アドリア海の北端に面した古代ローマの都市。現在はイタリア北東部のウディネ南方約30kmにある町。前181年にローマが,ここを占拠していたガリア人を追い払ってラテン植民市として建設した。最初はガリア人の侵入を防ぐという軍事的な目的を持った要塞都市であったが,土地が肥沃なこと,近隣に豊かな金属鉱山があったこと,交通の要衝に位置したことなどの条件に恵まれて,大きな商工業都市として発展した。特に帝政初期にはしばしば〈第2のローマ〉とよばれた。おもな生産物は,ブドウ酒,ガラス器,陶器,金属器,貴金属および宝石細工で,これらの製品をその港から輸出した。アクイレイアの港は,当時カンパニアのプテオリとならぶイタリア最大級の商港であった。輸入品としては,バルト海沿岸のコハク(琥珀)が最も重要であった。452年にフン族のアッティラの略奪を受けて住民が避難してからは次第にさびれたが,中世に入っても,大司教座として重要性を失わなかった。
執筆者:坂口 明
アクイレイアには古代ローマ植民市時代の建築,彫刻,浮彫のある墓碑などが多く残存する。また中世以降のキリスト教聖堂もかなりあり,特に11世紀に司教ポッポーネが建てたロマネスク様式のバシリカは重要である。これは4世紀の遺構の上に建てられており,当時の床モザイク《善き羊飼い》《葉陰に休むヨナ》や,アリウス派と正統派キリスト教の闘いを象徴しているといわれる《亀と雄鶏の闘い》などの図像が残存する。これらモザイクの様式は3世紀の北アフリカのそれと類似している。また側廊内にある聖墳墓をかたどった特異な円形プランの建造物は,11世紀につくられ,復活祭の儀式などに使われたものである。カロリング朝期のクリプタ(地下祭室)には,12世紀の壁画《キリストの十字架降架図》《聖エルマゴーラ伝》などがあり,ここにはビザンティン絵画様式の影響がみられる。トリビューンやピエタ像などは15世紀の作。
執筆者:井手 木実
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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