ハイデッガーと並んでドイツの実存哲学を代表する哲学者。
[宇都宮芳明 2015年4月17日]
2月23日、北ドイツの北海沿岸に近いオルデンブルクに銀行家の子として生まれる。1901年大学に入り、弁護士を目ざして法学を学ぶが、翌1902年医学部への転部を決意、以後1908年までベルリン、ゲッティンゲン、ハイデルベルクの各大学で医学を学び、「郷愁と犯罪」で医学の学位を得た。引き続きハイデルベルク大学の精神科医局に勤務、1913年『精神病理学総論』を著し、精神病理学者としての地位を確立した。この間マックス・ウェーバーと親交を結び、哲学への関心もますます深くなる。1916年ハイデルベルク大学で心理学担当の教授となって『世界観の心理学』(1919)を発表するが、1921年には念願の哲学教授となり、以後哲学的思索に没頭、10年の沈黙期間ののち、『現代の精神的状況』に続いて3巻からなる主著『哲学』を公表し、これによって実存哲学者としての盛名は揺るぎないものとなった。
しかし時代はすでに暗く、妻がユダヤ人であることから、1933年ナチスにより大学運営への参加から締め出され、1937年には教授の職から追放、1938年フランクフルトでの講演を『実存哲学』として公刊したのちは、第二次世界大戦終了に至るまで沈黙を強いられた。
1945年4月、第二次大戦終結に先だってアメリカ軍がハイデルベルクを占領、ヤスパースは復職して大学の再興に尽力し、また戦争中のドイツ人の罪を反省した「罪の問題」を講義した。大戦中も継続していた思索活動は戦後いっそう旺盛(おうせい)となり、ハイデッガーとともに、戦後のドイツ哲学界に大きな影響を与えた。1948年には長年住みなれたハイデルベルクを離れ、スイスのバーゼル大学教授となり、1961年退職後もバーゼルにとどまり、1969年2月26日死を迎えた。戦後の哲学的著作としては、第二の主著『真理について』(1947)のほかに、『哲学的信仰』(1948)、『哲学入門』(1950)、『シェリング』(1955)、『偉大な哲学者たち』第1巻(1957)、『啓示に面しての哲学的信仰』(1962)などがある。
[宇都宮芳明 2015年4月17日]
主著『哲学』は、ヤスパースの実存思想の全体を伝える大著であるが、それによると哲学の課題は、存在意識を変革しつつ世界から超越者へと超越していくことにある。すなわち第1巻『哲学的世界定位』では、世界知についての反省の結果、「世界がすべてであり、科学的認識が確実性のすべてである」とする世界内在的な態度が放棄され、存在意識変革の第一歩が踏み出される。ついで第2巻『実存照明』では、世界存在に解消されない人間の実存が内部から照らし出され、それがけっして自足した存在ではないことが示される。つまり実存は、死、悩み、争い、罪といった、人間が免れることのできない「限界状況」に面して自らの有限性に絶望するが、しかしそれと同時に実存は超越者が主宰する真の現実へと目を向け、存在意識を変革しつつ、本来の自己存在へと回生する。第3巻『形而上(けいじじょう)学』では、超越者が実存に対して自らをどのような形で開示するかが問われ、超越の最終段階である「暗号解読」に到達する。ここではすべてが超越者の暗号となり、実存はこれらの暗号の解読という形で超越者の現実を確認するのである。『哲学』以後、ヤスパースは実存とともに理性を重視し、実存からの哲学はまた理性による哲学であるべきだとするが、第二の主著『真理について』は、理性の側に力点を置き、存在そのものを包括者としてとらえ、その諸様態を解明したものである。こうしたヤスパースの哲学は、全体として、個人の尊厳を重んじるヒューマニズムに支えられており、彼はこの立場からまた歴史や政治や宗教の問題についても積極的に発言した。この方面の著作には『歴史の起源と目標』(1949)、『原子爆弾と人間の未来』(1958)などがある。
[宇都宮芳明 2015年4月17日]
『『ヤスパース選集』全37巻(1961〜1985・理想社)』
ドイツの哲学者。初め法学を学び,医学に転向。1908年ハイデルベルク大学の精神医学臨床助手,10年には研究助手となる。精神医学に現象学的方法を導入し精神病を心身相関のもとで総合的に扱った《精神病理学総論》(1913)を著し注目を浴びた。次いで心理学教授資格を取得,私講師として心理学の講義を始める。人生を意味づける世界観の諸相を考察した《世界観の心理学》(1919)を転機に哲学を志し,21年に同大学の哲学正教授となる。キルケゴール,ニーチェ,M.ウェーバーの影響のもと10年余に及ぶ思索の末に,《現代の精神的状況》(1931)と大著《哲学》3巻(1932)とを公刊。前者では大衆社会の中に埋没して自己を喪失している現代人を批判し,後者では限界状況(死,苦,争,責)における挫折を直視することによって超越者の暗号の世界へと立ちいでていく実存の形而上学を展開,〈実存哲学〉の立場を体系化して,現代実存主義哲学の礎石を築いた。リッケルト引退の32年に哲学科主任教授となったが,翌年ナチスにより大学運営参加を締め出される。37年にはユダヤ系のゲルトルート夫人との離婚勧告を拒絶して免職。実存に併せて理性をも重視することとなった後期の立場は,《理性と実存》(1935)において概要が示されたが,第2次世界大戦後ハイデルベルク大学に復職してから世に出た《真理について》(1947)に結実し,現存在,精神,実存,世界,超越者などの諸様態をとる包括者とそれを結ぶ理性の紐帯が説かれるに至った。47年にゲーテ賞を受賞。戦後も夫人に対する偏見が続き,ために48年スイスへ移住,バーゼル大学哲学正教授となる。《歴史の起源と目標》(1949)では基軸時代を想定する独自の歴史哲学を提出,また宗教哲学の大著に《啓示に面しての哲学的信仰》(1962)がある。戦後ドイツを代表する思想家で,日本ヤスパース協会(1951設立)との接触もあった。
執筆者:柏原 啓一
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ドイツの実存主義哲学者,精神科医。1883年にオルデンブルクで生まれた。古典語ギムナジウムを経て,1901年からハイデルベルク大学,ミュンヘン大学で法学を学んだのち,1902年からベルリン大学(現,ベルリン・フンボルト大学),ゲッティンゲン大学,ハイデルベルク大学で医学を学ぶ。1909年にハイデルベルク大学で医学の博士学位を取得し,13年に『精神病理学総論』により大学教授資格を取得。同大学の講師,助教授を経て,1922年に哲学部教授。1930年代初めに『現代の精神的状況』(1931年),『哲学』(1932年)を公刊するが,37年にユダヤ系の夫人をめぐるナチスとの対立から大学を追われ,第2次世界大戦中は苦しい生活を強いられる。戦後の1946年に公刊された『大学の理念』は,大学の使命として研究,教育(教養),授業の三つをあげ,研究者・教師相互,教師と学生相互の交わり(コムニカツィオーン)の重要性を強調するなどして影響を与えた。1948年にスイスへ移住し,バーゼル大学の哲学の教授となる。1969年にバーゼルで死去。
著者: 長島啓記
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1883~1969
ドイツの哲学者。実存主義の立場に立つ。精神病理学から世界観の心理学に,さらに哲学に転じた。対象認識の世界定位の次元と実存解明の段階と形而上学の3段階を峻別する。
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…こうした〈我〉と〈汝〉を結ぶ愛の両数的様態はL.ビンスワンガーでも強調され,すなわちこの様態のなかで〈我〉と〈汝〉はともにみずからの豊かな可能性を実現するだけでなく,世界の無限性と永遠性に参与すると説かれる。〈愛〉がその本質として超越的契機を含むことは明らかで,この点は〈具体的なものを通して絶対者と全体者に向かう運動〉というK.ヤスパースの〈愛〉の規定にもうかがえる。 こうした〈愛〉の可能性が自己中心的なせばまりや孤立の不安によって隠蔽されるようになると,そこにさまざまな〈性〉の障害が現れてくる。…
…ニーチェもまた不断に脱自的であらざるをえない人間を〈力への意志〉に基づく〈超人〉と名づけ,無意味な自己超克を繰り返しているかに思われる運命を肯定することに意味を発見した。〈実存哲学〉の語が定着するのは,第1次大戦後の動向のうちとくに《存在と時間》(1927)に表明されたハイデッガーの哲学を念頭に置いて,これを〈人間疎外の克服を目指す実存哲学〉と呼んだF.ハイネマンの著《哲学の新しい道》(1929)以降であり,ヤスパースがこれを受けて一時期みずから〈実存哲学〉を名のった。ほかに,ベルジャーエフ,G.マルセル,サルトルらの哲学を実存哲学に含めるが,彼らは必ずしもみずからの哲学を実存哲学と呼んではいない。…
…当時の精神医学は,W.グリージンガーの〈精神病は脳病である〉という周知の言葉がよく象徴するように,疾患の本態を脳内に求める身体論的方向をめざし,他方で,遺伝・素因・体質などの要因を重視する内因論の方向を歩んだが,こうした方向は19世紀の末にE.クレペリンが精神病の記述と分類をなしとげて一応の完成にいたる。20世紀に入るとともに,精神分析のS.フロイト,それを容認して力動的な症状論を展開するE.ブロイラー,現象学の導入により方法論を整備したK.ヤスパースら,新たな勢力が台頭して,19世紀の精神医学に深さと広がりと高さを加える。これらがヨーロッパ全域で豊かな開花をみせるのはとりわけ20世紀の20年代で,ヤスパース,H.W.グルーレ,マイヤー・グロースW.Mayer‐Grossを擁するハイデルベルク学派,R.ガウプとE.クレッチマーを擁するチュービンゲン学派,そしてクロードH.ClaudeとH.エーを中心とするフランスのサンタンヌ学派などがその重要な拠点となった。…
…それがしだいに体系的な方法論をもつようになるのは,精神医学を構成する諸領域の分化が20世紀以降すすんだ結果でもあって,その基礎はドイツのシュテリングG.Störringの著書《精神病理学講義》(1900)により置かれたといわれる。しかし精神病理学を厳密な方法論で体系づけたのはK.ヤスパースで,その《精神病理学総論》(初版1913)は,与えた影響の大きさからしてこの分野の記念碑的業績とみなされる。彼が精神病理学に導入したのは,妄想や幻覚などの現象を単なる症状としてでなく一人称的体験として記述するための〈現象学的方法〉,病的体験を理解する際の〈説明と了解(理解)〉,体験のながれを了解的にとらえたうえでの〈発展と過程〉の概念などで,これらは70年後の今日なお重要なキー・ワードとして通用する。…
…現存在分析を創始したスイスの精神医学者ビンスワンガーの主著で,1957年に単行本の形で刊行された。5例の精神分裂病のくわしい症例研究からなるが,30年代に著者が独自の人間学的方法を確立したのち,数十年にわたる臨床活動の総決算として44年から53年にかけて集成したもの。ここでは,分裂病は人間存在に異質な病態としてではなく,人間から人間へ,現存在から現存在への自由な交わりをとおして現れる特有な世界内のあり方として記述される。…
… 同じように,同時代人の思想のうちに刻印を残した哲学的立場として実存主義と論理実証主義をあげることができよう。前者は社会的分裂と政治的崩壊の時代を生きる現代人の不安と孤独をみつめ,そこから真の主体性確立の契機を引き出そうとするもので,M.ハイデッガー,K.ヤスパースがその代表者であった。後者は経験的に立証できる命題のみに意義を認め,宗教,道徳にかかわる心情的陳述をあくまで排除しようとしたもので,L.ウィトゲンシュタインに始まり,B.A.W.ラッセルがさらに発展させた。…
…20世紀の10年代から20年代にかけて,ドイツのハイデルベルク大学を舞台に,主として精神病理学の分野で活動した研究者の集団。ウィルマンスK.Wilmanns(1873‐1945),グルーレ,ヤスパース,マイヤー・グロースW.Mayer‐Gross(1889‐1961),ベーリンガーK.Beringer(1893‐1949)らが主要メンバーである。その精神的中心はヤスパースで,彼が《精神病理学総論》(1913)で展開した現象学や了解心理学の方法は,それまで外側からの客観的記述にとどまっていた精神分裂病や躁鬱(そううつ)病など内因性精神病の研究を,その内的体験について解明する方向へと推し進めた。…
…一般的には現在の意識野に現れてこないすべての心的内容をいうが,特にS.フロイトの精神分析理論において重要な地位を占める概念。K.ヤスパースによれば,無意識には,根本的に意識化することの不可能な意識外の機構(すなわち精神的なものの下部構造)と目下は無意識だが〈気づかれるようになりうるもの〉との二つがある。これに従えばフロイトの唱える無意識は,あくまで後者の,さしあたり現在の心の中には認められぬものに属する。…
※「ヤスパース」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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