フランス革命期の急進派の結社。元ジャコバン・クラブとして発足し、国民公会時代に山岳派(モンタニャール)議員の母体を形成、山岳派が、恐怖政治による独裁といったもっとも鮮明な行動をとったので、ジャコバン派そのものと目されるようになった。
ジャコバン・クラブは、革命期最大の政治結社で、最初、1789年三部会招集前後にベルサイユで結成されたブルトン・クラブを母体とする。宮廷、議会が同年10月パリに移転したのちに再組織され、サントノレ街のジャコバン修道院に本部を置いたので、この通称が普及したが、正しくは「憲法の友の会」であり、92年9月以後になってようやく「自由と平等の友なるジャコバン・クラブ」という名称をもつこととなった。他のクラブと異なって、地方の政治クラブを通信や回状などを通して指導し、全国的な影響力をもったため、クラブを支配する党派は遅かれ早かれ政権をも握ることとなる。初期のクラブを支配したのは三頭派であったが、1791年の国王ルイ16世のバレンヌ逃亡事件の招いた危機に、クラブの指導権を失って脱会し、フイヤン・クラブを結成。以後ジャコバン・クラブと政府の指導にあたったジロンド派は戦争問題をめぐって山岳派と対立し、この危機を打開する92年8月10日の蜂起(ほうき)前後から後者がクラブの指導権を握り、同年秋以後ジロンド派はクラブを除名された。
翌1793年5~6月の蜂起で山岳派が政権をも握ることとなり、ジャコバン派を代表することとなったが、それ以前のそれぞれの時点ではジャコバン派は、実は別の派であったのである。89~91年では三頭派(もっとも有名なのはバルナーブ)、91~92年ではジロンド派(ブリソ)、93~94年では山岳派(ロベスピエール)がジャコバン派であったというべきであろう。しかも、以後の歴史家によってジャコバン独裁の名でよばれることの多い山岳派の独裁のもとで、クラブは最大・最有力とはいえ一つの院外組織の地位に甘んぜざるをえなくなり、94年7月の「テルミドールの反動」で政権の座を失うと同時にクラブも政治的な影響力を失い、同年秋クラブの解散もかつての隆盛時には考えられないほど、なんらの波及効果をももつことがなかった。
[樋口謹一]
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…93年1月に国王ルイ16世が処刑されたのち,第1次対仏大同盟の結成による戦局の悪化や反革命内乱の深刻化に直面して,革命を防衛し遂行するための強力な中央集権的統治が必要とされ,同年10月に,憲法によらない非常体制としての革命政府が樹立され,組織的な恐怖政治が行われることになった。ジロンド派を追放して議会(国民公会)の主導権を握った山岳派(ジャコバン派)は,議会内に設置された公安委員会に権力を集中し,革命遂行のための諸政策を強行すると同時に反対派の弾圧を強化したため,恐怖政治は山岳派独裁の武器になった。93年3月10日に創設されていた革命裁判所は,同年9月に制定された反革命容疑者法に基づいて大量に投獄された反対派(反革命的な貴族や聖職者,ジロンド派,反革命内乱参加者など)の多数を迅速に断頭台に送った。…
…山岳派の主要な指導者は,ロベスピエール,ダントン,マラーなどであり,93年夏からはとくにロベスピエールの影響力が強くなった。山岳派はしばしばジャコバン派とも呼ばれるが,山岳派が国民公会内の議員のグループであるのに対して,ジャコバン派というのは議会外のジャコバン・クラブという団体のメンバーを指すので,両者は一応別個であり,山岳派に属する議員のなかにはジャコバン・クラブ以外のコルドリエ・クラブなどに加入している者もあった。しかし,93年以降には,ジャコバン・クラブはもっぱら山岳派を支持してその社会的基盤になったから,両者は表裏一体の関係にあったといえる。…
※「ジャコバン派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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