階数の多い建物の総称。明確な定義があるわけではないが,一般に階数が1~2階程度の低層,4~5階程度の中層に対して,それ以上のものを指すことが多い。
近代的な高層建築の歴史は19世紀の終り,シカゴの町に始まった。当時,鉄道事業の発達とともにアメリカ中西部の商業,工業の中心地として発展し始めていたシカゴでは,急激な人口の集中による都市化が進む一方,1871年に起こった大火によりそれまでの木造による商業施設の大部分が焼失し,復興のための建設ブームを迎えていた。その中にあって,ジェニーWilliam Le Baron Jenney(1832-1907)やホラバードWilliam Holabird(1854-1923)らのシカゴ派と呼ばれる建築技術者らは,従来の煉瓦や石の壁によって建物を支える組積造によらない新しい構造形式による建築をシカゴの町に建て始めた。それは,当時建物の装飾や構造材に補助的に使われていた鋳鉄と,土木分野や工業製品に使われ始めた鋼を柱やはりに使用した,シカゴ構造と呼ばれる鉄骨構造の高層建築であった。これらの建築には,また,当時安全装置を備えて実用段階に入り始めていたエレベーターが設けられていたため,従来4~5階建てであったシカゴの町のスカイラインを一新する高さにまで達することができた。ホームインシュアランス・ビル(1885。12階),リライアンス・ビル(1894。16階)といったこれらシカゴ構造による一連の高層建築は,1階から最上階まで同一の平面形を重ねるという現在の高層建築の原型をすでに備えており,それぞれ事務室の隅々まで十分な自然光が得られるよう,中庭や光庭をもった中廊下型の平面計画をした事務所建築であった。また外壁にはそれまでの組積造では不可能であった大きな窓を,当時開発され始めた大型板ガラスを用いて可能にした。左右に換気用の上げ下げ窓をもつこのシカゴ窓は,シカゴ構造とともに高層建築を可能にした技術を素直に表現した新しい形態であった。
しかし,1900年代に入り,アメリカにおける商業,経済の中心がニューヨークに移り始めると,シカゴ派は退潮し,シカゴで生まれた高層建築は,技術的発展を遂げるよりも当時の商業活動を表現する象徴としてその建築形態や階数のみを競い合う存在となっていった。その結果,ニューヨークの町にはスカイスクレーパー(摩天楼)と呼ばれる高層建築が数多く林立し,建物高さのピークを築いたが,それらのスカイスクレーパーはニューヨークの空を覆い,昼間でも薄暗いといわれるような都市空間をつくり上げてしまった。エンパイア・ステート・ビル(1931。102階),クライスラー・ビル(1930。77階)をはじめとして,ウールウォース・ビル(1913。57階)に代表されるようにこれらのスカイスクレーパーの形態は,古典様式,とくに中世ゴシック建築様式にその姿を似せてつくったものが多かった。
→近代建築
一方,日本における高層建築はアメリカの場合と異なり,地震に対していかに強い建物をつくるかという歴史であった。明治維新に始まる近代化は,建築の分野においても,それまでの木造建築にかわって煉瓦や石による建築の技術を外国から学びながら建物の形態を西欧化することから出発した。また,1872年の銀座から築地にかけての大火は,この建物の西欧化に加え,建物の不燃化を促進する契機となった。イギリスのT.J.ウォートルスやJ.コンドルらを中心とする建築技術者は,銀座や丸の内,さらには浅草に,赤煉瓦でつくられた洋風建築の町並みを建設していった。これらの2~3階建ての煉瓦造建築は91年におきた濃尾地震によりその耐震性が問題とされ,帯鉄や鉄筋によって補強されながらも大正の初期まで建設されていった。しかし,日本においても鉄の生産が開始され,アメリカの高層建築の技術がもたらされるに伴い,鉄骨構造の研究が進められる中で,煉瓦造によらず鉄骨を骨組みとする建築が建てられるようになった。三井銀行本店(1903。3階)や丸善(1909。3階)は,鉄骨と煉瓦壁を組み合わせた初期の鉄骨造建築であった。そして1911年には本格的事務所建築といわれる6階建ての三井貸事務所が建てられた。
大正時代に入ると,建物に加わる地震力の影響の研究が行われ始める一方,それまでの輸入エレベーターに加えて国産によるエレベーターも登場した。第1次世界大戦の好景気を背景に,日本においても近代都市の建設が行われ始めたのもこの時期である。アメリカ式高層事務所建築のはしりといわれる東京海上ビル(1918)や,アメリカの建設会社の施工による丸ビル(1923)といった7~8階建ての大型事務所建築が続々建てられるようになっていった。それらの中で,日本興業銀行本店の建物は,鉄骨の柱を鉄筋コンクリートで包み,要所要所に鉄筋コンクリートの耐震壁を配したもので,23年の関東大震災にあってもまったく被害がなく,日本における耐火・耐震上の問題に解決を与えた建築であった。それ以降,大規模高層建築の大部分は鉄骨鉄筋コンクリート構造と呼ばれる日本独自の構造形式により建設されるようになった。
第2次世界大戦後朝鮮戦争を契機とする高度成長が始まり,昭和30年ごろを境として大規模高層建築が数多く建てられるようになっていった。しかし,1920年に制定された市街地建築物法による建物高さを100尺におさえるという考え方は,50年に制定された建築基準法においても引き継がれており,建物の高さは最高31mに制限されていた。したがって,この制限内で建築できる建物はせいぜい8~9階建てに限られており,この状態は容積地区制度の実施により建物の絶対高さの制限が撤廃されるまで続いたのである。
→超高層建築
執筆者:村尾 成文+橋本 明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
高い建造物。古くは、日本の五重塔やヨーロッパのゴシック建築の教会のように宗教的敬虔(けいけん)さを表すものであったり、古代エジプトのピラミッドやオベリスクや日本の天守閣などのように、主として権力の象徴としてのモニュメントのような形で残されてきた。一方、産業革命後の近代文明社会においては、工業化社会が必要とする都市機能を果たすために別の意味で高さが求められ、高層建築が出現してきた。すなわち、近代化はそれに伴って都市への人口や各種機能・施設の高度の集中をもたらしたが、このため都市空間の立体的利用が必須(ひっす)となり、それを可能にしたのが工業化社会における鉄鋼を主とする優れた建築材料の生産と、高所への輸送手段としてのエレベーター機能の発達である。それらに支えられて、都市はますます高層化、高度化の道をたどってきたのである。
高層建築の定義は時代の認識によってかならずしも明確ではなく、また国家や都市、限られた地域内での相対的な観点からも異なってくるが、現在、その代表的なものが「超高層建築」(ハイライズビル)といってよい。
[小堀鐸二・金山弘雄]
超高層建築の誕生は19世紀末、アメリカに文明社会をもたらした経済復興期における建築工業技術の発達によるものであったが、それ以降1930年代までに、当時スカイスクレーパー(摩天楼)とよばれた超高層ビルがニューヨークやシカゴで続々と建設され、高さを競い合った。1931年には、その後長く世界一の高さを誇ったエンパイア・ステート・ビル(102階、381メートル)が完成している。以後しばらく世界的な経済不況と第二次世界大戦による空白が続くが、1952年に竣工(しゅんこう)した国連ビル(39階)を嚆矢(こうし)として、今日みるような近代的な新しいタイプの超高層ビルが出現するようになった。建物の外観は直方体のようなすっきりしたもので、外壁の構造は窓面積の多い軽快なカーテンウォールが使われ、また建物の周りには市民のための広場が配されるようになった。それとともに高さもエスカレートして、1973年にニューヨークの世界貿易センターのツインタワー(110階、417メートルと415メートル。2001年9月ハイジャックした民間航空機を衝突させるというテロ行為により倒壊)が、1974年には当時世界一の高さとなったシカゴのシアーズ・タワー(2009年よりウィリス・タワーに名称変更。110階、442メートル)が完成している。このような建築の超高層化の流れは、アメリカよりすこし遅れてヨーロッパをはじめとする世界各国へ拡大していった。そして1998年にはマレーシアのクアラ・ルンプールにペトロナス・ツイン・タワー(88階、452メートル)が、さらに2004年に台湾の台北に台北101(101階、508メートル)、2010年中東のドバイにブルジェ・ハリファ(162階、828メートル)が完成し、世界中で高さの競争が行われている。
[小堀鐸二・金山弘雄]
長く地震という自然の脅威にさらされてきた経験から、不可能と思われていた超高層ビルが日本に建設されるようになったのは、1960年代に入ってからである。本格的超高層ビル第一号の霞が関ビル(36階、147メートル)が完成したのが1968年(昭和43)であった。その後、数も高さも増し、2010年(平成22)9月の時点での日本一は、1993年に開業した横浜ランドマークタワー(70階、296メートル)である。高さ200メートルを超える高層建築は計27棟にも及んでいる。このように地震国に超高層ビルが可能になったのは、新しい耐震理論と構造技術の開発と、建築施工のみならず関連分野の生産技術の著しい発展に負うところが大きい。
1923年(大正12)の関東大地震の際、近代的ビルとして注目を集めた、そのころの欧米直輸入の構造形式の高層ビルがひどい被害を受けた。この苦い経験から、だれしも高い建物は耐震的に危険と考え、建築法規で建物の高さを31メートルに制限したのである。
ところが、これは経験的・直観的に導かれた結論で、当時、大地震の記録を正確にとらえることができなかったことにもよる。その後、大地震の揺れを正確にとらえる強震計とよばれる装置が世界各国で開発され、世界の大地震の記録が数多く観測されることになった。これらの記録は、昭和30年代から急速に発達したコンピュータによって分析された結果、地震動の破壊力の大きさは建物の固有の振動周期によって著しく違うことが明らかになった。低層の剛な建物には大きな破壊力が作用するが、振動周期の長い超高層ビルには、その構造に十分な変形能力を与えてやれば小さな破壊力しか作用しないという、この知見をもとにさらに具体的な設計の検討が進められた。その後、地震国日本に適した耐震的かつ経済的な超高層ビルの研究開発が進展し、経済の高度成長に支えられて1963年(昭和38)には建築物の高さ制限が撤廃され、日本の主要都市に超高層ビルが出現したのである。
しかしながら日本古来の五重塔を仔細(しさい)に検討すると、高層ビルに備わるべき要件を具有していて史上まだ地震で倒壊した例がないことがわかって興味深い。
このように世界各国で高層ビルが定着したのは、過密化する土地や空間の有効利用という都市計画上からの利点はもとより、十分な光と眺めのよい窓、柱の少ない自由なスペースなどからくる居住上の快適さ、高速エレベーターによる能率的な連絡などにその大きな魅力があったためである。今後も都市空間の有効利用のために高層ビルの建設は続くと思われるが、重要なことは低層・中層・高層・超高層ビルをバランスよく組み合わせ、機能分けした街づくりのマスタープランのもとに、今後の高層建築の建設が行われなければならないということであろう。
[小堀鐸二・金山弘雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…とくに高さや階数の基準はないが,日本では高さが31mを超える建築物を高層建築と称し,100mを超えると超高層建築と呼んでいるのが一般的である。また外国,とくにアメリカでは,その呼び方を1930年代にニューヨークで建設されたものをスカイスクレーパーskyscraper(摩天楼)とし,現代のタワーtower,トールビルtall buildingとは区別して用いているようである。…
※「高層建築」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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