日本大百科全書(ニッポニカ) 「アメリカ独立宣言」の意味・わかりやすい解説
アメリカ独立宣言
あめりかどくりつせんげん
Declaration of Independence
1776年7月4日、大陸会議によって公布されたアメリカ13植民地のイギリスからの独立を宣言した文書。前年5月以来植民地と本国との武力衝突が続いていたが、和解の希望も薄れ、またトマス・ペインの『コモン・センス』に代表される独立論が高まり、大陸会議もついに独立を決意するに至った。1776年6月7日、バージニア代表リチャード・ヘンリー・リーRichard Henry Lee(1732―1794)は大陸会議に「独立の決議」を提案し、これに基づいて6月10日に独立宣言起草委員会が発足した。委員はジェファソン、J・アダムズ、フランクリン、シャーマンRoger Sherman(1721―1793)、リビングストンRobert R. Livingston(1746―1813)の5人であったが、ジェファソンが草案を書き、フランクリンとアダムズによってわずかに修正された委員会案が大陸会議に提出され、さらに多少の削除、加筆が加えられたのち、7月2日に採択、4日に公布された。
独立宣言は基本的人権・革命権の主張を述べた前文、国王の暴政28か条の列挙と本国議会・本国人への非難を述べた本文、独立を宣する後文、の三つの部分からなる。このうちとくに、「すべての人間は平等に造(つく)られている」ことを高唱し、不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文はアメリカ独立革命の理論的根拠を要約した部分として知られている。またこの理論が、名誉革命を思想的に正当化したジョン・ロックの自然法理論の流れを引くものであることも、よく指摘されるところである。この宣言は、理論上も、また具体的な政策上も、独立が不可避であることを対外的に正当化しようとするものであったが、他方、対内的には、アメリカ人を独立に決起させようという檄文(げきぶん)の意味をもっていた。J・アダムズによれば、この時点でのパトリオットPatriot(愛国派)は人口(推計約250万)の約3分の1であった。宣言の意義は大きいものであるが、黒人奴隷の存在に象徴される、現実との乖離(かいり)のあったことも忘れてはならない。
[島川雅史]
『高木八尺訳・解説『独立宣言』(アメリカ学会訳編『原典アメリカ史2』1951・岩波書店・所収)』