アクイレイア(英語表記)Aquileia

デジタル大辞泉 「アクイレイア」の意味・読み・例文・類語

アクイレイア(Aquileia)

イタリア北東部、スロベニア国境に近い古代ローマの都市遺跡。紀元前181年にローマ人が造った軍事的植民都市がその起こりで、その後も商業都市として栄えたが、5世紀半ばにフン族侵入によって壊滅した。4世紀に創建された初期キリスト遺構バシリカ総主教聖堂は、その後改装を重ね、11世紀には大規模な改装がされている。1998年「アクイレイアの遺跡地域と総主教聖堂バシリカ」として世界遺産文化遺産)に登録された。

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改訂新版 世界大百科事典 「アクイレイア」の意味・わかりやすい解説

アクイレイア
Aquileia

アドリア海の北端に面した古代ローマの都市。現在はイタリア北東部のウディネ南方約30kmにある町。前181年にローマが,ここを占拠していたガリア人を追い払ってラテン植民市として建設した。最初はガリア人の侵入を防ぐという軍事的な目的を持った要塞都市であったが,土地が肥沃なこと,近隣に豊かな金属鉱山があったこと,交通の要衝に位置したことなどの条件に恵まれて,大きな商工業都市として発展した。特に帝政初期にはしばしば〈第2のローマ〉とよばれた。おもな生産物は,ブドウ酒,ガラス器,陶器,金属器,貴金属および宝石細工で,これらの製品をその港から輸出した。アクイレイアの港は,当時カンパニアプテオリとならぶイタリア最大級の商港であった。輸入品としては,バルト海沿岸のコハク琥珀)が最も重要であった。452年にフン族のアッティラ略奪を受けて住民が避難してからは次第にさびれたが,中世に入っても,大司教座として重要性を失わなかった。
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アクイレイアには古代ローマ植民市時代の建築,彫刻,浮彫のある墓碑などが多く残存する。また中世以降のキリスト教聖堂もかなりあり,特に11世紀に司教ポッポーネが建てたロマネスク様式のバシリカは重要である。これは4世紀の遺構の上に建てられており,当時の床モザイク《善き羊飼い》《葉陰に休むヨナ》や,アリウス派と正統派キリスト教の闘いを象徴しているといわれる《亀と雄鶏の闘い》などの図像が残存する。これらモザイクの様式は3世紀の北アフリカのそれと類似している。また側廊内にある聖墳墓をかたどった特異な円形プランの建造物は,11世紀につくられ,復活祭の儀式などに使われたものである。カロリング朝期のクリプタ(地下祭室)には,12世紀の壁画《キリストの十字架降架図》《聖エルマゴーラ伝》などがあり,ここにはビザンティン絵画様式の影響がみられる。トリビューンやピエタ像などは15世紀の作。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アクイレイア」の意味・わかりやすい解説

アクイレイア
Aquileia

アドリア海北岸に位置するローマの古代都市。前 181年ローマ人が北辺防衛と近隣の金鉱採掘のためにこの地に植民市 (コロニア ) を創設。交通と戦略の要衝として栄え,帝政時代には大都市となったが,452年アッチラに略奪され,市民はベネチアに逃れた。6世紀にはランゴバルド族の支配下に入り衰退。一方,3世紀中頃にできたカトリック司教座は5世紀に首都司教座 (メトロポリタン) となったが,533年ローマから分離,みずから総大司教座 (パトリアルカ) を名のった。ローマ教皇セルギウス1世 (在位 687~701) のときローマと和解。その後発展し,11世紀にはフリウリ,カルニオラ (1077) ,イストリア (1209) を領地とする公国となったが,1419~20年フリウリがベネチアに奪われ,1445年完全にその支配下に属した。 1751年大司教座に降格。現在はイタリアのフリウリベネチアジュリア州ウディネ県の村。ローマ時代の遺跡と司教座聖堂は,1998年世界遺産の文化遺産に登録。

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