翻訳|Avignon
フランス南東部,ボークリューズ県の県都。人口8万8312(1999)。ローヌ川右岸にあり,河口から約70km上流,ローヌ川が河口にちかい平原に入る地点にひらけた町で,商業・文化の中心地。系譜上はガリア人の集落に由来するが,アビニョンが歴史上の重要な地位をえるのは,14世紀初頭になってからのことである。教皇のアビニョン捕囚によって,1309年教皇庁がこの都市に移転され,教会大分裂の時代を含めて,100年以上にわたって所在した。当初,この土地はプロバンス伯の支配下にあったが,近在のコムタ・ブナサンとともに1348年教皇庁が買収した。歴代のアビニョン教皇によって都市は整備され,教皇庁関連の諸施設が立地するにおよんで,一躍ヨーロッパ・キリスト教の枢要の地に成長した。それぞれベネディクトゥス12世およびクレメンス6世による,旧宮殿と新宮殿の建設によって,1.5haにおよぶ巨大な教皇庁舎が完成した。旧宮殿は簡素に,新宮殿は豪華に築かれたが,同時代にあっては,群を抜く大きさであった。その建築物は,現在まで存続している。都市アビニョンは,教皇の臨在と庁舎の建築によって,突如の繁栄をむかえた。アビニョン教皇の多くが,枢機卿をはじめとする教皇庁高官のアビニョン在住を求めたため,かつてローマ市の教皇庁にはみられなかった繁栄が実現した。市内には教会高官の執務所兼住居が建造され,さらに中・下層の専門的教会官僚が居住することになった。アビニョン教皇庁の確立期には,都市は2万人前後の人口をかかえ,当時にあっては,驚異的な行政都市としての相貌を呈したと考えられる。各地から訪れる御用商人,教会行政官,学者,陳情者そしてユダヤ人や異端,遍歴芸人など,雑多な人びとがあふれ,経済的にも高揚した。イタリアの愛国者が〈アビニョン捕囚〉と呼んだのは,このような都市アビニョンの世俗的好況を妬み,音の響きにもあわせてバビロンBabylonになぞらえたのであった。1417年に,教皇庁はローマに完全復帰し,アビニョンは教皇庁管理下の一地方都市に立ちもどった。1791年,フランス国民公会が没収するまで,その状態は続く。かたわらを流れるローヌ川は急流であるため,橋はしばしば流失した。伝説上1177年架設とされるサン・ベネゼ橋は中途で流失したまま,残骸を現在にのこしているが,この橋はフランス民謡《アビニョンの橋》で子どもたちが踊る橋として知られている。現代にあっては,行政上の中心として機能するほか,第2次大戦後発足したアビニョン芸術フェスティバルをもって知られ,旧教皇庁の中庭でおこなわれる前衛劇,および〈音と光のスペクタクル〉は,年々評価が高まっている。
執筆者:樺山 紘一
教皇庁が移された結果,1340-50年ころにかけて,イタリアの画家マルティーニ,ジョバネッティMatteo Giovanetti(生没年不詳)などが相次いで招かれて移り住み,教皇宮殿(ジョバネッティなどがその壁画装飾にあたる)を舞台に,イタリア文化が花開いた。ここに移植された初期ルネサンス美術は,外交使節を通じてヨーロッパ各国の宮廷に伝播し,やがて国際ゴシック様式を生むことになる。市内には中世の彫刻から,クールベら近代絵画までを収蔵するカルベ美術館がある。
執筆者:荒木 成子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランス南東部、ボークリューズ県の県都。人口8万5935(1999)。マルセイユの北西約100キロメートルのローヌ川とデュランス川の合流地点にある。行政、商業、宗教の中心地で、大学もあるが、観光の中心地としてよく知られる。工業も発達し、化学、精錬、機械、家庭用品、織物、食料品(缶詰、ビスケットなど)、紙、印刷などの各工業が盛んである。鉄道、自動車道など交通の要衝にあるため商業はよく発達し、とくに果実、野菜、ぶどう酒などの農産物の大市場がある。14世紀に教皇が居住したゴシック様式の宮殿がいまも残り、都市を囲む城壁、ローヌ川に架けられたサン・ベネゼ橋(12世紀建造。17世紀以来橋の半分が残る)、大聖堂などの歴史的建築物とともに観光の対象である。毎年夏に開催される演劇祭は有名。なお、アビニョンの歴史地区は1995年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[青木伸好]
古くはマッサリア(マルセイユの古名)の、ついでケルト人の商業拠点であったが、ローマ帝政の初期にローマの植民地となった。6世紀になってフランク人の支配下に置かれ、8世紀にはプロバンス人がフランク王国の宮宰カール・マルテルに反抗してアラブ人の救援を求めたため、二度にわたってカールの略奪を受けた(736、737)。11世紀になってビコント(副伯)たちの統治ののち、1136年(または1129年)コンシュラ(市参事会)の都市となった。アルビジョア十字軍(1209~1229)のときには異端派のトゥールーズ伯レイモン6世Raymond Ⅵ(1156―1228)の側にたったので、フランス国王ルイ8世Louis Ⅷ(1187―1226)の軍事的制圧下に置かれた(1226)。その後、ルイ9世の王弟シャルル・ダンジューCharles d'Anjou(1226―1285)とアルフォンス・ド・ポアチエAlphonse de Poitiers(1220―1271)の共同統治を受け、13世紀末プロバンス伯領に併合された。
国王フィリップ4世の時代、ローマ教皇はアビニョンに教皇座を移して国王の支配下にたつ、いわゆる教皇の「バビロン捕囚」(アビニョンの幽囚ともよばれる)の時代となったが(1309~1377)、このことはアビニョンに繁栄をもたらし、多くの王侯貴族、学者、詩人、芸術家がこの町を訪れ、また居住した。1348年アビニョンはプロバンス伯家によって教皇に売却され、以後フランス革命に至るまで教皇庁の領有下に置かれることになった。
ブナスク伯領とともにフランスに併合されたのは1791年で、追認されたのは1797年のトレンティーノの和約によってである。
[志垣嘉夫]
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出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…事実,この概念の成立を裏づけるように,この時期には年代が確定されても,制作地の推定が困難な作品が多数存在している。 国際的交流は,1320年代すでにジョットにはじまるイタリア絵画の革新の影響として,空間の存在を暗示する立体感や遠近感表現の画面への導入や,感情表現に示される人間解釈の深化がアルプス以北の作品に散見されることから立証されているが,14世紀中葉,教皇の都アビニョンと皇帝の都プラハでの造営事業を通じて本格化する。アビニョンに集まった工人の出身地は多彩であるが,S.マルティーニ,ジョバネッティMatteo Giovanetti(生没年不詳)などシエナ派の画家が招かれ教皇庁壁画,祭壇画,写本挿絵制作などに活躍し,アビニョンを中継地としてシエナ派の影響が国際的に波及した。…
※「アビニョン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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