リヒトホーフェン(読み)りひとほーふぇん(英語表記)Ferdinand von Richthofen

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リヒトホーフェン」の意味・わかりやすい解説

リヒトホーフェン(Ferdinand von Richthofen)
りひとほーふぇん
Ferdinand von Richthofen
(1833―1905)

ドイツ地理学者。ブレスラウとベルリンの両大学で自然科学、とくに地質学を修め、ウィーン地質調査所技師としてオーストリアの地質調査に従事する。1860~1862年、プロイセン大使の随員として東ロシア諸国を巡り、日本も訪れた。1869~1872年上海(シャンハイ)商業会議所の委嘱を受けて中国の調査に着手し、甘粛(かんしゅく)地方と西南地方を除く中国の各地について、自然のみならず、社会・経済・風習などの地理的事情について詳しく踏査して実態を明らかにした。帰国後、1875~1883年ボン大学、1883~1886年ライプツィヒ大学、1886~1905年ベルリン大学の地理学教授として多数の論著を著し、ドイツの近代地理学の発達に貢献した。ことに地形学や黄土成因論をはじめ、1877~1912年にわたって大著『支那(しな)』China5巻と地図を刊行し、ヨーロッパにおける中国研究の発展にきわめて大きな役割を果たした。シルクロードSeidenstraßeの命名者でもある。

織田武雄

『望月勝海・佐藤晴生訳『支那 第1巻』(1942・岩波書店)』『能登志雄訳『支那 第5巻』(1943・岩波書店)』『海老原正雄訳『支那旅行日記』上・中(1943、1944・慶応書房)』


リヒトホーフェン(Manfred von Richthofen)
りひとほーふぇん
Manfred von Richthofen
(1892―1918)

ドイツの軍人(陸軍大尉)、男爵騎兵から操縦士になり、第一次世界大戦中に戦闘機中隊を率いて、連合軍との空中戦に活躍した。撃墜数80機(ほかに未公認4機)は全参戦国を通じ最高。真紅に塗ったフォッカーDr1戦闘機に乗り、レッド・バロンとよばれた。1918年4月21日、フランスのソンム付近でイギリス戦闘機(地上砲火との説もある)に撃墜され死亡

[青木謙知]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リヒトホーフェン」の意味・わかりやすい解説

リヒトホーフェン
Richthofen, Ferdinand von Wilhelm

[生]1833.5.5. カルルスルーエ
[没]1905.10.6. ベルリン
ドイツの地理学者,地質学者。 1860年ドイツ極東経済使節団に加わり,セイロン (現在のスリランカ) ,日本,台湾,セレベス (スラウェシ) ,フィリピン,マレー半島などを訪れた。 63~68年カリフォルニアで地理学的調査に従事。 68年極東に帰り中国の奥地を旅行。 72年ドイツに帰り,75~79年ボン大学で地理学を教えた。ベルリン地理学協会会長であり,ベルリン国際地理学協会やベルリン海洋学会などを創設。中国をおもな研究地域として,地理学方法論の発展に貢献した。さらにこれまで地質学の一分野であった大陸や海底地形に関する地形学を樹立した。主著に『中国』 China,Ergebnisse eigener Reisen und daraufgegründeter Studien (5巻,1877~1912) がある。

リヒトホーフェン
Richthofen, Manfred, Freiherr von

[生]1892.5.2. ドイツ,ブレスラウ(現ポーランド,ウロツワフ)
[没]1918.4.21. フランス,ソンム
ドイツの空軍軍人。男爵。第1次世界大戦中,戦闘機中隊を率いて活躍。編隊による戦闘技術を創案した。みずからも真紅に塗った3枚翼のフォッカー機に搭乗し,「レッド・バロン」 (赤い男爵) の異名をもつ。撃墜数は未曾有の 80機 (イギリス機 79,ベルギー機1) を記録したが,ソンム上空で戦死。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

マイナ保険証

マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...

マイナ保険証の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android