日本大百科全書(ニッポニカ) 「ユースフ・イドリース」の意味・わかりやすい解説
ユースフ・イドリース
ゆーすふいどりーす
Yūsuf Idrīs
(1927―1991)
エジプトの小説家。ナイル・デルタのアル・バイルーム村に生まれる。カイロ大学医学部に進むが、在籍中から反王制運動に身を挺(てい)し、二度拘留される。卒業後医師となるが、同時に総合雑誌『ローザ・ユーセフ』などの編集、執筆にもあたり、しだいに文筆のほうに重きを置くようになり、ついに医業を廃業。最初の短編集『一番安上りの夜』(1954)は、農民の息づかいが伝わってくるような強烈な作品集で、これによって作家的名声を確立した。なかでも『ハラーム・禁忌』(1959)は現代アラブ文学の白眉(はくび)とされる中編である。この作品は、ナセル革命前のナイル・デルタの農村を舞台に、その地の農民と棉(わた)につく害虫を駆除するために他村から出稼ぎにきた季節労働者との間の軋轢(あつれき)のドラマが、捨て子事件を軸にして展開される。病める夫をもった若い健気(けなげ)な百姓女が運命のいたずらゆえに不義の子を宿してしまう事件を発端とする。それを高見から類型的にハラーム(禁忌)と裁断しようとする宗教および社会規範に対して、悲劇的な運命を背負いながらも果敢に生を貫こうとする女のひたむきな生きざまを対置させて、作家イドリースは人間の側から規範を激しく糾弾する。さらにこの作品では、エジプトの屋台骨である農民の真骨頂が明かされており、エジプトの核心部に触れることのできる好個の書となっている。ほかに『英雄』(1957)、『すまじき事』(1962)、『白人女』(1970)、戯曲『間のわるい時』(1956)がある。彼はナセルに対しても、革命当初の共感から、しだいに批判に転じ、一貫して体制への強靭(きょうじん)な批判精神を貫き、それを作品に反映させた。現代アラブ世界でもっとも注目されてきた作家の一人であり、新世代の作家たちの領袖(りょうしゅう)とされていた。
[奴田原睦明]
『奴田原睦明訳『ハラーム・禁忌』(1984・第三書館)』▽『片倉もとこ編『人々のイスラーム――その学際的研究』(1987・日本放送出版協会)』▽『奴田原睦明ほか訳『集英社ギャラリー 世界の文学20 中国・アジア・アフリカ』(1991・集英社)』