アショカ(王)(読み)あしょか(英語表記)Aśoka

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アショカ(王)」の意味・わかりやすい解説

アショカ(王)
あしょか
Aśoka

生没年不詳。古代インド、マウリヤ朝第3代の王(在位前268ころ~前232ころ)。漢訳仏典には阿育(あいく)、阿輸迦(あゆか)と記される。祖父チャンドラグプタと父ビンドゥサーラBindusara(在位前293ころ~前268ころ)の2代にわたって築いた領土を継承して、南はマイソール(現、マイスール)に及ぶインドの大部分アフガニスタンの南部とにわたって支配し、インド古代史上最大の帝国となった。その都はパータリプトラ(漢訳名は華子城。今日のビハール州パトナ)であって、ガンジス川中流域の農業地帯を帝国の経済的基盤とし、当時かなりの程度に発達していた諸地帯を結ぶ交通路と貿易商業を手中に収めた。

 即位9年目にカリンガ(今日のオディシャ州海岸部)を征服し、そのとき多数の人々が死傷した。王はこの戦争の悲惨さを反省して、仏教をいっそう熱心に信奉するとともに、武力による征服をやめて、ダルマ(法)に基づく政治の実現を決意した。この政治は、人民現世および来世における幸福と安楽を目ざすものとされ、王は人民に対して、いかなる人間も守るべき倫理(ダルマ)を教えた。それは、個人の倫理としては、心を清浄、平静にし、寡欲節制の念をもち、真実を語り、慈悲と施しの心をもち、生物を殺傷しないことである。社会倫理としては、父母長老、師や親族に対して従順であり、親族や友人、バラモンや宗教者、また奴隷と雇用者に対して正しい取扱いをすることである。彼はこのダルマの実現を目ざして精力的に努力した。いついかなる所でも政務を聞いて処理し、自ら領域内を巡察し、また官吏をして5年ごとに管轄区域を巡回せしめて、人民が法を遵守しているかについて視察させた。そして、仏教に帰依した王はブッダ釈迦(しゃか))の生誕地などを訪れてストゥーパを増築し、仏教教団内の和合を説き、争いを厳しく戒めた。その他の宗教教団に対しても保護を与えて寛容を説き、とくに諸宗教教団を管掌する特別の官吏を任命した。このほか、人民のために道路を建設し、その傍らに樹木を植え井戸を掘ったり、人間と動物のための病院を建てるなどの社会事業を行った。

 以上のことは、王が領土内の各地において石柱や岩石に刻した詔勅に記されていることであり、そのなかにはアフガニスタンのカンダハールで発見されたギリシア語やアマル語のものがある。彼はこの政治理念を近隣の諸国、諸民族にまで伝道し、この使節はエジプトやマケドニアにも及んだ。王の政策は、36年に及ぶ統治のあとは衰退したが、その治世の間に、仏教をはじめとしてガンジス川中流域の高度の文化が諸地方に急速に広がり、それによって諸地方の発達を促進した。また仏教徒は彼を保護者と仰ぎ、理想的な王として尊崇して、多くの説話をつくった。

[山崎利男 2016年11月18日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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