イギリスのオックスフォードにある大学。中世以来ケンブリッジ大学とともに高等教育を独占した。19~20世紀にはロンドン大学等が新設されたが,これらは〈赤煉瓦大学redbrick university〉〈新大学〉と蔑称され,オックスブリッジOxbridgeと略称された両大学から社会的に区別された。
12世紀の西欧全土にわたる知的活動の復興を背景に生まれ,1160年代後半より大学としての体裁を整える。パリ大学をモデルに南北二つのナチオ(同郷団)を備え,学長は,教師masterの選挙により選ばれ,殺人傷害事件を除く学徒に関する裁判権も認められた。学生は,教師が借りた下宿hallに住み,教師の管理の下に自由七科を学ぶ。13世紀中ごろより,卒業後とくに専門の学問(神学,法学等)を継続したい貧しい学徒を対象に学寮college(カレッジ)が生まれた。1264年創設のマートン学寮が有名である。しばしば市民と対立し,流血騒ぎもあったが,そのつど国王の手厚い保護の下に,着々と特権を獲得していった。卒業生の大半は聖職者となった。14世紀後半J.ウィクリフや彼の支持者ロラード派などの異端が出,一時その名声を落とすが,15世紀中ごろより,イタリア人文主義の下,ギリシア・ローマの古典の復興の気運の影響を受け,新たなる発展に向かう。チューダー絶対王政の下に古典学を中心とした教科に編成され,また宗教改革で教皇の影響力から脱し,王権とのかかわり合いを強化した。ヘンリー8世による学寮クライスト・チャーチの建設や,ギリシア語以下五欽定講座の設置がみられる。学生層も以前の農民層主体とは異なり,ジェントリー層や富裕な商人層からも多く集まった。1604年〈三十九ヵ条の信仰告白〉への署名を,入学と学位授与時の義務とし,英国国教会と全面的に結合した。また同年下院に2議席を獲得し,36年のロード法により,学寮を主体とした大学に確定され,また大学運営も学寮長の寡頭体制が確立する。
国教会と結びつき安定した大学は,貴族,ジェントリー層出身の学生が圧倒的になるにつれ,研究者よりは聖職者養成機関として安眠をむさぼった。J.ウェスリーなどの例外もあるが,ハノーバー朝に非協力の態度をとり,時代の要請には耳をふさぎ,ますます保守化し,非国教徒などの新興中産階級からの厳しい批判を受けた。18世紀後半からの産業革命はイギリス社会を大きく変貌させ,大学にも時代の要請に合うべく改革を迫った。1807年古典学での優等卒業試験が初めて採用され,学生に勉学を強いるとともに,J.H.ニューマンらのオックスフォード運動が起こった。50年代に入り,議会からの強い圧力の下に,53年優等卒業試験が自然科学等に拡大され,71年には,〈三十九ヵ条の信仰告白〉への署名義務が廃止されて非国教徒にも門戸を開いた。大学行政も民主化され,教授職も増加され,聖職者養成機関より学問研究の府へと大きく変貌する。78年にはレディ・マーガレット・ホールが建設され,女性にも門戸を開いた。1920年には国家の奨学金が大幅に増加し,中流下ならびに労働者の子弟の入学も可能となり,国民の大学としての道を大きく歩むこととなる。なお,国内発行のすべての初版本を蔵するボドレーアン図書館(1602創設)やイギリス最初の公共美術館であるアシュモリアン博物館(好古家E.アシュモールの寄贈により1683創設)も有名である。19世紀後半の改革以後学生数も大きく増加し,学寮数39,学生約1万5500名(1996),教授職350名,その他の教員1150名。
執筆者:鈴木 利章
ジェームズ1世期(17世紀初め)に発足した教授職。学内関係者,卒業生によって選ばれ,任期は3年。義務として1年に3回,詩についての公開講義をする。19世紀までは主としてラテン語の詩法についての講義だった。選ばれる者は詩論に詳しい詩人,詩的感受性の強い学者が多い。20世紀の著名な詩学教授としては,A.C.ブラッドリー,バウラCecil Maurice Bowraのような学者,C.デイ・ルイス,R.グレーブズ,W.H.オーデン,J.B.ウェインなどの詩人がいる。選挙にあたってかなりの権謀術数がめぐらされる。
執筆者:出淵 博
主としてゴシック様式による大学の建物には,建築史上著名な作品が多い。学寮は修道院の構成を原型とし,中庭を囲んでホール,寄宿舎,礼拝堂,図書館等が配置される。神学校(1483)はオックスフォード大聖堂(15世紀後半)とともに,ゴシック期の吊り要石とファン・ボールトで知られる。ホールトThomas Holt設計のボドレーアン図書館は,古典オーダーと小尖塔を併用して,ゴシック期からルネサンス期への過渡的様相を示す。マートン学寮では垂直様式(後期ゴシック)の礼拝堂(1294)や,ホールトによる古典様式の図書館(1624),玄関棟(1610)を見る。J.ギブズによるラドクリフ図書館(1739)は,十六角形平面に円堂を重ねた古典様式の建物。クイーンズ学寮の玄関門(1738)は,N.ホークスムアの作で,吹放しドームを戴き,後期ルネサンスの傑作とされる。創設時のアシュモリアン博物館はウッドThomas Woodの設計だが,現在の建物はC.R.コッカレルによって新古典主義様式で完成された(1845)。
執筆者:藤本 康雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスのオックスフォード市にある同国最古の歴史を誇る大学。ケンブリッジ大学とともに「オックスブリッジOxbridge」と称される。
[松垣 裕]
大学の成立年代は明確ではないが、1133年、パリ大学から神学者ロベール・ピュランが来講したのを大学の起源とすることが多い。ついで1168年ごろ、パリ大学を脱出したイギリス人学生が帰国してここに集まり、一方ヘンリー2世の勅令で海外留学を禁止された学生も加わって大学の基礎は固まった。この世紀の末、大学は全キリスト教国共通の学位の認定権を取得し、13世紀初めには「ローマ教会の第二の学校」として、パリ大学に次ぐ地位を与えられた。この時代の大学の発展は、ドミニコ派、フランチェスコ派、カルメル派、ベネディクト派など各修道会士の来学に負うところが大きい。最初の学寮(カレッジcollege)は1249年に創設されたが、1264年在俗聖職者の教育のためにつくられたマートン学寮がその後の学寮制度のモデルとなった。中世のオックスフォード大学の名声を高めた人に、ロジャー・ベーコン、ドゥンス・スコトゥスらの哲学者や宗教改革の先駆者ジョン・ウィクリフがいる。ルネサンスの新学問は、人文主義者エラスムスやトマス・モアらの指導によって興隆した。17世紀前半総長に就任した大司教ロードは、学位試験制度を改正し制服を定めたほか、多数の教授職を新設し、また大学出版部を創立するなど、大学の発展に貢献した。産業革命後の社会変化に対応する大学の機構改革は19世紀後半以降進展をみせ、1877年には自然科学部門の充実が図られた。
[松垣 裕]
オックスフォード大学はそれぞれ独立の自治団体であるカレッジ(学寮)とホール(下宿)からなる学寮制の大学であり、カレッジとホールの連合体を総称してオックスフォード大学とよんでいる。カレッジないしホールは、学寮長(マスター、プリンシパル、プレジデント、プロボスト、ウォードン、ディーンなどその名称はさまざま)、フェローfellowとよばれる教師、それに学生で構成され、それぞれ独自の建物、基本財産、運営組織を有している。2001年現在、カレッジの数は39を数える。このうち七つは大学院レベルの学生のみを受け入れている。かつては男子カレッジと女子カレッジがあったが、1974年からセント・ヒルダズ・カレッジを除いてすべて共学となった。またケロッグ・カレッジは聴講生のみを受け入れて継続教育を行っており、オールソウルズ・カレッジはフェローのみで構成されている。六つあるホール(Permanent Private Halls)はキリスト教の各教団(宗派)によって設立されたもので、宗教的色彩を強くもつ。
大学の教育と運営はカレッジを中心に展開される。カレッジは学生を選抜し(カレッジないしホールの一員に選抜されることなく大学の一員になることはできない)、部屋と食事を提供し、生活と教育の基盤となる。カレッジの建物には教師や学生の居室、食堂、コモンルーム(共同談話室)、図書室、礼拝堂、教室などがあり、四角い中庭を囲んで配されている。カレッジはクリケット場やボートハウスなど各種のスポーツ施設ももっている。そして、カレッジでの教育の中心となるのがチューターtutor(フェローが担当)による個人指導(チュートリアルtutorial)である。
一方、カレッジ間の調整機構でもあり大学全体の中央組織でもあるユニバーシティ(全学)は、オックスフォード大学が提供する学位コース等のカリキュラムの枠組みを定め、試験を実施し学位を授与する。ボドリアン図書館(1602)やアシュモール博物館(1683)をはじめクラレンドン研究所などさまざまな施設を備え、全学を通じた教育と研究に便宜を図る。16を数える学部facultyや講座の運営もユニバーシティによるものである。組織としてカレッジとユニバーシティは別個の存在であるが、オックスフォード大学の教師と学生のほとんどが、同時にいずれの組織にも所属している。
1998年現在、学生数約1万6100人。その約4分の1は海外からの留学生で、その出身国は130か国以上に及んでいる。大学院レベルの学生数は約5000人で全体の3分の1弱を占める。教職員数約7700人。
[安原義仁]
イギリス最古の大学。ロンドンの北西約80㎞,テムズ川上流のオックスフォードに位置する。市内にはレン(Christopher Wren)設計によるシェルドニアン・シアターをはじめ歴史的建造物が点在し,セント・メアリー教会からは「夢見る尖塔」と呼ばれる美しい街並みを望める。起源は11世紀末までさかのぼり,へンリ2世によるイングランド学徒のパリ大学(フランス)への一時的な留学禁止令(1167年)を契機に,学問の中心地として発展を遂げた。パリ大学を範として形成されたが,13世紀頃タウンとガウンの争いの頻発によって学生のためのホールがつくられ,やがてカレッジ(イギリス)へと発展した。とりわけ宗教改革と絶対王政を経て,イギリス王室と深い関係をもち国教会聖職者・エリート養成機関としての性格を強めていく一方,つねに宗教的,政治的論争の中心地でもあった。
ユニバーシティ(1249年),ベイリオル(1263年),マートン(1264年)など,貧困学生の寄宿舎として寄付により創設されたカレッジは,15~16世紀には次第に大学教育・運営およびコミュニティの中心となり,学生はどこかのカレッジに所属し,そこで寄宿生活を送りながら教育を受け,大学は学位試験・授与を行うという独特の方式が形成された。19世紀半ばより自然科学・社会科学を充実させ,一部の特権階級からより広い階層や女性へ門戸開放するなど諸改革が行われた。2013年現在,38のカレッジ,六つのホールがあり,世界140ヵ国以上からの1万1832人の学部生,9857人の大学院生が学んでいる。オックスフォード大学出版局,ボドリアン・ライブラリー(イギリス)は大学付設機関として世界有数。
著者: 中村勝美
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…しかし,この種のコレージュはフランスにおいてではなく,カレッジとしてイギリスで独特の発達をとげた。パリ大学から分離したオックスフォード大学,そこからさらに分離したケンブリッジ大学は現在でも独立した名称と自治権をもつカレッジの集合体である。ただし,かつてはイートン・カレッジEton Collegeのような中等段階の学校をさす場合もあり,これはフランスのコレージュが16世紀以来中等学校の一種であることに対応する呼名である。…
…カリキュラムと学位制度に支えられた教育機関と,学徒の人的団体としてのギルドとが結合したところに,過去に類例をみない,そして現代にまで連続する〈大学〉という新しい教育組織が成立したといえる。
[中世大学の成立と発展]
すでに12世紀後半から13世紀初めにかけて,〈自生的大学〉と呼ばれるボローニャ大学,パリ大学,オックスフォード大学などの大学が形成されている。この際,ボローニャでは比較的年齢の高い法学生のギルドが中核となり,パリでは学芸学部の教師(多くは上級学部の学生)のギルドが大学を形成し,ともに他の中世大学の模範となった。…
※「オックスフォード大学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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