クルップ(読み)くるっぷ(英語表記)Fried Krupp GmbH

デジタル大辞泉 「クルップ」の意味・読み・例文・類語

クルップ(Alfred Krupp)

[1812~1887]ドイツの製鋼業者。兵器や鉄道部品・車両などの生産で成功し、世界的軍需重工業コンツェルン、クルップ社を形成。

クルップ(〈ドイツ〉Krupp)

クループ

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精選版 日本国語大辞典 「クルップ」の意味・読み・例文・類語

クルップ

  1. [ 1 ] ( Alfred Krupp アルフレート━ ) ドイツの製鋼業者。「るつぼ鋼法」を発明し、クルップ砲を製作。大軍需企業クルップ社の発展の基礎を築いた。(一八一二‐八七
  2. [ 2 ] ドイツのクルップ社(現在はティッセン‐クルップ社)。また、同社製の後装砲。クルップ砲。
    1. [初出の実例]「此処ではクルップの鉄砲だ、隣ではアームストロングの大砲だ」(出典:福翁自伝(1899)〈福沢諭吉〉一身一家経済の由来)

クルップ

  1. 〘 名詞 〙 ( [ドイツ語] Krupp ) 臨床医学で、喉頭ジフテリアなどの場合に発する一種のしわがれ声病理解剖学では壊死(えし)を伴わない繊維素性の偽膜の形成をいう。格魯布。クループ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「クルップ」の意味・わかりやすい解説

クルップ(鉄鋼会社)
くるっぷ
Fried Krupp GmbH

ドイツの名門総合鉄鋼会社であったが、1999年、同じドイツの鉄鋼メーカーのティッセン社と合併し、ティッセンクルップ社となった。クルップの起源は、1811年、フリードリヒ・クルップが鋳鉄加工を目的にエッセンに設立したクルップ商会である。経営基盤が確立したのは2代目アルフレート・クルップの時代で、鍛鉄、機械部門にも進出した。クルップのスプーン圧延機、銃身、胸甲(鎧(よろい)の胸当て)、鉄道車両、レールなどはヨーロッパ全土に販売された。1862年にはいち早くベッセマー製鋼法ベッセマー法)を導入し、ヨハネマ製鉄所やハノーバー炭鉱を買収した。他方、大砲工場の建設などにより、垂直的統合を強力に推し進めた。

 1866年のプロイセン・オーストリア戦争、1871年のプロイセン・フランス戦争を契機に、軍需部門に生産の重点を移した。また1880年代の欧米の軍拡競争を背景に、クルップの大砲には世界各地から注文が舞い込んだ。クルップの経営原則は「政治に関与せず」ということであるが、それは戦争になれば敵味方の区別なしに武器類を販売することを意味した。1887年アルフレートの死去までにクルップの製作した大砲は、2万3000門以上に上った。なお、1836年に設置された疾病基金をはじめ、共済制度、病院建設、社宅供給など、クルップの従業員福祉制度は早くから整備されていた。

[湯沢 威]

ドイツの兵器廠

第3代目はアルフレートの息子、フリードリヒ・アルフレートである。彼の時代に装甲板の製造を開始し、ライン川下流域に新式製鉄所を建設し、マクデブルクの硬質鋳物工場、グルーゾン工場、キールのゲルマニア造船所を買収した。1902年、彼が若くしてこの世を去ると、長女ベルタがクルップ商会の全遺産を受け継ぎ、1903年には遺言により株式会社化を行った。1906年ベルタがグスタフ・フォン・ボーレン・ウント・ハルバハ博士と結婚した後は、グスタフが経営の陣頭指揮にあたった。第一次世界大戦で、クルップは大砲、軍艦、潜水艦などを供給し、ドイツの兵器廠(へいきしょう)と化した。

 敗戦後は、農業機械、繊維機械、映写機、タイプライターなど、「平和の商品」生産へと転換を図った。しかし1933年以降ナチスの勢力拡張とともに、クルップの工場はふたたび軍需産業に傾斜し、大幅な利益をあげた。1943年にグスタフにかわって長男のアルフレートが第5代目の当主となり、工場は軍需省の管理下に置かれた。アルフレートはナチスに協力したため第二次世界大戦後A級戦犯となった。クルップは、第二次世界大戦の敗戦によってふたたび壊滅的な打撃を受けた。

[湯沢 威]

戦後の経営危機と再建

第二次世界大戦後、クルップは解体され、1953年集中排除法の対象となった。この年、アルフレートはグループのトップに返り咲いたが、実質的にはイドゥナ・ゲルマニア保険会社のバートホルト・バイツに経営の全権がゆだねられた。同社は1960年代に入ってからふたたび経営危機に陥り、1967年には政府保証のもとに3億マルクの救済融資がなされた。また同年アルフレートの急死も重なり、クルップ商会は、アルフレート・クルップ・フォン・ボーレン・ウント・ハルバハ財団と、資本金50億マルクのフリードリヒ・クルップ有限会社に改組された。前者がクルップ家の全資産を引き継ぎ、後者の株式を所有した。1976年にはイラン政府はフリードリヒ・クルップ有限会社の資本の4分の1を所有した。1980年代はさまざまなリストラを行い、造船部門の売却、鉄鋼部門の縮小、特殊鋼部門の強化を図った。リストラの経営成果は、1990年の営業黒字に現れた。1993年に敵対的買収により、ドルトムントの鉄鋼・機械メーカー、ホッシュHoesch社を合併し、その結果2万人の人員削減を行った。1993年には創業以来初めて株式を上場したが、1997年度の株式所有は、アルフレート・クルップ財団が50.47%、イラン政府が22.925%であった。

 1994年にはイタリアのステンレスメーカー、アキアル・スペチャリ・テルニAccial Speciali Terni社を買収し、1995年にはさらにティッセン社のステンレス部門と合併して同分野の事業を強化した。1997年、国際的な競争力を強化するため、136億マルクを投じて、ティッセン社の敵対的買収に乗り出したが、相手方経営陣および労働組合からの強い抵抗で買収を断念した。しかし、世界市場における鉄鋼メーカーの競争激化のなかで、両企業の間の交渉は再開し、まず鋼鈑(こうはん)部門の統合交渉、ついで1999年には両企業の全面的な統合に発展した。ティッセンクルップ社ThyssenKrupp AGの成立である。この合併により、クルップ社では10億マルクのコスト削減と2000人の人員削減、またアルフレート・クルップ財団とイラン政府の持分はそれぞれ16.82%と7.64%と希釈化されることになった。

[湯沢 威]

『諸田實著『クルップ』(1970・東洋経済新報社)』『田中洋子著『ドイツ企業社会の形成と変容――クルップ社における労働・生活・統治』(2001・ミネルヴァ書房)』


クルップ(Gustav Krupp von Bohlen und Halbach)
くるっぷ
Gustav Krupp von Bohlen und Halbach
(1870―1950)

ドイツの工業家。西南ドイツ出身。外交官から、アルフレートの孫娘でクルップ家相続人であるベルタと1906年に結婚してクルップ会長となる。クルップ家の権力的地位と行動様式を皇帝ウィルヘルム2世の庇護(ひご)のもとに確立。権力に忠誠、業務能率至上主義の典型的なドイツ官僚タイプで、クルップ伝統の経営指導を貫徹しつつ、第一次世界大戦(ベルタ砲の製作)、ワイマール期再軍備を通じてヨーロッパ最大の総合的軍需企業を築いた。ヒトラーを支持してその政権獲得と第二次世界大戦の遂行を促進、「ドイツ経済指導者(フューラー)」の称号を得た。戦犯としてニュルンベルク裁判で訴追されたが、病気により免れる。

[福応 健]


クルップ(Alfred Krupp)
くるっぷ
Alfred Krupp
(1812―1887)

ドイツの製鋼企業家。14歳で父フリードリヒ(1787―1826)から引き継いだエッセンの小鋳鋼場を、世界的重工業兵器企業に発展させ、クルップ家の5代にわたる事業を確立、エッセンをクルップの町としてルール重工業史上に巨歩を記した。父譲りの優れた鋳鋼技術のうえに発明を重ね(スプーン圧延機、継ぎ目なし車輪など)、おりから工業化のさなかに展開する鉄道業を基盤に、1840年代に企業の飛躍的拡大を達成。製品信用を重視する高品質高価格政策とともにプロイセン軍部に食い込み、制式砲に採用されたクルップ砲のプロイセン・オーストリア戦争、プロイセン・フランス戦争での効果により、兵器企業としての成長を確実にした。また製鋼技術ではもっとも早くベッセマー法を採用し、ジーメンス‐マルタン法の採用、採炭から最終製品まで一貫する「混合企業」の形成などルール重工業の方向を打ち出しつつ、独自の労働者政策や同族的企業組織などで特徴的な「クルップ経営」を樹立した。

[福応 健]

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百科事典マイペディア 「クルップ」の意味・わかりやすい解説

クルップ[会社]【クルップ】

正称はFried.Krupp AG Hoesch-Krupp。旧フリート・クルップ会社Fried Krupp AG。1811年ドイツの産業革命前夜に小鋳鋼工場として発足,大砲など武器製造で発展し,幕末の日本でも幕府の軍艦開陽丸の大砲として同社製のものが搭載されていた。20世紀初めには,すでに石炭,鉄鋼,造船,機械などにわたる大総合コンツェルンを形成。ナチスが政権を獲得すると兵器生産によってこれに協力。空襲や戦後の占領軍による企業解体で生産設備などに打撃を受けるが鉄鋼プラントなどの拡大で復活。社会主義圏,開発途上国などとの取引も活発化したが,売上13億ドル弱に達した1965年ころを頂点に,石炭・鉄鋼の斜陽化,延払輸出の資金難などから経営危機を招いた。1970年代半ば以降,再び軍事関連部門に参入。財政危機に陥った。1976年以降イラン政府からの資本参加を受け入れている。1993年鉄鋼のHoeschを買収。1993年株式公開。1998年10月,同じく鉄鋼のティッセンと合併。新会社ティッセン・クルップが誕生した。
→関連項目ウィディアエッセンクルップザハロフ死の商人超硬合金兵器工業

クルップ

クルップ会社の基礎を築いたドイツの製鋼・兵器業者。1826年14歳で父フリードリヒFriedrich〔1787-1826〕の工場を継いだ。1843年以降,従来の青銅にかえて鋳鋼によるクルップ砲製造に進み,皇太子(後のウィルヘルム2世)の信任を得,事業を拡大した。子のフリードリヒ・アルフレートFriedrich Alfred〔1854-1902〕は軍拡の波に乗って造船に進出,鉄鋼部門の銑鋼一貫体制をとるなど,大コンツェルンを形成した。事業は妻マルガレーテを経て,長女ベルタの夫グスタフGustav〔1870-1950〕が継ぎ,両度の大戦でさらに膨張したが,その子アルフリート〔1907-1967〕は敗戦後ニュルンベルク裁判で有罪となった。
→関連項目大砲

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改訂新版 世界大百科事典 「クルップ」の意味・わかりやすい解説

クルップ
Alfred Krupp
生没年:1812-87

ドイツのクルップ社の基礎を築いた人物。エッセンに生まれ,1826年,14歳で亡父フリードリヒFriedrich(1787-1826)のエッセンにあるささやかな鋳鋼所(フリードリヒ・クルップ商会。1811設立)を受け継ぎ,さじ圧延機の発明,鉄道建設ブームに対応した各種鉄道部品の製造などにより,クルップ社の基礎を確立した。43年以降彼が多大な力を注いだ鋳鋼製の大砲は優れた性能で諸外国の注目を集め,大砲は青銅製であるという当時の常識を塗りかえた。こうして50年代以降クルップ社の鋳鋼製品は広く世界の市場へ進出し,さらに皇太子(のちのウィルヘルム2世)やビスマルクの信用をかちとり,70年以降クルップ社はドイツ軍部と深くかかわっていく。また彼は,ベッセマー法やシーメンズ=マルタン法など新技術の導入にも積極的に取り組み,ドイツ鉄鋼業界においてつねに先導的役割を果たし,その発展に寄与した。彼の没年までにクルップ社の製造した大砲は2万3000門余にのぼり,〈大砲王〉の名で知られている。息子フリードリヒ・アルフレートF.Alfred(1854-1902)の代には,クルップ社は世界で最も大きい軍需企業の一つに数えられるようになった。なおクルップ家の事業はその後,孫娘ベルタの夫グスタフ(1870-1950)を経てアルフリート(1907-67)に引き継がれたが,彼の死後はクルップ家の関与は希薄になった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クルップ」の意味・わかりやすい解説

クルップ
Krupp AG

ドイツの重工業企業。1811年にフリードリヒ・クルップがエッセンに鋳鋼工場を建てたのが始まりで,その息子アルフレートのもとで一大コンツェルンに成長した。ことに 1840年代から兵器生産に乗り出し,軍備拡張を進める列強諸国に販売して巨利をあげ,ルールの鉄鋼,石炭を基礎にドイツ産業界に君臨した。1933年ナチス政権成立とともに積極的に協力,軍備拡大の主翼を担い,ナチス政権からも「クルップ法」によって保護された。第2次世界大戦後首脳部は戦争犯罪の罪を問われ,コンツェルンの解体が宣告されたが,1953年再建され,ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の企業として発展した。兵器生産からは離脱したが,中近東,南アメリカ,旧ソビエト連邦,東ヨーロッパ,さらに中国にまでプラント輸出を進めるなど海外政策も積極的に展開,1967年に一時経営難が伝えられたが,経営の近代化と政府保証の救済融資により立ち直った。1968年拡大策を推進するため有限会社に改組。1974年国内大手鉄鋼メーカーのシュタールベルケ・シュドベストファーレンを傘下に加え,さらに 1975年イランの国有鉄鋼会社と共同出資によるイラン=クルップ・インベストメントをスイスに設立,世界的な投資活動を進めた。おもな事業は鉄鋼,プラント,造船,機械エンジニアリング,貿易・サービス。貿易・サービス部門はグループ製品販売のほかチェーンストア,デパート,レストランなども経営した。1999年,競合のティッセンと合併してティッセンクルップとなった。(→クルップ家

クルップ
Krupp von Bohlen und Halbach, Gustav

[生]1870.8.7. ハーグ
[没]1950.1.16. ザルツブルク近郊ブリュンバハ
ドイツ最大とうたわれた鉄鋼会社クルップの総支配人。 1902年養父の跡を継ぎ支配人となり,第1次世界大戦中兵器の生産で巨富を築いた。 1933年アドルフ・ヒトラーとの会見後,熱心な支持者となり,積極的に財政的支援に乗り出し,ドイツの再軍備を強く支持した。第2次世界大戦でも兵器生産に傘下の企業をあげて協力。戦後アメリカ軍事法廷で 12年の刑を言い渡されたが病気のため息子のアルフリートが代わって服役した。 (→クルップ家 )

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「クルップ」の解説

クルップ
Krupp

ドイツの大軍需企業およびその経営者一族の名。フリードリヒ・クルップ(Friedrich Krupp,1787~1826)が,1811年に鋳鋼工場を創設して基礎を築き,「大砲王」と呼ばれた息子のアルフレート(Alfred,1812~71)の代に,軍需企業として躍進,3代目フリードリヒ・アルフレート(Friedrich Alfred,1854~1902)は経営を一大コンツェルンに発展させた。養子グスタフ(Gustav,1870~1950)とその子アルフリート(Alfried,1907~67)は,ナチスの再軍備に協力してニュルンベルク国際軍事裁判の被告となり,経営は連合国の手で解体されたが,数年にして再生,ヨーロッパ最大の鉄鋼会社に復活した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「クルップ」の解説

クルップ
Krupp

ドイツの鉄鋼・兵器産業を中心とする財閥
フリードリヒ=クルップが1811年エッセンに鉄鋼工場を建て,子のアルフレッド=クルップの代から普墺戦争・普仏戦争に乗じて発展した。アルフレッドはベッセマー製鋼法を導入し,「大砲王」と呼ばれる。その子フリードリヒ=アルフレッド=クルップの代には世界有数の軍需企業となり,「死の商人」として世界各国に兵器を販売し,ヒトラーはクルップ家に対し超市民待遇を与えるなど優遇した。第二次世界大戦後連合軍により解体されたが,着々と復興し,1960年ごろには世界有数の大企業となった。

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世界大百科事典(旧版)内のクルップの言及

【社会進化論】より

…そしてヘッケル以外にも,L.グンプロビチ,ラッツェンホーファーG.Ratzenhoferの闘争を重視する社会学派,シャルマイヤーW.SchallmayerやプレッツA.Ploetzの優生学的主張,A.アモンのような楽天的な競争社会観など,多くの生物学主義的社会理論が輩出した。なかでも1900年の〈国家の国内政策の発展およびその立法に関して,われわれは進化論の原理から何を学ぶか〉というA.クルップの懸賞問題は,この思想の広範な浸透を象徴する事件として有名である。 欧米における進化論の啓蒙期と明治の西欧思想のとり入れ時期とが重なったため,日本には大量の西欧思想の一部として,最新の社会ダーウィニズムも流入した。…

※「クルップ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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