イギリスの政治家、外交官。外交官T・エルギンを父としてロンドンに生まれる。1841年自由党下院議員を経て、1842~1846年ジャマイカ総督、1847~1854年カナダ総督を歴任、優れた統治手腕をみせた。1857年アロー号事件に際し清(しん)国への特派全権大使とされ、1858年フランスとの連合軍を指揮して清国軍を攻撃、ついに天津(てんしん)条約締結に成功した。1858年(安政5)8月には日本との間に通商条約を締結した。1859年帰国し、郵政相に就任したが、翌1860年には再度清国特派大使となり、北京(ペキン)条約を締結、懸案の天津条約批准書交換も済ませた。1862年インド総督に任ぜられたが、翌1863年11月20日、インドで病死。「実践の人」といわれ、その生涯は任務への強い責任感に貫かれていた。
[石井摩耶子]
イギリスの外交官、古美術収集家。J・エルギンの父。1799~1803年トルコ大使を務め、その間、学者、技術者による調査団を組織してアテネのパルテノン神殿その他の古代ギリシアの建築、彫刻を調査、測量させ、さらにパルテノン神殿の破風(はふ)彫刻やエレクテイオンの少女柱などを本国に送った。それらは大英博物館に収蔵され、現在もエルギン・マーブルズ(エルギン大理石)として同博物館に陳列されているが、1983年以来ギリシア政府から返還を要求されている。
[松村 赳]
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1811~63
イギリスの政治家。1842年ジャマイカ知事,46~54年カナダ総督。アロー号事件の処理のため,特派使節として中国に派遣され,58年天津条約を結び,さらに同年日本に来航して日英通商条約を結んだ。60年再び中国に派遣されて北京条約を締結した。62~63年インド総督。
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