革命の指導者 下』所収・1956・創元社)』
マラー(Hermann Joseph Muller)
まらー
Hermann Joseph Muller
(1890―1967)
アメリカの遺伝学者。ニューヨークに生まれる。コロンビア大学に学び、モーガンに師事した。1915~1918年テキサス大学ライス研究所講師。1918年コロンビア大学講師。その後、1920年ふたたびテキサス大学に戻り、1925年教授となる。この時代がもっとも充実した時代であったが、生来の社会主義的世界観がテキサスでは受け入れられにくかったことに対する不満などから、1932年ドイツを経てソ連に行き、バビロフの要請でモスクワ遺伝学研究所員として活躍するが、ルイセンコと論争してイギリスに脱出。1937年からエジンバラ大学に勤務、1940年アメリカに戻り、アマースト大学を経て1945年インディアナ大学教授となる。1964年退職。若い時代にはモーガン学派の一員としてショウジョウバエを材料に遺伝子の交差現象を研究し、遺伝子の線状配列説の確立に寄与した。テキサス時代はX線による人工突然変異の研究を行い、遺伝学に新紀元を画した。また生物の進化を遺伝子の進化という面から追究し、分子遺伝学の今日の知識につなげた功績は大きい。1946年、X線照射による突然変異の発生を発見したことによりノーベル医学生理学賞を受けた。
[田島弥太郎]