リヒトホーフェン(読み)りひとほーふぇん(英語表記)Ferdinand von Richthofen

デジタル大辞泉 「リヒトホーフェン」の意味・読み・例文・類語

リヒトホーフェン(Ferdinand von Richthofen)

[1833~1905]ドイツの地理・地質学者。東南アジア・中国などの自然・地質を調査し、黄土成因論を発表。東西交渉路をシルクロードと命名した。著「中国」など。

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精選版 日本国語大辞典 「リヒトホーフェン」の意味・読み・例文・類語

リヒトホーフェン

  1. ( Ferdinand Freiherr von Richthofen フェルディナント=フライヘア=フォン━ ) ドイツの地理学者、地質学者。東南アジア、中国などの自然や地質を踏査し、黄土成因論を発表。東西交渉路をシルクロードと命名した。野外観察に基づく地表の学としての地理学の理論的基礎を確立した。主著支那」全五巻。(一八三三‐一九〇五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「リヒトホーフェン」の意味・わかりやすい解説

リヒトホーフェン(Ferdinand von Richthofen)
りひとほーふぇん
Ferdinand von Richthofen
(1833―1905)

ドイツの地理学者。ブレスラウとベルリンの両大学で自然科学、とくに地質学を修め、ウィーン地質調査所技師としてオーストリアの地質調査に従事する。1860~1862年、プロイセン大使の随員として東ロシア諸国を巡り、日本も訪れた。1869~1872年上海(シャンハイ)商業会議所の委嘱を受けて中国の調査に着手し、甘粛(かんしゅく)地方と西南地方を除く中国の各地について、自然のみならず、社会・経済・風習などの地理的事情について詳しく踏査して実態を明らかにした。帰国後、1875~1883年ボン大学、1883~1886年ライプツィヒ大学、1886~1905年ベルリン大学の地理学教授として多数の論著を著し、ドイツの近代地理学の発達に貢献した。ことに地形学や黄土成因論をはじめ、1877~1912年にわたって大著『支那(しな)』China5巻と地図を刊行し、ヨーロッパにおける中国研究の発展にきわめて大きな役割を果たした。シルク・ロードSeidenstraßeの命名者でもある。

織田武雄

『望月勝海・佐藤晴生訳『支那 第1巻』(1942・岩波書店)』『能登志雄訳『支那 第5巻』(1943・岩波書店)』『海老原正雄訳『支那旅行日記』上・中(1943、1944・慶応書房)』


リヒトホーフェン(Manfred von Richthofen)
りひとほーふぇん
Manfred von Richthofen
(1892―1918)

ドイツの軍人(陸軍大尉)、男爵。騎兵から操縦士になり、第一次世界大戦中に戦闘機中隊を率いて、連合軍との空中戦に活躍した。撃墜数80機(ほかに未公認4機)は全参戦国を通じ最高。真紅に塗ったフォッカーDr1戦闘機に乗り、レッド・バロンとよばれた。1918年4月21日、フランスのソンム付近でイギリス戦闘機(地上砲火との説もある)に撃墜され死亡。

[青木謙知]

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改訂新版 世界大百科事典 「リヒトホーフェン」の意味・わかりやすい解説

リヒトホーフェン
Ferdinand Freiherr von Richthofen
生没年:1833-1905

ドイツの地理学者。カールスルーエの貴族の家柄に生まれる。当初は地質学者としてアルプスやカルパチ山脈の地質調査に従事していたが,1860年より中国を中心とした東アジアの調査に参加,その成果を《中国》全5巻(1877-1912)の大著にあらわした。帰国後,ボン大学(1877-83),ライプチヒ大学(1883-86),ベルリン大学(1886-1905)の地理学講座を主催し,近代地理学の発展に大きな影響を与えた。それまで博物誌的傾向の強かった地理学の対象を,地表の事象に限定し,それらの相互関係や因果関係の究明を地理学の目的とした。方法としても観察や測定を重視し,科学としての地理学の方法論の確立に寄与した。ベルリンにて死去。〈シルクロード〉の命名者としても知られる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リヒトホーフェン」の意味・わかりやすい解説

リヒトホーフェン
Richthofen, Ferdinand von Wilhelm

[生]1833.5.5. カルルスルーエ
[没]1905.10.6. ベルリン
ドイツの地理学者,地質学者。 1860年ドイツ極東経済使節団に加わり,セイロン (現在のスリランカ) ,日本,台湾,セレベス (スラウェシ) ,フィリピン,マレー半島などを訪れた。 63~68年カリフォルニアで地理学的調査に従事。 68年極東に帰り中国の奥地を旅行。 72年ドイツに帰り,75~79年ボン大学で地理学を教えた。ベルリン地理学協会会長であり,ベルリン国際地理学協会やベルリン海洋学会などを創設。中国をおもな研究地域として,地理学方法論の発展に貢献した。さらにこれまで地質学の一分野であった大陸や海底地形に関する地形学を樹立した。主著に『中国』 China,Ergebnisse eigener Reisen und daraufgegründeter Studien (5巻,1877~1912) がある。

リヒトホーフェン
Richthofen, Manfred, Freiherr von

[生]1892.5.2. ドイツ,ブレスラウ(現ポーランド,ウロツワフ)
[没]1918.4.21. フランス,ソンム
ドイツの空軍軍人。男爵。第1次世界大戦中,戦闘機中隊を率いて活躍。編隊による戦闘技術を創案した。みずからも真紅に塗った3枚翼のフォッカー機に搭乗し,「レッド・バロン」 (赤い男爵) の異名をもつ。撃墜数は未曾有の 80機 (イギリス機 79,ベルギー機1) を記録したが,ソンム上空で戦死。

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百科事典マイペディア 「リヒトホーフェン」の意味・わかりやすい解説

リヒトホーフェン

ドイツの地理学者。1860年以後東南アジア,日本,カリフォルニア,また中国の自然・文化などの調査を行った。特に中国では本土の大部分を調査。帰国後,ボン,ベルリン各大学教授。科学としての地理学の方法論を発展させた。〈シルクロード〉の命名でも知られる。著書《中国》全5巻など多数。
→関連項目ヘディン

リヒトホーフェン

ドイツの軍人。第1次大戦でフォッカー戦闘機隊を率いて活躍,自ら80機を撃墜して勇名をはせたが,北フランスで戦死。妹フリーダはD.H.ロレンスの妻。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「リヒトホーフェン」の解説

リヒトホーフェン
Ferdinand von Richthofen

1833~1905

ドイツの地理学者。初め地質学を学び,中国各地を調査して,自然,人文各分野の実態を明らかにした。帰国後,ボン大学やベルリン大学の地理学教授となった。「シルクロード」の命名者。

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旺文社世界史事典 三訂版 「リヒトホーフェン」の解説

リヒトホーフェン
Ferdinand Baron von Richthofen

1833〜1905
ドイツの地理学者・地質学者
プロイセン政府の命で東アジア探検隊に参加し,ジャワ・日本・台湾を旅行。また,東西交渉路を“ザイデンシュトラーセン”と命名したところから,その英語名“シルク−ロード”が一般化。シルク−ロードの命名者となった。

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世界大百科事典(旧版)内のリヒトホーフェンの言及

【四川[省]】より

…表層には紅色~紫色の砂岩,ケツ岩を母岩とする紫色土が広くおおうため〈紫色盆地〉とよばれる。19世紀四川を調査したリヒトホーフェンは〈赤盆地Red Basin〉と名づけている。肥力も高く,リンやカリウムなどが豊富にふくまれる。…

【シルクロード】より

…ドイツ語のザイデンシュトラーセンSeidenstrassen(複数形〈絹の諸道〉)に基づく英語訳名。ドイツ語名は,ドイツの地理学者F.vonリヒトホーフェンの大著《支那China》第1巻(1877)に用いられ,以後これを受け継いだドイツの東洋学者A.ヘルマンの著書《シナ・シリア間の古代絹街道Die alten Seidenstrassen zwischen China und Syrien》(1910)などによって普及。古来,これらの交通路を利用して西方に運ばれた中国商品の代表的なものが絹であったことから付けられた名称である。…

【地形学】より

…一方,オーストリアの地質学者E.ジュースが《地相論》の大著で,大地形の系統的な記載を試みた。またドイツのF.vonリヒトホーフェンは,地質学から転じてベルリン大学の地理学教授となり,《中国》《探検旅行者の手引》の中に地形の解説をしている。リヒトホーフェンの後を継いだA.ペンクは《地表形態学》を著し,ドイツ派の地形学に基盤をおいた。…

【地理学】より

… 19世紀の中ごろから20世紀にかけては,各国に地理学協会や,諸大学に地理学教室が次々に設置され,地理学の発展期が訪れた。ベルリン大学のF.vonリヒトホーフェンはコロロギー学派を育てたし,ライプチヒ大学のF.ラッツェルは,初めて体系的な人文地理学と政治地理学の書物を著して環境論の科学化に貢献,フランスのビダル・ド・ラ・ブラーシュ,イギリスのH.J.マッキンダー,アメリカ合衆国のE.C.センプル,E.ハンティントンらの地理学者に影響を与えた。 その後,地理学はますます専門分化しながら発達するが,地理学の本質と方法,ラントシャフト(景観,景域)や地域,環境など地理学の基本的概念に関する論議も盛んになった。…

【はげ山】より

…日本ではげ山が著しく発生したのは,近世に樹木の伐採や草地の過利用(おもに燃料および緑厩肥用として)によって,植物の再生が妨げられた結果であった。ことに人口の集中する商工業地帯に近接する里山(さとやま)にその傾向が認められ,幕末に東海道沿岸を観察したドイツの地理学者リヒトホーフェンF.von Richthofen(1833‐1905)は,風景はすべて赤茶けた土山であると記した。山土の流亡はことに地質的に粘土質に乏しい花コウ岩の深層風化や第三紀の砂礫層で構成された丘陵に著しく,もっとも著しいのは近畿地方の諸盆地をめぐる山々と瀬戸内海沿岸部とであった。…

※「リヒトホーフェン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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