アメリカ史(読み)あめりかし

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

本項では、北アメリカにイギリス植民地が建設された17世紀初頭から現在までの、アメリカ合衆国の歴史を取り扱う。それ以前の南北アメリカにおける先住民の歴史、およびコロンブスの大陸「発見」(1492)以後17世紀に至るまでの両大陸の歴史については、「アメリカ」「アメリカ・インディアン」「ラテンアメリカ」「インディオ」などの各項目を参照されたい。
 アメリカ合衆国は独立以来200年余りの歴史を有し、現在世界有数の大国として国際社会においても指導的役割を演じているが、その目覚ましい発展の過程にはいくつかの重要な特色がみられる。[新川健三郎]

アメリカ史の特色と時代区分

まず、アメリカは17世紀初頭よりおよそ170年間イギリスの植民地であり、独立後もおもにヨーロッパから移民が行われたことにうかがえるように、基本的にはヨーロッパ社会ないし文化を移植、拡大した地域という性格を有する。だが同時に注目すべきことは、広大なフロンティアの存在であり、アメリカはその自然条件を背景に「フロンティア・スピリット」とよばれるような独自の精神的、文化的風土をはぐくみ、かつ大陸部の領土膨張と「西漸運動」を基盤として急速な経済発展の道をたどることになった。また、先住民アメリカ・インディアンが居住するにせよ、全体として移民、強制的に連れてこられた奴隷、およびこれら外来者の子孫によって建設、構成された社会であるため、民族的基盤を欠いている。その結果、国家に対する国民の帰属意識をいかに強め、あるいはまた新移民のアメリカ社会への同化をいかに促進し、国民の統合を図るかということが重大な課題となっている。さらに、こうした国民構成のあり方は、一面で「開かれた社会」ないし「機会の国」といったアメリカのイメージを強め、その文化の多様な発展の可能性を増すとともに、他方でアジア系に対する移民制限や黒人に対する人種差別などの深刻な問題を生み出してきたのである。
 このような植民、移民活動により人為的につくりだされた社会であるアメリカは、歴史的に中世の時期を経験しない、あるいは封建制度の基盤をもたないという点でも注目されてよい。もとより「前近代的」ともみなしうる奴隷制導入の問題はあるが、それを別にすれば、アメリカは、最初から解体すべき強固な「旧制度」(アンシャン・レジーム)の存在しない、いわば近代的市民社会として発足したのであり、自由主義的風潮が広く国民に行き渡るとともに、一般に過激な変革の理念には消極的な傾向がみられた。18世紀後半の建国時に制定された憲法が修正を受けながらも、いまなお国家の基本法として機能しているのは、世界で他に例をみない異色のことであるが、それは、法治主義の伝統に基づく安定した社会発展に加え、自由主義的価値観に対する根強い信念による面も大きいといえよう。
 また、アメリカが両大洋に挟まれた大陸国家であるという地理的条件も、その歴史に重要な影響を及ぼしている。すなわち、これら大洋は自然の防壁としてアメリカの安全保障に大きく寄与しており、長い間アメリカ国民が外敵の脅威をあまり懸念することなく、大陸的規模での膨張と発展に専心するのを容易にするとともに、国家統制の希薄な個人主義的ないし自由主義的な雰囲気を享受することを可能にし、さらには、海外の紛争に対しては介入しない、あるいは巻き込まれまいとする孤立主義ないし中立主義の風潮を培ってきた。もとよりこうしたことは、科学技術の進歩とか国際社会におけるアメリカの力や役割の増大に伴い変わってきているが、なおかつアメリカの国民性、とくに対外意識の伝統を理解するうえで無視できない要素となっているのである。
 最後に、アメリカは大陸的規模で広大なフロンティアを有していたため、19世紀末に至るまでおもに内陸開発がその発展の軸となり、本格的に海外膨張に乗り出したのは、他の列強よりむしろ遅かった。そこで対外進出にあたり、一般に諸列強の植民地主義とは異なって、自由主義的理念のもとに開放された市場や資源への割り込みを図るといった方策が採用され、海外に獲得した領土についても、その地域の植民地経営自体を主眼とするより、中国や南米など本来の膨張対象地域に進出するための拠点とか基地といった戦略的意義が強く認められた。そしてパックス・アメリカーナ(アメリカの力による国際秩序の形成・維持の意)的状況の進展に伴い、こうした「開かれた帝国」の世界的規模での拡大をみたのである。
 以上のような特色を有するアメリカの発展の歴史は、大別して次の四つの時期に分けることができる。
(1)植民地時代(17世紀初頭~1776年) 1607年にイギリス人による最初の永続的植民地の建設以後、着実な発展を示し、1763年フレンチ・アンド・インディアン戦争の勝利で帝国の領域も著しく拡大したが、同時に本国と植民地の利害の対立も激化し、1775年、独立戦争の勃発(ぼっぱつ)をみるに至った。
(2)大陸的膨張の時代(1776年~南北戦争) 1776年の独立宣言に次いで1789年に現在のアメリカ合衆国を建国、以後西部への膨張を軸に目覚ましい発展を遂げ、1840年代末には太平洋岸まで領有するに至ったが、同時に奴隷制をめぐる対立も深まり、南北両地域間で内戦(南北戦争)が勃発した。
(3)産業資本の発展と海外進出の時代(南北戦争~第一次世界大戦) 南北戦争で勝利を収めた産業資本は、そのヘゲモニーのもとに国民経済圏を確立しつつ飛躍的発展を遂げ、19世紀末には独占体を形成するまでになったが、そうした国内の経済発展を背景に、本格的に海外進出に乗り出し、帝国主義的政策が展開されるようになった。
(4)パックス・アメリカーナ形成の時代(第一次世界大戦~現在) 第一次世界大戦を通して資本主義世界の中心ともいうべき地位を占めたアメリカは、1930年代の経済危機をニューディール政策で乗り切るとともに、第二次世界大戦に際し、連合国側を勝利に導くうえで指導的役割を演じ、超大国としての地歩を確立、戦後パックス・アメリカーナ的状況の下に世界的な規模で反共封じ込め網を形成するに至った。1960年代以降、国際政治の「多極化」あるいは民族解放運動の進展に伴い、その指導力は相対的に低下し、経済状態も悪化したが、1980年代末には共産主義圏の国家体制の崩壊により、冷戦の終結をみた。[新川健三郎]

植民地時代


イギリス領植民地の建設
イギリスのアメリカ大陸に対する植民活動は、スペインやフランスよりも遅く、1580年代のウォーター・ローリー卿(きょう)の先駆的な企ての失敗を経て、バージニアに最初の永続的な植民地が建設されたのは1607年であった。だが、以後、ピューリタン(清教徒)によるマサチューセッツなどニュー・イングランド地域の北部植民地の建設、1664年のオランダ領ニュー・アムステルダムの占領とそれに続くニューヨークなどの中部植民地の建設、さらにはカロライナやジョージアといったバージニア以南地域への南部植民地の拡大など、1732年までにカナダとフロリダの間の大西洋岸沿いに13の植民地が建設されるに至った。
 これらの植民活動は、バージニアへの入植が、当初、商業資本の出資により設立された特許会社の事業として行われたことにうかがえるように、もとより本国の商業資本の成長が重要な基盤となっていたが、それに加え、本国内の政治的対立と絡んだ宗教的抗争も植民を促進する要因となった。こうしてメイフラワー号で渡航したピルグリム・ファーザーズをはじめ、会衆派、カトリック、クェーカー教徒が信仰の自由を求めてそれぞれプリマス、マサチューセッツ、メリーランド、ペンシルベニアに植民したが、イギリス人の場合、あくまで植民者自身の信仰を問題とし、スペイン人のように先住民に対する布教活動を重視しなかったことは注目に値する。
 また、これらイギリスの植民地は、豊富な貴金属の富を有する先住民の帝国が存在しなかったこともあって、スペインの場合のように先住民社会の征服と富の収奪を主眼とするのではなく、純然たる植民者の社会をつくり、本国にとって有用な生産活動を営むことを目的とした点に特色があった。その結果、本国のみならず植民地の経済発展の面で目覚ましい成果がみられることになったが、他方でいわば先住民の存在そのものが拒否され、殺戮(さつりく)や奥地への排除が繰り返されたため、先住民との関係はきわめて険悪なものとならざるをえなかった。[新川健三郎]
植民地の発展
植民地の活動は本国の重商主義政策の規制のもとに置かれたが、18世紀中ごろまでそうした規制は比較的緩やかであり、植民地側は独自の代議制議会を設立するなど一連の自治権を享受しながら、各地域の経済的活動を発展させた。南部ではプランテーションplantationとよばれる大農場でのタバコ、砂糖、米、藍(あい)、綿花といった商品作物生産、中部では穀物生産、海運、若干の手工業、北部では造船、海運、漁業などが主要な産業となった。植民社会であるため、労働力不足は当初からとくに南部で深刻な問題となり、先住民の奴隷化を試みたり、本国から貧民を連れてきて一定期間強制労働に従事させたりしたが、早くも1619年に黒人奴隷が輸入され、以後、奴隷制はプランテーション経済の基盤として着実に発展をみることになった。こうした奴隷の供給には、北部植民地もラム酒をもとにアフリカで黒人奴隷を入手し、西インド諸島や南部のプランテーションで売却する「三角貿易」を担う役割を演じ、莫大(ばくだい)な利益を収めた。
 植民地の多くは国王が任命した総督の統治下に置かれ、また総督を補佐する参事会や代議制議会も一般に植民地の富裕な有力者により占められていたが、植民地における自由主義的な風土とともに本国での議会制政治の発展の影響もあって、各植民地で早くから自治組織の発達が顕著にみられた。それに伴い植民地人の間で権利意識がはぐくまれ、植民地の利害を中心に思考したり行動する傾向が強まったのは意義深いことだった。植民地の文化的水準も比較的高く、ハーバード大学などの大学が設立されただけでなく、啓蒙(けいもう)思想など当時のヨーロッパの思想も指導者層の間でかなり広く受容されていた。他方で周辺地域の先住民と敵対的関係が続いただけでなく、先住民は一般にフランス人と、より友好的状態にあったため、植民地はつねに深刻な安全保障の問題に直面していた。そして防衛面での協力に関し、1754年には植民地代表者の会議が開かれたが、1763年フレンチ・アンド・インディアン戦争での勝利により北アメリカからフランス勢力を駆逐することになった結果、イギリス領植民地にとり重大な脅威は消滅したようにみえた。[新川健三郎]
独立革命への道
1763年のパリ条約でイギリス帝国の領域はカナダおよびミシシッピ川東岸にまで拡大したが、本国政府が対先住民関係改善の配慮から、植民地人の西方領土への進出を禁止しただけでなく、本国財政の窮状打開のため重商主義政策を強化するに及び、植民地と本国との関係はむしろ悪化し始めた。とくに1765年の印紙法は、植民地側に本国商品の不買運動など組織的な反対活動を展開させるに至った。この印紙法およびそれに続くタウンゼンド法をめぐる危機は、本国側の譲歩でともかく収束されたものの、この過程で植民地指導者の間に、本国との関係に関して、従来の自治の伝統を基盤に一種の自治領的構想が明確になったのは否めなかった。しかも一部に早くも独立を指向する急進派が台頭し、実際に1773年に彼らが引き起こしたボストン茶会事件を契機に本国との関係は急速に悪化の一途をたどり、1775年4月、独立戦争が勃発(ぼっぱつ)するに至った。この間、植民地代表者は大陸会議を開いて全体の結束を図りつつ、権利の主張とともに和解の請願を行ったが、それが本国政府に拒否され、またペインの『コモンセンス』などの影響により、世論においても独立の気運が高まるなかで、ついに1776年7月4日「生命、自由、幸福の追求」の諸権利を高らかにうたった独立宣言が発せられ、ここに共和政体を採用した13の邦が誕生、さらにこれら諸邦は連合規約を制定して、地方分権的性格の強い連合組織をつくりあげた。
 独立戦争の戦局は、初めワシントン指揮下のアメリカ軍側に不利だったが、サラトガの戦いでの勝利後、フランスとの通商・同盟条約の締結に成功、フランス軍の支援もあって、ヨークタウンの戦いで勝利を不動のものとし、1783年パリ平和条約により独立の承認を得た。それとともに領土もミシシッピ川にまで拡大した。[新川健三郎]

大陸的膨張の時代


アメリカ合衆国の発足
独立当初成立した邦連合は、西方領土の公有地処分政策に関しては注目すべき成果をあげたが、中央政府たる連合会議が課税権、通商規制権、常備軍の保持を認められず、きわめて弱体だったため、経済的困難や治安維持などの面で効果的に対処することができなかった。こうして連合規約下の地方分権的体制の弱点が表面化するなかで、北部の商業資本や南部のプランター(プランテーション経営者)を中心に保守的な社会層の間から強力な中央政府の樹立を求める声が高まり、1787年フィラデルフィアで憲法制定会議を開催、北部と南部、あるいは大邦と小邦との利害の調整を図りつつ、中央集権的連邦国家の実現を目ざす合衆国憲法の制定をみた。この建国構想には批判的勢力も強かったが、フェデラリストFederalists(連邦派)の活躍で憲法の批准を得、1789年ワシントンが初代大統領に選出され、ここに現在に至るアメリカ合衆国が発足することになった。
 新国家の政権を担当したフェデラリストは、財務長官ハミルトンの指導下に、積極的に連邦政府の信用の確立、国内産業の保護、育成や金融機関の整備など経済的基盤の安定、強化を図る政策に乗り出した。だが、これらの施策は一般に北部の商業資本に有利に作用したため、南部のプランターや、農民、手工業者など、フェデラリストに批判的になった勢力は、ジェファソンを指導者としてリパブリカンRepublican(共和派)を結成するに至った。ハミルトンが工業の育成や通商の拡大などいわば資本主義的発展を指向し、憲法を拡大解釈してそれに必要な措置を積極的に講じていこうとしたのに対し、ジェファソンは農本主義的な立場から農業社会の発展と西部への領土の膨張を重視し、また連邦政府の権限の拡大に対しても慎重な態度をとった。
 こうして建国まもないアメリカで、早くも地域的、経済的利害の対立や、社会発展のビジョンとか政治観の相違をもとに、二つの政治的党派が生じたが、対外関係の面でも、フランス革命の進展に伴い、親英的なフェデラリストと親仏的なリパブリカンとの間で亀裂(きれつ)が深まる傾向がみられた。そこでワシントンは、1793年、フランス革命戦争の勃発(ぼっぱつ)に際し、中立を宣言したのに次いで、1796年の「告別演説」において、アメリカの外交政策の指針として、海外の紛争への不介入と中立主義とを強調した。[新川健三郎]
西漸運動の進展とジャクソニアン・デモクラシー
1800年の選挙で政権についたジェファソンは、1803年ナポレオンがスペインから入手したばかりのミシシッピ川以西の広大なルイジアナをフランスから購入、ここにアメリカの領域は一挙に2倍近くに増大した。さらにナポレオン戦争に際し、通商権をめぐってイギリスとの軋轢(あつれき)が増す一方、カナダやフロリダへの進攻を主張する西部の膨張論者の働きかけもあって、1812年に対英戦争(一八一二年戦争)が引き起こされた。この戦争は結局勝利が得られず、カナダ「解放」は実現しなかったが、スペイン領西部フロリダを切り取り(ついで1819年東部フロリダを購入)、国民のナショナリズム意識の高揚や産業革命の勃興の点でも重要な影響を及ぼした。この間にも、西部の開拓を進める西漸運動は着実に進展をみたが、一八一二年戦争後、高率保護関税による財源を活用するなど、内陸開発政策は一段と拍車がかけられ、エリー運河など重要な水路の建設もみられた。このような西方への膨張の過程で、アメリカ・インディアンに対し絶えず武力による排除が繰り返されてきたが、1830年にはミシシッピ川以東における彼らの居住を全面的に否認するインディアン強制移住法が制定された。また西方への膨張にあたり、南部の奴隷州と北部の奴隷制を禁じた自由州との間で一種の力の均衡が維持されるように配慮がなされ、ミシシッピ川以西における奴隷制容認区域の問題が生じた際も、1820年のミズーリ協定で、妥協により南北両地域間の調整が行われた。他方でこうしたアメリカ社会の膨張、発展は、コモンマン(一般庶民)の政治参加や企業活動の自由を増進させようとする気運を強めた。1820年代末以降のジャクソン政権期には、普通選挙権の普及、政党の全国大会制度や党人任用制の採用、特権的と批判された合衆国銀行の解体ならびに自由な経済的機会と競争の重視、労働運動の高揚など、一連の民主化とみなされる動きが進展をみた。さらには超絶主義のような個人主義的、理想主義的色彩の濃い思想活動やユートピア的な社会改良運動も起こった。だが、このような白人社会の注目すべき動向の背後で、黒人やアメリカ・インディアンに対する搾取や抑圧が一段と強化されるといった非民主的な面が進行したことも見逃してはならない。[新川健三郎]
領土の膨張と地域的対立の激化
アメリカは、独立してまもないラテンアメリカ諸国に対しヨーロッパの反動勢力が再植民地化を企てるや、1823年モンロー主義を宣言し、ヨーロッパとアメリカとの相互不介入の原則および再植民地化への反対を表明したが、ここには孤立主義的な外交姿勢とともに、西半球におけるアメリカの一種の指導者意識がうかがわれた。しかもアメリカでは、専制主義のヨーロッパとは異なる民主的な共和制の社会を築いているという意識は、自らを最良の文明化の担い手とみなす自負心をはぐくむことになり、西方への領土の膨張自体、アメリカ国民が神から特別に授けられた使命なのだといった「マニフェスト・デスティニー」(明白な運命)とよばれる思想が国民の間に深く根ざすようになった。
 実際に西方への膨張の動きは一段と活発になり、1836年にはメキシコ領テキサスに入植していたアメリカ人が独立を宣言し、1840年代に入るとオレゴン地方への大量の移住が始まった。そして1844年の大統領選挙で膨張主義者のポークが当選すると、翌1845年テキサスを併合したのに次いで、1846年イギリスとの協定でオレゴンの南半分の単独領有を確定するとともに、テキサス、メキシコ間の国境紛争に乗じてメキシコ戦争(1846~1848)を引き起こし、勝利を収めた結果、1848年カリフォルニアに至る広大な領土を獲得、ここに文字どおり両大洋にまたがる大陸国家としてのアメリカが出現した(1853年のガズデン購入で現在の国境線となる)。しかもカリフォルニアの領有とともに豊富な金鉱が発見されたため、ゴールド・ラッシュが起こり、西漸運動はいっそう促進された。
 しかし、こうした領土の膨張に伴い、これらの地域での奴隷制の可否をめぐって、南部と北部との地域的対立が表面化し、ついに内戦に突入することになった。1850年カリフォルニアが自由州として連邦に加入した際には、逃亡奴隷の取締りの強化など、ともかく両地域間の妥協が成立したが、住民投票方式が採用された結果、1854年カンザスで奴隷制擁護派と反対派との間で流血事件が発生し、さらに奴隷制反対勢力を結集した共和党の結成、奴隷制を擁護する最高裁判所の判決、過激な奴隷制廃止論者ブラウンの奴隷反乱を策す蜂起(ほうき)などの一連のできごとにより、地域的対立は悪化の一途をたどった。奴隷制を基盤とする南部には、経済構造のみならず政治や文化面でも多分に北部と異質の要素をもつ社会がつくりだされていたが、それだけに州権論をもとにしたセクショナリズムの伝統も強かった。北部との対立が深まるなかで、1860年共和党のリンカーンが大統領に当選すると、南部には連邦からの脱退の動きが生じ、翌1861年南部連合を結成、脱退を否認する北部との間で南北戦争(1861~1865)が引き起こされた。[新川健三郎]

産業資本の発展と海外進出の時代


北部産業資本の勝利
リンカーンは最初あくまで連邦の統一の維持を戦争目的として掲げていたが、奴隷制が内戦の原因であることは明白であり、1863年奴隷解放宣言に踏み切り、ここに南北戦争は南部社会の根本的変革を迫る画期的な意義をもつことになった。そしてこの内戦期に、北部の産業資本は戦時ブームで繁栄を謳歌(おうか)しただけでなく、高率関税政策や国法銀行制度の樹立、大陸横断鉄道の建設計画など有利な政策を実現せしめた。さらに北部が勝利した結果、そのヘゲモニーのもとに南部をも組み込んだ国民経済圏を構築することになり、以後の目覚ましい発展の基盤を固めた。
 他方、南北戦争後に南部の再建と連邦への復帰をどうするかが重要な課題となったが、共和党急進派の主導下に再建政策が進められ、憲法修正により奴隷制の廃止のみならず、黒人への公民権や参政権の承認が実現をみ、黒人の政界進出に対しても支援がなされた。だが、土地再分配など黒人に経済的自立の手段を与える措置が講じられなかったため、1870年代後半以降、北部が南部への経済的進出を図りつつ人種問題から手を引くようになると、黒人の状態は急速に悪化して、厳格な人種差別制度のもとに置かれるようになった。[新川健三郎]
アメリカ社会の変容
アメリカは19世紀中ごろまで農業国的状態にあったが、工業の飛躍的な伸びに伴い、19世紀末にはイギリスをもしのぐ世界最大の生産力を誇る工業国へと成長し、さらに鉄道、鉄鋼、石油をはじめ多くの産業部門で巨大な独占的企業が出現するに至った。また、労働力の需要の著しい増大に対応して移民も激増したが、その多くは南欧、東欧系であった。これら新移民は従来の西欧、北欧系より一般に貧しく、政治的、宗教的にも異質な面が強かったため、たとえばイタリア系とかポーランド系などいわゆる「ハイフン付きアメリカ人」として、国民の民族的な多様性を豊かにしつつ、スラム街の発生とか同化の困難さなど、アメリカ社会に新しい問題を投げかけることになった。さらに大資本と政界との癒着が進み、腐敗した金権政治が生ずる一方、独占体の支配に伴う弊害が顕著になるなかで、農民を中心に反独占運動が盛り上がり、1890年代には政治的改革を標榜(ひょうぼう)した人民党の活動の展開をみた。また、労働運動も活発になり、労働騎士団の指導下に激しい争議が行われたが、しだいに階級協調主義の立場にたつアメリカ労働総同盟(AFL)に主導権が握られていった。
 西漸運動も大陸横断鉄道の建設とともに一段と拍車がかけられ、1880年代にはアメリカ・インディアンに対する軍事行動もほぼ終了し、居住区を指定してその生存を認める政策が採用されたが、1890年代に入ると、フロンティアの「消滅」が指摘され、海外に新たなフロンティアを求めようとする風潮が高まってきた。[新川健三郎]
帝国主義と革新主義
こうした目覚ましい産業発展のもとに、深刻な過剰生産恐慌が生じ、労働争議が激化する一方、従来のアメリカの順調な成長を可能にしてきたフロンティアが「消滅」したといった危機意識が強まるなかで、19世紀末に対外的進出を目ざす新しい膨張の気運が盛り上がり、帝国主義的政策の展開をみることになった。
 西半球に関しては、1889年にアメリカのイニシアティブのもとに第1回汎(はん)アメリカ会議を開催、ラテンアメリカへの経済的進出の構えを明確に打ち出し、また1895年のベネズエラ国境紛争に際し、モンロー主義を一歩進めて、アメリカが西半球における主権者であるといった主張を行う一方、太平洋方面ではオアフ島真珠湾の租借に次いでハワイ先住民の王国が打倒された(1893)。さらに、キューバの独立運動を契機に引き起こしたアメリカ・スペイン戦争(1898)を、文字どおりの植民地再分割のための帝国主義戦争たらしめ、キューバを保護領化、プエルト・リコ、グアム、フィリピンを領有、その間にハワイを併合し、カリブ海から西太平洋にかけて広範囲にわたり植民地を領有するに至った。しかも1899年中国に関して自由主義的な門戸開放政策を宣言する一方、1903年には強引な手段でパナマ運河地帯を獲得、翌1904年のラテンアメリカに対する内政干渉権の主張に次いでドル外交を推進するなど、西半球から太平洋方面の戦略上の要地を確保しつつ、海外市場への積極的進出を図った。
 こうして過剰生産に伴う経済的困難に関し、対外的膨張策によりその打開を図る一方で、独占資本の支配力の拡大による種々の弊害に対処するため、政府の権限を拡大、強化しようとする改革運動が台頭してきた。これは一般に革新主義とよばれ、都市部の中産階級を主要な基盤とし、19世紀後半より若干の大都市や州において政治改革が企てられてきたが、さらに20世紀に入ると、連邦政府により積極的な規制策が講じられるに至った。すなわち、T・ルーズベルト政権のもとでトラストの不当な行為に対する摘発、鉄道への規制の強化、政府による労働争議の調停、自然資源保護策、薬品や食品衛生の管理による消費者の保護などの政策がとられ、また、ウィルソン政権のもとで、銀行制度の改革、反トラスト法の整備、農業融資機関の設立、若干の労働保護立法などの施策が講じられた。
 これらは独占批判を中心とする社会改革の気運をもとにしていたが、労働者階級の運動が軸になっていたわけではなく、社会主義を指向するどころか、むしろ逆に連邦政府の積極的な介入により開かれた機会とか自由競争の維持を図るといったアメリカの伝統的価値観に依拠した面が強かった。また資本側も、産業社会の問題を処理するのに政治の介入を必要としており、実際に独占体の規制のために設立された行政機関は、資本主義経済の順調な発展のために実業界と協力したり、助言や指導を行うことが主要な機能となった。[新川健三郎]

パックス・アメリカーナ形成の時代


第一次世界大戦と経済危機
第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するや、アメリカは当初従来の孤立主義的伝統に即して中立を宣言したが、経済的には連合国側とのきずなを強め、ついに1917年民主主義擁護の理念のもとに参戦、さらにウィルソンは十四か条の平和原則を提唱して国際連盟の設立に導くなど、戦後の国際秩序の再建にも指導的役割を果たした。大戦を通して、アメリカは債務国から債権国に転じ、資本主義世界の中心ともいうべき地位を占めるようになった。国際連盟自体には、ベルサイユ講和の内容に幻滅し孤立主義的風潮の高まった世論の影響もあって加入しなかったが、経済面ではドーズ案の策定にもみられるように、ヨーロッパの復興問題に関し不可欠の役割を演じ、対外投資活動も大規模に展開された。
 国内経済も未曽有(みぞう)の繁栄を謳歌(おうか)したが、1929年に大恐慌が勃発、経済危機は世界恐慌へと拡大し、ベルサイユ条約以来の国際秩序は破綻(はたん)に瀕(ひん)した。1933年に政権についたF・D・ルーズベルトは、ニューディール政策で恐慌の克服を図りつつ社会改革に取り組んだが、これらの政策は、民主化の促進により危機を乗り切ろうとした点で、ファシズム諸国とは著しい対照をなしていた。だがニューディールは景気の回復そのものには失敗し、国防力増強の必要もあって、アメリカ経済は結局軍事化の道をたどることになった。
 この間、外交面では「善隣政策」を通してラテンアメリカ諸国との結束を深め、西半球に強固な経済圏を築き上げ、さらに軍事的協力関係にまで発展させたが、アジア大陸における日本の武力侵略に対しては、中国支援の立場にたちながらも、非承認政策以上の強い態度をとることができなかった。ナチス・ドイツの台頭で不穏となったヨーロッパ情勢についても、1933年にソビエト連邦を承認したものの、積極的な対ソ協力による集団安全保障形成の方向には進まず、むしろ海外の紛争に巻き込まれるのを避けようとする世論の風潮のもとで、一連の中立法を制定するなど、孤立主義的政策がとられた。[新川健三郎]
第二次世界大戦と冷戦
第二次世界大戦が勃発すると、アメリカは中立を宣言したものの、反ファシズム陣営の側にたつことを明確にし、武器貸与法で軍事援助政策に着手、イギリスと大西洋憲章を発表し、さらに1941年12月、日本の真珠湾攻撃を契機に参戦した。以後その強大な経済力、軍事力をもって連合国側を勝利へ導くために多大の貢献を行った。さらに戦後の国際平和機構の樹立を目ざして尽力し、とくにソ連との協調をその前提として重視した。
 国際連合の設立は実現したものの、大戦末期から戦後にかけて東欧問題や原爆国際管理問題などをめぐってソ連との対立が深まり、1947年にはギリシア・トルコ援助問題をきっかけに、事実上冷戦の宣戦布告ともいうべきトルーマン・ドクトリンを宣言し、経済的、軍事的優位を背景に、世界的規模で反共封じ込め政策に乗り出した。さらに、西欧資本主義経済の復興を促進するため、マーシャル・プランとよばれた大規模な経済援助政策に着手、ついで1949年北大西洋条約機構(NATO(ナトー))を設立し、反共軍事同盟網の整備を軌道にのせた。こうした冷戦戦略の展開と並行して、内政面でも、一面でニューディール政策を継承しつつ、公務員の忠誠審査の実施、国家安全保障会議の設置、国内治安法の制定など、反共体制が強化され、マッカーシズムという極右勢力による「赤狩り」や思想弾圧の活動が荒れ狂うまでに至った。
 共産主義圏との対決も、1949年の中国の共産主義化、翌1950年の朝鮮戦争の勃発、ラテンアメリカや中東における民族主義勢力の伸長など、アジアその他の地域で重大な事態に直面するようになり、アメリカは反共陣営強化のため日本との「単独講和」を強行(1951)、軍事同盟網を拡大するとともに、ベトナム、イラン、グアテマラなど各地で反革命的介入を展開、反共政権の樹立や、てこ入れに邁進(まいしん)した。さらに相互安全保障法(MSA)の協定などによる軍事援助により同盟諸国の軍事力の増強を図る一方、水爆など核兵器の開発に拍車をかけ、局地戦争にも核兵器の使用を示唆した大量報復戦略を表明するに至った。また、ソ連に対抗して、発展途上地域に対する開発援助政策にも乗り出した。[新川健三郎]
パックス・アメリカーナの破綻
第二次世界大戦後アメリカは、その圧倒的に強大な経済力、軍事力を背景に、自由主義陣営の指導国として、世界的規模で反共戦略を展開してきたが、早くも1950年代後半に入ると、そうしたパックス・アメリカーナ的状況は破綻を示し始めた。
 ソ連側の核兵器開発の進展や人工衛星打上げの成功などにより、アメリカのこの分野での独占、優位は崩れて、「核の相互抑制」あるいは「恐怖の均衡」といった状態に陥り、政治的にも「多極化」の進行に伴い、アメリカの指導力は相対的にせよ低下した。また経済的にも、当初「ドル不足」という有利な立場に立っていたが、対外的軍事支出の増大、西欧や日本の経済復興の進展、民間の対外投資活動によるドル流出といった諸要素が重なった結果、「ドル危機」が生ずるに至った。
 さらに、キューバ革命の成功や、ベトナムなどにおける民族解放勢力の進出に対し、ケネディ政権は、進歩のための同盟と称する新たな援助政策や、対ゲリラ戦をも重視した柔軟反応戦略によって対処しようとしたが、ジョンソン政権のもとでベトナム戦争への介入を本格化し、アメリカの国際的立場を著しく損ない、指導力を弱めただけでなく、国内面でも深刻な政治危機を引き起こすに至った。ついで政権についたニクソンは、1970年ニクソン・ドクトリンを発表、対外的支援・介入の縮小とアメリカの負担の軽減、ベトナム戦争の「ベトナム化」を目ざし、他方、核戦力を中心とした軍事力の強化、共産主義陣営との交渉や取引を促進するなどの方針を明らかにし、訪中や訪ソを実現したが、これらはアメリカの国際的地位の低下に対応した戦略の再編といった面を有していた。
 他方、国内社会の動向に関しても、1950年代後半以降、黒人の人種差別撤廃を目ざす公民権運動、その他の少数派(民族)の地位の向上や女性解放の運動、さらには消費者運動など、新たな社会改革や民主化を指向する活動が活発に展開された。また、ペンタゴン秘密文書の暴露に次いで、ウォーターゲート事件ではニクソン大統領を辞任に追い込むに至る厳しい追及がなされた。経済面ではインフレーション下の不況といった深刻な状況に、エネルギー危機や貿易収支および財政支出の赤字が重なり、1980年代には対外的にも債務国に転じた。
 だが、ソ連との核兵器の削減に関する交渉はしだいに進展し、さらに1980年代末より1990年代初めにかけてソ連および東欧の共産主義体制が瓦解(がかい)したことにより、冷戦はアメリカが「勝者」のようなかたちで終結をみた。こうして国際環境が大きく変わるなかで、アメリカは地域的紛争などへの対応で引き続き主導的な役割を担う一方、国内面では保守化傾向が高まりつつあり、少数派に関する問題でも多元文化主義的改革の方向に向かうことができるか否か、大きな試練にたたされているといえる。[新川健三郎]

アメリカ史の研究史


アメリカ
19世紀前半よりバンクロフトやパークマンらにより、植民地時代や独立革命、建国史を中心に大部の歴史叙述が行われたが、これらは一般にアメリカの共和制社会の建設を謳歌(おうか)し、建国の父たちを賛美するナショナリスティックな面が強く、またロマンチックな色彩が濃かった。1870年代以後、ドイツのランケ史学の影響のもとに史実を客観的に叙述する科学的史学が確立し、ついで現実の社会の理解や解釈に役だてる機能的歴史観にたった「新しい史学(ニュー・ヒストリー)」が台頭、フロンティア理論のターナーや経済的解釈を重視するビアードらを輩出した。そしてこの流れを受け継いで、リベラル派の立場からアメリカ史の改革の伝統に着目する革新主義史学が主流となっていったが、第二次世界大戦後はアメリカ社会の保守化を反映して、その変革の不要性や保守性をむしろ評価する保守主義史学が有力となった。しかし1950年代末以降、ウィリアムズWilliam A. Williamsの批判的な議論を皮切りに、ニューレフト史学が台頭した。それは、帝国史観の観点からアメリカの対外的膨張を批判するとともに、従来の白人中心の見方を退けて少数派の問題を重視するなど、アメリカ史像の再検討を迫ったが、これらは近年の社会史の活発な研究活動と相まって、アメリカ史研究に新たな展望を開きつつあるといえる。[新川健三郎]
日本
日本におけるアメリカ史の本格的な研究は、高木八尺(やさか)に始まるが、とくに第二次世界大戦後、盛んとなった。当初はピューリタニズムやフロンティア論を中心としたアメリカの精神的風土、あるいはその民主的伝統や制度の理解に力点が置かれていた。しかし1960年代以後、日米安全保障条約をめぐる論議やニューレフト史学の影響もあって批判的な見解が強まり、また研究内容の面でも独自の解釈なり成果が出されるようになった。問題の関心が集中している分野としては、アメリカ史の重要なテーマである独立革命、奴隷制と南北戦争、20世紀の一連の改革政策はもとより、日米関係、日系移民その他の移民や少数派問題、労働者や黒人などの民衆運動をはじめとする社会史、門戸開放帝国主義や冷戦起源の史的検討などがあげられるが、産業資本の形成や金融資本の成立といった経済史研究の面でも優れた成果があがっている。[新川健三郎]
『C・A・ビアード著、松本重治他訳『新版アメリカ合衆国史』(1964・岩波書店) ▽中屋健一著『偉大なるフロンティア』(『大世界史 18』1968・文芸春秋) ▽S・モリソン著、西川正身監訳『アメリカの歴史』(1970~1971・集英社) ▽有賀貞著『アメリカ政治史』(1974・福村出版) ▽斎藤眞著『アメリカ政治外交史』(1975・東京大学出版会) ▽清水博著『アメリカ合衆国の発展』(『世界の歴史 17』1978・講談社) ▽関西アメリカ史研究会編『アメリカの歴史』(1982・柳原書店) ▽清水博編『アメリカ史』増補改訂版(1986・山川出版社) ▽有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史』新版(1990・有斐閣) ▽歴史学研究会編『南北アメリカの500年』(1992~1993・青木書店) ▽ハワード・ジン著、猿谷要監訳『民衆のアメリカ史』全3巻(1993・TBSブリタニカ) ▽有賀貞・大下尚一・志頓晃祐・平野孝編『アメリカ史 1、2』(『世界歴史大系』1993~1994・山川出版社) ▽安武秀岳・野村達朗・上杉忍著『新書アメリカ合衆国史 1~3』(講談社現代新書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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