目次 自然 社会 文化 政治 経済 経済の歩み メキシコ経済の奇跡 経済危機の克服 反米感情と親日路線 歴史 先スペイン時代 植民地時代 近代 現代 日本・メキシコ関係史 基本情報 正式名称 =メキシコ合衆国Estados Unidos Mexicanos 面積 =196万4375km2 人口 (2010)=1億1065万人 首都 =メキシコ市Ciudad de México(日本との時差=-15時間) 主要言語 =スペイン語 通貨 =メキシコ・ペソMexican Peso
北アメリカ大陸の南部にある合衆国。北はアメリカ合衆国,南東はグアテマラおよびベリーズと国境を接している。メキシコとは,古代アステカ帝国の言語であったナワトル語の〈メシコ〉に由来する。その語源に関してはさまざまな説があるが,一般には,太陽と戦いの神ウイツィロポチトリの別名〈メシトリ〉と,場所を表す〈コ〉から成り,〈メシトリの地〉を意味すると解釈されている。現在,メキシコでは自国のことをメヒコと発音する。 執筆者:高山 智博
自然 ラテン・アメリカ第3位の面積をもち,その国土は熱帯から亜熱帯地域にまたがっているが,大部分は山地と広い高原で,気候も海岸の低地を除くと,一般に温暖または冷涼である。このため低地ではサバンナ,高原ではステップ気候が卓越している。
アメリカ合衆国から続くシエラ・ネバダやロッキーの山脈が,メキシコに入ってシエラ・マドレとなって,国土を北西から南東に走っている。西シエラ・マドレは太平洋岸に沿って,東シエラ・マドレはメキシコ湾側に連なる。この両山脈は南に向かうにつれて高度を増し,南部の太平洋岸で合して南シエラ・マドレとなって東西に走り,テワンテペク地峡 を越えてグアテマラに至っている。東・西のシエラ・マドレと南シエラ・マドレに囲まれた地域は,標高1000~2000mの広大なアナワク高原 (メキシコ中央高原)となっている。南シエラ・マドレの北側に,バルサス低地帯をはさんで,これと平行に東西に走るメキシコ新期火山帯があり,東・西のシエラ・マドレと重なって,ポポカテペトル,イスタクシワトル,オリサバなど,標高5000mを超える高い火山列をつくっている。太平洋の沿岸は山地が海に迫って,入江や断崖が多いが,メキシコ湾沿岸には砂浜や湿地の多い低地が形成されている。南のユカタン半島は,水平な石灰岩の地層から成り,低平な丘陵地となっている。
降水量は,カリフォルニア湾沿岸において最も少なく,年間降水量は100mmにも満たない。またアナワク高原の北部でも降水量は少なく,年間200~400mmの地域が続き,砂漠やステップが広がる。アナワク高原も南に向かうにつれて降水量は増加し,メキシコ市付近では,年間1000mmに達するようになる。メキシコの多雨地域は,テワンテペク地峡の北側,ベラクルス州,タバスコ州にあり,年間4000mm以上の降水量を記録する所もある。国土の中央部を北回帰線が走り,低緯度にあるにもかかわらず,アナワク高原は,その高さのため気温は比較的低く,メキシコ市では年平均気温は16℃,最暖月の5月でも19℃にしか達しない。南のテワンテペク地峡付近では高温多湿となり,熱帯雨林気候となる。 執筆者:田嶋 久
社会 国民の8割以上が白人(主としてスペイン人)と先住民(インディオ )との混血(メスティソ ),それに約1割の先住民と1割以下の白人といった独特な人種構成をもつ。その起源は1521年のスペイン人によるアステカ王国の征服にさかのぼる。スペインの征服者エルナン・コルテス自身,先住民の女性マリンチェとの間に子を残しているので,彼はその意味でも混血の国メキシコの祖といえよう。しかしその後,300年にわたる植民地時代は,スペイン人を支配者とし,先住民を被征服民とする階級差が大きい二元的社会であった。混血は時代とともに増え続け,社会的には周辺的な存在であり,スペイン人の下にあって先住民を搾取する側に属した。だが国民の大半が混血である現在では,メキシコは人種問題に関してはアメリカ合衆国や日本よりもきわめて開かれた国となっている。
メキシコは現在でも,他の多くのラテン・アメリカ諸国と同様,貧富の差が大きい社会といえる。それは植民地時代のスペイン人を主人とし,インディオを従属民とする二元的社会という構造が十分に解消されていないからである。それと同時に,征服以後,メキシコ全土において混血化が進行し,皮膚の色による序列がみられる複雑な社会がつくり出された。メキシコは1821年にスペインから独立したが,こうした社会構造そのものにはあまり変化がみられなかった。なぜならば独立戦争そのものが,政治などの実権を牛耳るペニンスラール (本国から派遣されたスペイン人)の支配を不満とするクリオーリョ(新大陸生れのスペイン人)の反乱という側面が強かったからである。したがって,独立後,法の下の平等はうたわれたが,現実にはペニンスラールに代わってクリオーリョが支配者の座に就いただけであった。先住民出身の大統領ベニト・フアレス も出現したが,それはむしろ例外といってよかった。相変わらず先住民や混血は国内の地主や外国人企業家によって搾取され続けた。このような状況に対して起こったのが,1910年のメキシコ革命 である。これは全国民を巻き込む戦争となり,その結果として,農地改革のもとになる条項や労働者の保護をうたった条項を盛り込んだ1917年憲法が生まれた。これによって確かに社会的には大きな変化がもたらされたが,経済格差を解消するところまではいかなかった。とくに40年以降,増産と工業化が促進されて全体的に発展し,中間階級が増大したとはいうものの,貧富の差はなくなっていない。現在でも,中間階級以上の〈発展した部分〉と,貧しい農民や都市の下層労働者から成る〈周辺部分〉が存在する。
目だった変化を見せているものに人口増加がある。1940年に1981万人だった人口が,60年には3604万人となり,80年には6740万人,96年には9271万人,2005年には1億0700万人と驚くべき急増ぶりを示した。また教育の普及により,1930年には6歳以上の人口の66.6%が文字を読めなかったが,2003年には9.7%と激減した。保健面での向上も目覚ましく,1940年に41歳だった平均寿命が,2003年には男72歳,女77歳に延びている。
文化 メキシコには2万年の長さをもつ独自の文化が存在した。もちろん,それが現在まで存続しているわけではない。16世紀に起こったスペイン人による征服の結果,この地にスペイン文化が移植され,それが新たなメキシコ文化の基調となった。しかし先住民が住む地方では,いまもインディオ的な生活様式が見られ,そこでは外来のスペイン文化が土着のものと融合した形になっている。メキシコには現在,ナワトル,マヤ,サポテカといった固有の言語や文化をもつ民族集団が56も存在し,その数は800万~1000万人にものぼると見られている。メキシコ文化とか国民文化などと呼ばれているものは,ヨーロッパ文化を主体にした混血文化といってよいであろう。しかしメキシコ文化が即スペイン文化ではなくて,混血文化であると認識されるようになったのは,それほど古いことではなく,メキシコ革命以後であるといってよい。それ以前は,近代化=ヨーロッパ化であるとみなされ,遅れた文化をもつインディオはヨーロッパ文化によって文明化されるべきであると考えられていた。
革命が一段落した1921年に文部大臣に就任したバスコンセロス José Vasconcelos(1882-1959)は,民族主義教育を推進し,また画家たちに公共建築の壁面を提供してメキシコの歴史や民衆の生活をテーマにした壁画を描かせた。これが有名な〈壁画運動 〉である。このようなメキシコ文化の創造の一つとして,バスコンセロスなどの哲学者による〈メキシコ的なもの〉の探求もあげられる。またインディオ的なものがメキシコのルーツの一つであるとみなされ,先住民が築いた古代文明に対する関心が高まったり,貧しい生活を強いられているインディオの向上を図る〈インディヘニスモ 〉が活発化したりした。しかしながら,このインディヘニスモは,インディオを国民文化に統合することを目標としたものであった。メキシコのインディヘニスモの指導者,カソ Alfonso Caso(1896-1970)によれば,インディヘニスモとは,〈メキシコに住むインディオを,実際にメキシコと彼ら自身の発展のために貢献するようなメキシコ人に変えていくこと〉なのである。しかしこの目標は,1960年代末に批判されることになる。それを追求することは,インディオの否定につながるとみられるようになったからである。そして彼ら固有の民族としてのアイデンティティ の尊重が叫ばれた。従来の混血文化という単一文化をもつ国家よりも,多文化・多民族文化のほうが豊かだという認識に変わったのである。しかし現状は,メキシコ政府や多くの学者の呼びかけと支援にもかかわらず,多様で他に類のないメキシコの伝統文化が,多国籍企業の進出やアメリカ文化の浸透により,重大な岐路に立たされている。 →ラテン・アメリカ美術 →ラテン・アメリカ文学 執筆者:高山 智博
政治 現代メキシコの政治の最も顕著な性格は,その安定度の高さである。武装反乱やクーデタを日常茶飯事とするラテン・アメリカの政治風土の中で,1930年以来半世紀以上にわたって武力革命やクーデタの経験をもたないメキシコは,政治的にはこの地域の例外といってよい特異な存在である。この国の政治が高度な安定性を保っている理由として,次のようなことがあげられる。(1)軍部が政治に介入しない。(2)一党支配体制が確立している。(3)大統領の権力がきわめて強大である。以上の三つは,それぞれメキシコの政治の特徴として相互に密接に関連し合って,他のラテン・アメリカ諸国とは異なったこの国独自の政治構造を形づくっている。
第1の特徴である軍部の政治不介入は,20世紀初頭のメキシコ革命の経験に由来する。革命の過程は10年以上に及ぶ武力闘争の連続であった。革命を最終的に収束した政治指導者たちは,暴力の主体たる軍部を政治の支配下に置くことによって政治そのものを安定させようと試み,成功した。具体的には,兵力の縮小,軍事予算の削減,軍部の権限の法的規制などによるが,最も効果的だったのは,労働者,農民,官僚などの非軍事的勢力から成る政党を結成し,軍部の政治に対する影響力を封じ込めてしまったことである。言い換えると,政党の創設によって政治を制度的に整備されたものとし,軍部という直接的暴力が政治に介入する余地をなくしてしまったのである。軍部の政治からの排除は1940年代に完了し,46年以降,歴代の大統領はすべて文民出身である。
第2の,そして最大の特徴は,制度的革命党(PRI)による一党支配体制にある。PRIの誕生は1946年であるが,その前身は1929年に創設された国民革命党(PNR)である。PNRは軍部以外の諸政治勢力の糾合体であり,この政党こそが政治から軍部を追放した主体であった。もともとPNRは,雑多な集団によって構成された革命勢力が革命を成功させたことによって獲得した権力を維持・強化する目的で結成されたものである。このような経緯から,PNRは誕生した時点ですでに唯一の政党だったわけであり,また権力を獲得するためにつくられた他の国の多くの政党とは性格を異にしていた。
こうして1929年以降,メキシコは一党支配体制下に置かれていたが,これは,社会主義国に見られるような一党独裁体制とは必ずしも同じではない。というのは,社会主義国とは異なって,メキシコにはPRI以外にもいくつかの政党が存在するからである。それらは,国民行動党,人民社会党,メキシコ共産党などである。しかしこれらの野党は,党員数,動員力,議席数,得票率などあらゆる面で与党とは大きな隔りがあり,PRIに比肩しうる存在ではない。事実,PRIはメキシコの全有権者数の3分の1にあたる1000万人以上の党員を擁し,大統領選挙でも上・下両院議員選挙でも70%を下回る得票率を記録した経験はなく,90%以上の投票を獲得したことさえある。議席数についても,上院のほとんど全議席,下院議席の4分の3以上はつねにPRIによって占められている。こうしたことからメキシコでは,形式的には複数の政党による民主的な政治が営まれているものの,実際には野党は,政党間の競合という民主政治のたてまえを保つための存在にすぎない。野党の議席の大半は,選挙の結果として有権者の力で獲得したものではなく,そのままではあまりにも議席数が少なくなってしまうために,得票率に応じて政府,すなわちPRIが配分し与えたものである。メキシコの政治においては,野党はむしろ圧力団体に近い存在とみることができる。
PRIは,創設時の超階級的性格をいまだに保っているばかりでなく,今日ではほとんどあらゆる職業分野の団体と個人をその傘下に収めている。このような超階級的・職能横断的性格によって,PRIは国民の各層から幅広い支持を集めることに成功している。しかもこうした性格が,PRIを社会主義国家の一党独裁政党のような,一枚岩的な固い組織となることから免れさせている。したがってPRIの内部には,労働組合や農業協同組合を含む各種の利益集団の利害と意見の対立が存在している。PRIは,外部には競合すべき組織をもたないが,その内部では諸集団間の競合が行われているのである。政治の領域における各主体間の相互作用の総体を政治システムと呼ぶとすれば,メキシコの場合は,PRI自体が一つの政治システムを形成しており,社会主義国家ではないにもかかわらず,単一の政党によって政治システムのほぼ全体が成り立っているところに,政治構造の独自性がある。
PRIによる政治的統合は,言い換えれば政治の制度化ということになるが,この制度化がこれまでのところ順調に成し遂げられてきたのは,メキシコの政治の第3の特徴である大統領の強大な権力によるところが大きい。PRIの頂点に立って政治を支配しているメキシコの大統領は,国内的にはアメリカ合衆国の大統領をはるかに上回る権限を保持している。PRIの党首は一応全国幹部会の議長ということになっているが,実質的なリーダーは大統領である。そして,議会は両院ともPRIの圧倒的支配下にある以上,アメリカ合衆国のような議会と大統領の対立,あるいは議会による大統領の権力のチェックといった事態は起こりようもない。全閣僚および連邦区(メキシコ市)知事の任免権は大統領に属しており,住民の直接選挙で選出される各州知事も大統領がその罷免権を有している。このように制度的に保障された権限とともに,ペルソナリスモ personalismoというこの国特有の政治風土が,大統領の権力をさらに強固なものとしている。
ペルソナリスモとは,政治思想などを抽象的な形で理解することができないために,それを特定の個人に投影して見ることであり,個人崇拝,個人絶対の形をとると同時に,公的な人間関係に私的な人間関係が介入する契機となっている。メキシコの社会的疾病の一つといわれる政治的腐敗もここに由来しているが,他方このペルソナリスモこそが,大統領がPRIを統合することを可能にしているといえる。ペルソナリスモは社会の各レベルで見られる現象であるが,その諸レベルの頂点に位置しているのが大統領だからである。PRI内部の諸集団間の競合は,これを放置すればやがて内部紛争に発展し,党分裂の危機を招くかもしれない。しかし,ペルソナリスモに裏打ちされた強大な権力をもつ大統領が,最終的な紛争調停者,利害の調整者として存在することにより,競合は分裂をもたらすことなく,むしろ組織の活力として安定の方向に作用する。
メキシコの政治は,PRIの一党支配体制による政治の制度化と,強大な権力を握る大統領に象徴されるペルソナリスモという政治風土とで,その安定が維持されている。もしこの安定が崩れることがあるとすれば,それは,近代化の産物である制度化と,伝統に根ざした政治風土との矛盾が露呈したときであろう。 執筆者:二村 久則
経済 1970年代の石油危機は多くの国の経済に大きな衝撃を与えたが,メキシコ経済はその石油危機の進行とほぼ並行して発見された巨大な石油資源の開発により目覚ましい発展を遂げた。とはいえ,メキシコは,イランその他の産油国のように石油以外にみるべき産業をもたない発展途上国とは異なり,88年の1人当り国民総生産が1820ドルという中進国であり,同時に巨大産油国でもあるという国は,世界経済史上初めての国であった。83年の潜在埋蔵量2500億バレル,確認埋蔵量725億バレルという石油賦存量は,メキシコを世界第5位の石油大国に押し上げたが,その大部分が1970年代の石油危機の進展と並行して発見されたことはきわめてドラマティックであった。しかも,そのような巨大産油国でありながら,OPEC(石油輸出国機構 )に加盟していなかったので,OPECによる原油価格や生産量の操作によって重大な影響を受けていた日本など石油消費国のメキシコ石油に対する期待が高まった。
経済の歩み 19世紀後半から1910年のメキシコ革命勃発までの経済は,封建的な大土地所有制と外国資本の投資に依存した植民地経済であった。製鉄所がつくられ,鉄道が建設され,鉱山が開発され,農産物は輸出されたが,その利益の大部分は外国資本や大地主など一部の特権階級に独占され,国民の90%以上を占めた農民はなんらの恩恵にも浴することがなかった。土地なき農民の武力蜂起を中心として始まったメキシコ革命により,外国資本は逃避し,工業や農業も崩壊し,20年代後半になってやっと回復の途についたが,29年の世界経済恐慌が追打ちをかけたため,30年代の経済は混乱のうちに推移した。34年に発足したカルデナス 政権は,労働組合や農民団体の支援を背景に,鉄道や石油産業の国有化,土地改革による農民への農地分配,国家が経済活動において指導的役割を果たすという〈混合経済体制〉の導入,財政・金融制度の整備,道路・港湾・灌漑施設などインフラストラクチャー の建設などを推進した。
第2次大戦はメキシコ経済に発展の契機を与えた。直接戦火を被らなかったメキシコは,連合国への主要な戦略物資供給国として農産物や天然資源を大量に輸出し,史上空前の外貨を獲得すると同時に,戦争のために輸入できなくなった工業製品を国内で生産するために輸入代替工業化政策を進め,各種産業の振興を図った。土地改革によって農民の生産意欲が向上し,農民の所得が増加していたので,国内需要は旺盛で新興の民族産業資本の発展を助長した。そして,第2次大戦終了時には,メキシコはかつての一次産品輸出国から新たな工業国へと変貌していた。
メキシコ経済の奇跡 第2次大戦後から1970年にかけての経済発展は目覚ましく,〈メキシコ経済の奇跡〉として世界の注目を浴びた。第1の特徴は,長期にわたる高度経済成長であった(1940-60年の年平均実質経済成長率は6%を上回り,60-70年には7.1%という,発展途上国のなかでも例の少ない高さであった)。第2は,インフレなき成長を実現したことである。この時期のラテン・アメリカ諸国はいずれも高率のインフレに襲われていたが,メキシコは生活必需品の価格統制や最低賃金制の運用によって物価の抑制に成功した。第3は通貨の安定であり,メキシコ・ペソは1954年から76年まで,為替管理を行うことなしに,対ドル為替レートを維持した。これらの特徴は,当時のラテン・アメリカ諸国の実情と対比して,〈奇跡〉というべき実績であった。しかしその奇跡の陰に忍びよっていた諸問題は,1970年代に至り,石油危機の影響とあいまって経済危機をもたらした。
エチェベリアLuis Echeverría Álvarez(1922- )政権(1970-76)は国内的には労働者,農民寄りの政策をとって民間経済界と対立し,対外的には外資規制法の制定や国連を舞台とした第三世界外交によってアメリカ合衆国などの先進諸国の反感を招いたため,経済は停滞傾向をたどり,不況による失業の増大やインフレなどの問題が顕在化した。そこで政府は外国から多額の借款を導入し,公共部門主導の政策によって経済を再建しようとしたが,第1次石油危機により事態はいっそう深刻化した。とくに公的対外債務が同政権期に5倍以上に増加し,200億ドルを超えたことは内外の通貨不安を高め,76年8月,メキシコはついに22年間にわたる固定為替相場を放棄して変動相場制に移行し,ペソは大幅な下落を余儀なくされた。
経済危機の克服 ペソ下落に象徴された未曾有(みぞう)の経済危機のさなかに発足した,ロペス・ポルティーヨJosé López Portillo(1920-2004)政権(1976-82)は,労働者には賃上げ自粛を,民間経済界には積極的な投資を要請し,対外的にはアメリカ合衆国など先進諸国との関係改善を図り,外国投資の導入を促進した。また〈天然資源は国内消費に必要なだけ生産し,将来のために温存すべきである〉という歴代政権の方針から〈現在の危機を乗り切るために石油開発を推進し,石油輸出収入を有効に利用すべきである〉というように石油政策を大きく転換した結果,石油産業が経済のリーディング・セクターとなり,経済成長率は1978年8.2%,79年9.2%,80年8.3%,81年8.1%と高水準を達成し,年間約70万人の新規雇用が創出され,〈国家工業開発計画〉〈総合開発計画〉〈国家エネルギー計画〉など意欲的な開発計画が推進された。そして,メキシコ経済の前途は洋々たるものとみられ,各国金融機関は競ってメキシコに融資を行い,多国籍企業の進出が加速され,先進諸国首脳のメキシコ訪問が続いた。
それだけに,82年8月13日の〈メキシコ金融危機〉の与えた衝撃は大きかった。(1)800億ドル以上の対外債務,(2)史上空前の高インフレ,(3)ペソの暴落,(4)為替管理の導入,(5)国内民間銀行の国有化,(6)企業倒産と失業の急増,(7)社会階層間の貧富の差の拡大などを特徴とする経済危機のなかで,82年12月1日にデ・ラ・マドリMiguel de la Madrid Hurtado(1934- )政権が発足した。
金融危機の原因は,(1)原油価格反落による外貨収入の減少,(2)混合経済体制に伴う非効率と巨額の財政赤字,(3)国際金利上昇による金利負担増,(4)工業生産能力の限界,(5)輸送・流通能力の限界,(6)熟練労働者など人的資源の限界,(7)農業生産の不振と大量の食糧輸入,(8)国内の資金不足(9)労働運動の激化と賃金上昇などであった。要するに,6%程度の経済成長に適した体質であったメキシコ経済が,巨額の石油収入という要因を背景として,短期間に高度成長路線へと転換したために過熱現象を生じ,多くの部門に不均衡とボトルネックを生み出したということであった。
デ・ラ・マドリ政権は若手テクノクラートの登用,綱紀粛正の推進,民間経済部門の活力強化,国有化銀行に対する補償の履行,IMFとの協定の順守,為替レートの小刻み切下げ政策,外資政策の弾力的運用,対米柔軟路線への転換などにより,第2次大戦後最大といわれた危機を着実に克服し,84年には3年ぶりに経済成長をプラスに転換した。対外債務問題についても国際民間銀行団との間で多年度一括リスケジュールを成功させ,対外債務問題解決のための〈メキシコ方式〉を定着させた。
反米感情と親日路線 メキシコは19世紀中葉にアラモの戦を頂点とするアメリカ合衆国との戦争に敗れ,テキサス州,カリフォルニア州など国土の51%に相当する地域をアメリカ合衆国に〈強奪〉されたと感じている。メキシコ革命が最大の敵とみなした外国資本の中心をなしていたのも,アメリカ合衆国資本であった。したがって〈特定の外国(主としてアメリカ合衆国を意味する)に経済的に過度に依存すること〉は歴代政権にとってタブーとされてきた。にもかかわらず3000km以上にわたって陸続きの国境を接するアメリカ合衆国経済の浸透力は強く,1983年においても輸出,輸入,直接投資の70%前後はアメリカ合衆国によって占められた。エチェベリア大統領もロペス・ポルティーヨ大統領もともに日本を公式訪問し,日本との経済関係の拡大・強化を要請し,毎年100名ずつという大規模な留学生交換計画や文化交流協定,各種の経済協力協定に調印している。これらはアメリカ合衆国の圧倒的な経済力の圧力を軽減するために日本やヨーロッパ諸国との貿易,投資,経済協力を拡大したいという願望の現れであった。日本にとっては,石油輸入の大部分を占める中東諸国の政情が不安定であり,かつOPEC加盟の産油国の強引な石油戦略によってしばしばエネルギーの安定供給を脅かされた経験からみても,太平洋の対岸に位置し,過去半世紀以上にわたって安定した政情を維持し,しかもOPECの政策に拘束されずに,独自の石油政策をとりうるメキシコの石油は,エネルギーの安定供給のために必要不可欠のものである。21世紀をめざしてメキシコが工業化政策に力を入れれば入れるほど,日本の資本財,中間財,投資,技術移転に対する需要が高まることは必定である。このように両国経済は経済摩擦を起こすような競合関係にはなく,相互に利益を分かち合えるような相互補完関係にあることからみて,今後日本とメキシコは経済のみならず,政治や社会や文化の面でも友好度を高めてゆくことになろう。 執筆者:丸谷 吉男
歴史 メキシコの歴史は,大きく分けると,先スペイン時代,植民地時代,独立以降の時代の三つの時期に区分される。先スペイン時代はH.コルテス によるアステカ王国征服(1519-21)以前の時期であり,植民地時代はスペインが支配した1521-1821年の300年間を指す。独立以降の時代はメキシコがスペインから独立した1821年以降を指し,なかでも社会革命が勃発した1910年を現代史の起点とするのが普通である。
先スペイン時代 アメリカ大陸最初の住民は今からおよそ3万5000年前にベーリング陸橋 を渡ってアジア大陸から移住したと考えられるが,メキシコでこれまでに発見された最古の住民の痕跡(メキシコ市南東約30kmのトラパコヤTlapacoya遺跡)は約2万1000年前のものと推定されている。メキシコ古代文明の母と呼ばれるオルメカ文化 がメキシコ湾岸低地帯に出現したのは紀元前1200年ごろであった。暦やゼロの概念を有し,巨大人頭石像を残したこの文化は,前500年ごろに衰退した。その後,紀元前後から900年ごろにかけて各地方でさまざまな文化が栄えた。なかでも太陽と月のピラミッドで知られるアナワク高原のテオティワカン文化 は350-650年に繁栄し,その他の文化に大きな影響を与えたことが知られている。
その後のアナワク高原では13世紀後半にメシカ族が北方より南下し,古代メキシコ文明の中で最強といわれるアステカ王国を築いた。アステカ王国は16世紀初めには今日のグアテマラ国境までその勢力圏を拡張し,現在メキシコ市のあるテスココ湖上に築かれた首都テノチティトランは,スペイン人が初めてここに到着した1519年に人口8万人を擁していた。コルテスに率いられたスペイン軍は1519-21年にアステカ軍と戦い,湖上の首都を陥落させた。わずか数百人のスペイン人がアステカ王国を征服できたのは,ヨーロッパ文明の武器や戦術が古代文明の段階にとどまっていたアステカ文化の武器,戦術に勝っていたほか,アステカ王国がすでに絶頂期を過ぎて内部で社会不安が高まっており,勢力圏内の一部の部族が寝返ってスペイン軍に荷担したからであった。
植民地時代 植民地時代の300年間はその発展過程によって次の三つの時期に分けられる。(1)征服とそれに続く探検および開発の時代である16世紀。(2)先住民人口が激減し経済活動が停滞したが,のちのメキシコ社会の特色の多くを形成した17世紀。(3)経済活動が再び活発となり,社会が新たな躍動を始める18世紀。
16世紀は別名〈征服の世紀〉とも呼ばれ,軍事的征服と並行して,精神的征服としての先住民のキリスト教化を目ざす宣教師たちの,熱心な布教活動が顕著な時代でもあった。一方,16世紀半ばにサカテカスやグアナフアトで有望な銀鉱脈が発見されると鉱山開発ブームが起こり,それに伴ってスペイン人による北部辺境地の開発が急速に進められた。この間1528年に,重要な司法行政庁であるアウディエンシア が最初の植民地統治機関としてメキシコ市に設置され,ついで35年には広大な新大陸スペイン領を二分して治めた副王庁の一つがメキシコ市に設置されて,スペイン王室の植民地統治機構が整えられた。
植民地経済の開発はエンコミエンダ 制による先住民労働力の徴発によって始められたが,この制度によって農業,鉱山開発,都市の建設などのために動員された先住民は,過酷な労働とスペイン人が持ち込んだ天然痘など未知の病気のために16世紀を通じて人口を激減させた。征服直前のアナワク高原における推定人口約2500万人は,17世紀初頭には約100万人にまで減少したと推計されている。一方,過酷な労働から先住民を救おうとする先住民保護運動がラス・カサス らによって展開され,王室はエンコミエンダ制 を制限したが,先住民人口の減少によりエンコミエンダ制は実質的に存在価値を失っていった。エンコミエンダ制に代わって16世紀末から17世紀前半にかけて出現したのがアシエンダ 制(大農園)である。アシエンダは単なる大土地所有制であるだけでなく,半封建的な社会経済組織体へと発達した。とくに北部や辺境地のアシエンダは地理的孤立性や流通貨幣の不足から自給自足を原則として発達し,独自の地域社会を形成した。
18世紀に入るとメキシコは新たな銀ブームを迎え,経済活動が活発となった。とくに啓蒙君主として知られるスペイン国王カルロス3世 の時代に実施された〈ブルボン改革〉と呼ばれる行政改革と産業振興政策は,メキシコの発展に大きな影響を及ぼした。貿易自由化政策はメキシコの貿易を増大させ,経済の繁栄は多くの新移民をスペインからもたらし,植民地社会を活発化させた。一方,植民地時代を通じて本国人と差別されながらも経済基盤を築いてきたクリオーリョは,このころすでに100万人(総人口600万人の約16%)に達し,彼らはこのような躍動する社会の中でアメリカ合衆国の独立およびフランス革命の影響を受け,メキシコ人意識に目覚めていった。1810年に始まる独立運動は,本国スペインがナポレオンによって侵略されスペイン王室の権威が失墜したことを契機として始まったが,19世紀初頭のメキシコにはすでに独立への気運が高まりつつあったのである。
近代 独立以降の今日に至る時代は,(1)独立後1860年代まで続く混乱の時代,(2)政治の安定と経済の繁栄を達成したディアス独裁時代(1877-1911),(3)1910年に勃発したメキシコ革命を起点とする現代,に大きく分けられる。
1810年9月16日の〈ドローレスの叫び〉で始まった独立運動は,独立の父イダルゴ 神父によって率いられ,イダルゴが処刑されたのちモレロス によって引き継がれて,13年チルパンシンゴの議会で独立宣言がなされた。しかし,この初期独立運動はやがて挫折し,メキシコがスペインから独立するのは21年であった。短命のイトゥルビデ 帝政(第1次帝政)を経たあと,24年に憲法が制定されてメキシコは連邦共和制を採用したが,この後約半世紀にわたって政治の混乱と経済の停滞が続いた。弱体な連邦政府の下でカウディーリョ (地方軍閥)が権力を争い,中央集権主義者と連邦主義者,また教会擁立派と反教会派が対立した。11回にわたって大統領の地位に就き,29年の対スペイン戦争で国民的英雄となったサンタ・アナ はこの時代を代表する典型的なカウディーリョである。
一方,36年北部のテキサスがメキシコから分離独立し,やがてこれを合併したアメリカ合衆国に対してメキシコは46-48年に〈メキシコ・アメリカ戦争(米墨戦争 )〉を起こした。しかし,メキシコは敗北し,領土の半分以上を失ってほぼ今日の領土にまで縮小した。この未曾有の敗北の中で54年自由主義派が権力を握り,近代化を目ざす諸改革法と1857年憲法を制定した。個人の権利を尊重し,自由放任主義経済と政教分離を主張した自由主義派の人々は,この〈レフォルマ 〉として知られる改革の時代(1854-67)を通じてメキシコ近代化の基礎をつくった。とくにカトリック教会は改革政治の的となった。国土の半分を占めていたといわれる教会所有地が解体され,戸籍,婚姻,教育など国民の日常生活のほとんどすべてを支配していた教会の権限が剝奪された。その結果,58-60年に教会を中心とする保守勢力と改革を推進する自由主義派勢力との間で内戦が起こった。61年内戦を終結させた自由主義派政府は財政窮乏から外債利子支払停止を宣言したため,フランスの武力干渉を招いた。フランスはオーストリア大公マクシミリアンを送ってメキシコを支配し,第2次帝政時代(1864-67)を出現させた。自由主義派勢力はフアレス大統領の指揮下で戦い,67年にフランス軍を破った(メキシコ干渉 )。ここに〈復興共和国〉と呼ばれる時代が始まり,76年に至るまでメキシコの近代化を目ざした諸改革が実施された。
76年自由主義派のリーダーの一人であり,対フランス干渉戦争で活躍したP.ディアス が武力で政権を掌握した。ディアスはこの後1911年に国外へ亡命するまで実権を握り,35年間に及ぶ独裁時代を出現させた。ディアス時代は政治の安定と経済発展に特徴づけられる時代であった。強力な国家警備隊の配置によって全国的に平穏が保たれ,割拠するカウディーリョたちは体制内に組み入れられた。一方,経済開発を促すための新しい鉱山法や拓殖法が制定され,外国資本が誘致された。国内政治の安定と積極的な外資導入策は,膨大な外国資本のメキシコへの導入を成功させ,経済開発は急速に進められた。しかしその結果,メキシコの重要な経済部門の大部分が1910年までに外国資本によって支配されるに至ったのである。例えば,1910年外国資本は鉄道の98%,石油の97%,鉱山資源の97%を占めたほか,国土の約4分の1を所有していた。一方,農民の97%は土地を所有せず,大農園の支配する農村は困窮化した。また,工業の発達とともに工場労働者の数も増加したが,劣悪な労働条件は多くの工場でストライキを発生させた。20世紀に入ると独裁体制に反対する知識人や新興産業資本家層の不満が高まり,やがて1910年にはメキシコ革命へと発展していったが,勃発した革命は急進的改革主義者,農民,労働者などさまざまな勢力によって展開された。
現代 1910年に勃発したメキシコ革命は10年代を通じて動乱を経験し,17年に革命の目標を盛り込んだ憲法を制定した。メキシコの現行憲法でもあるこの革命憲法に基づいて,今日までに農地改革,徹底した政教分離,鉄道および石油の国有化を含む外国資産の国有化などが実施されてきた。最も強力に改革を推進したカルデナス 政権(1934-40)の終了をもって一般にメキシコ革命は終わったとされるが,メキシコはこの直後に始まる第2次大戦を契機として工業化の時代を迎えた。
第2次大戦はメキシコ現代史の一つの転機であった。メキシコは連合国への主要な戦略物資供給国としての役割を果たし,戦時経済ブームを享受すると同時に,戦争のために輸入できなくなった工業製品を国内で生産するための工業化を推進し,戦後に迎える工業時代の基礎を築いた。政治的には1946年に政党組織が再編成されて制度的革命党が設立され,強力な一党支配体制下での安定政治の基礎が固められた。その後ほぼ70年ごろまでメキシコは高度経済成長期を迎え,経済発展と国民生活の著しい向上とを経験した。しかし,そのひずみとしての社会問題も一方で深刻化し,貧富の格差の拡大,労働運動の激化,反政府ゲリラ活動の出現なども見られた。国民の対政府抗議運動は1968年のメキシコ・オリンピック開催を契機として頂点に達し,流血の惨事を招いた。
70-76年に政権を担当したエチェベリア大統領は,このようなメキシコ高度経済成長期のひずみの深化と世界的な石油危機という二重の難題を抱えながら,国際政治の舞台でリーダーシップを発揮した。1974年末エチェベリア提唱の〈国家間の経済権利義務憲章〉が国連で採択され,翌75年にはラテン・アメリカ経済機構(SELA)の設立にメキシコは指導的役割を果たした。1970年代後半には次々に発見される膨大な石油資源を基礎にした石油開発戦略と自主外交が顕著となった。しかし,続く世界的経済不況は石油資源に極度に依存しはじめたメキシコ経済を直撃し,82年のメキシコはペソの大幅な切下げに象徴されるように困難な事態に直面している。
日本・メキシコ関係史 日本とメキシコの関係は17世紀初頭に始まり,日本の長い鎖国時代に中断したのち明治初年に再開された。スペイン植民地時代にマニラとメキシコ西海岸のアカプルコの間を航行したガレオン船 による東洋貿易は,当時のメキシコに莫大な富をもたらしたが,ガレオン船はしばしば難破し,日本の太平洋岸に漂着した。これらの難破船事件を契機として日本とメキシコの間でいくつかの交流があったほか,1614-18年にかけてアカプルコ経由でローマへ派遣された伊達政宗の使者支倉常長 (はせくらつねなが)とその一行のメキシコ滞在も知られている。
両国が近代国家として国交を樹立し交流するのは,1888年,両国が修好通商条約を締結してからである。この条約は日本の不平等条約改正史の上で日本がとりつけた,最初の平等条約であった。しかし,この後の近代日本・メキシコ関係は緊密な経済・政治関係を樹立するに至らず,19世紀末に試みられ失敗した〈榎本植民地〉の建設と,20世紀初頭に見られた約1万人の日本人労働移民の渡航が目だつできごとであった。榎本武揚(外務大臣)ら当時の政財界の有力者の出資で計画された榎本植民地計画は,メキシコ南部チアパス州エスクイントラ地区に土地を取得し,コーヒー栽培を目的に1897年に最初の農業移民35名を送り出した。この計画は3年足らずで挫折したが,農業移住者の一部はこの地方に定着した。一方,労働力不足に悩むディアス時代のメキシコが日本人労働者を誘致したため,1900-07年におよそ1万人の日本人が渡航した。これらの出稼労働者はおもに南部低地のサトウキビ農園や北部の炭坑に送られたが,アメリカへ密入国するためにメキシコに渡る者が多かった。そして国境を越えてアメリカ合衆国へ不法入国する日本人の数が増大したことから,日米間で1907年に取り交わされた〈日米紳士協約〉によって日本人労働者のメキシコ渡航が禁止された。この後,日本とメキシコの関係はほとんど進展しなかったが,太平洋戦争ではメキシコはアメリカに対して協調政策をとり日本に宣戦した。戦後の両国関係は,とくに60年代以降緊密化を増しており,経済関係ばかりではなく,教育,文化の面でも著しい交流が見られる。 執筆者:国本 伊代