アレクサンドルネフスキー(英語表記)Aleksandr Nevskii

改訂新版 世界大百科事典 の解説

アレクサンドル・ネフスキー
Aleksandr Nevskii
生没年:1220ころ-63

中世ロシアの英主。ノブゴロド公(在位1236-51)を経て,ウラジーミル大公になった(1252-63)。軍事的才能に恵まれ,1240年7月15日には,弱冠20歳でネバ川から上陸したスウェーデン軍を小部隊で急襲,敗走させ,ネフスキー(〈ネバ川の〉の意)とたたえられた。ほどなく都市貴族と不仲になり,歴代諸公と同様に一時ノブゴロドを追放されたが,42年4月5日,凍結したチュド湖の〈氷上の戦〉で,侵入するドイツ騎士修道会激戦を交え,これに壊滅的打撃を与えて勇名を馳せた。ノルウェー,スウェーデンなど西への備えを固めながら,キプチャク・ハーン国のロシア支配に対しては,教皇のそそのかしにも乗らず徹底した宥和政策をとり,唯一破壊を免れたノブゴロドの反タタール的動きを禁圧する一方で,ハーン国の都サライになん度も伺候してロシア人のハーン軍編入を緩めさせるなど,隠忍して国力の温存強化をはかった。最後の伺候の帰途,病没したが,教会は彼を聖列に加え,後世ピョートル大帝も記念の修道院を建立して顕彰した。民間の口碑伝説でも名高く,ロシアの代表的な国民的英雄の一人である。
タタールのくびき
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

アレクサンドル・ネフスキー
Aleksandr Nevskii

[生]1220頃
[没]1263.11.14. ゴロジェツ
ロシアの英雄,ウラジーミル大公 (在位 1252~63) 。初めノブゴロドの公に封じられ (36) ,1240年スウェーデン十字軍を奇襲作戦によってネバ河畔で壊滅させ,市とフィンランド湾沿いの通商要地を確保したことにより「ネフスキー」の称号を得る。その後,ドイツ騎士団の侵略に直面したが,42年チュド湖におけるいわゆる氷上の戦いで決定的な勝利を収め,引続くリトアニア (リトワ) の侵入も排除して,北方通商路の安全を維持した。しかし北方の勝利とは逆に,東南方タタール政権キプチャク・ハン国に対しては常に屈従を余儀なくされた。一方では外国権力の圧政に抗する民衆の動きを押えるとともに,他方で周辺諸公のうえに立ってハン廷との間に巧妙な外交手腕を発揮して中小地主貴族と商人層の利益を守りつつ,徴税請負権を含む若干の行政権を委任された。ハン廷でも次第にその実力を認めて,52年キプチャク・ハンは彼がウラジーミル大公位につくことを承認。東北ロシア住民がハン国の徴税吏と紛争を起した際,問題解決のためハン廷へ伺候したが,その帰途死没した。死後ロシア教会により聖人に列せられた。 1725年 (聖) アレクサンドル・ネフスキー勲章が制定され,ロシア革命後の 1942年にも同名の勲章が制定されている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

アレクサンドル・ネフスキー
あれくさんどるねふすきー
Александр Невский/Aleksandr Nevskiy
(1220ころ―1263)

ロシアの政治家、武将。ノブゴロド公(1236~1251)。1252年からウラジーミル大公。スズダリのヤロスラフ・フセボロドビチ公の子。1240年7月15日ネバ河畔でスウェーデン軍を撃破し、この勝利により「ネフスキー」(「ネバ川の」の意)の名を得た。さらにドイツ騎士団の侵攻に対し、1242年4月5日チュド(ペイプス)湖の氷上の戦いで大勝を得、ロシア北西部に対する外敵の侵入を防ぎ、国民的英雄とされた。卓見のある政治家として、彼はキプチャク・ハン国とは協調しながら、内に大公権力の強化に努めた。ハン国からの帰途、1263年11月14日に死去。

[伊藤幸男]

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百科事典マイペディア の解説

アレクサンドル・ネフスキー

中世ロシアの大公。1240年侵入したスウェーデン軍をネバ川に破り,1242年ドイツ騎士修道会の軍をペイプス(チュド)湖の氷上で撃破。当時ロシアはモンゴル人の支配下にあったが,彼はこれを利用して西欧の圧力に対抗した。ロシアの国民的英雄。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 の解説

アレクサンドル・ネフスキー
Aleksandr Nevskii

1220?~63

ロシアの大公。スウェーデン軍のネヴァ川上陸を撃退し(1240年),ドイツ騎士団を「氷上の戦い」で敗走させた(42年)国民的英雄。しかし,キプチャク・ハン国に対しては臣下の礼を尽くした。

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367日誕生日大事典 の解説

アレクサンドル・ネフスキー

生年月日:1220年5月30日
古代ロシアの英雄,聖人
1263年没

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世界大百科事典(旧版)内のアレクサンドルネフスキーの言及

【エイゼンシテイン】より

…帰国したエイゼンシテインは,スターリン個人崇拝と官僚的芸術指導が浸透した体制のもとで,社会主義リアリズムから逸脱した〈形式主義者〉と攻撃され,新作の企画が相次いで拒否され,彼の情熱は映画学校での教育に向けられた。 37年,ツルゲーネフの小説をもとにつくられた農村映画《ベージン草原》は,映画局長ボリス・シュミヤツキーによって《プラウダ》紙上で攻撃されて未公開に終わり,エイゼンシテインは自己批判を強いられるが,シュミヤツキーの解任後,ナチス・ドイツの脅威に対して士気を高揚するためにつくられた歴史映画《アレクサンドル・ネフスキー》(1938)は,エイゼンシテインに対する批判・非難をはらいのけてレーニン勲章を授与される。40年にソ連最大の撮影所モスフィルムの芸術部門の指導者に任命され,《イワン雷帝》第1部(1944)を完成するが,間接的なスターリン批判になっているとされ上映を禁止された第2部(1946)の改作中,50歳の誕生日を迎えてまもなく心臓発作で死亡。…

【プロコフィエフ】より

…ミーラはその後の病気がちなプロコフィエフの生活を支えた。ソ連では,オペラ《セミョーン・コトコ》(1939),《修道院での結婚》《戦争と平和》《真実の人間の物語》,バレエ曲《シンデレラ》(1944),《石の花》(1949),映画音楽《アレクサンドル・ネフスキー》(1938)など大規模な劇作品が多い。そのほかにも,《第5~第7交響曲》《第6~第9ピアノ・ソナタ》などあらゆる分野に多くの作品を残した。…

【チュド[湖]】より

…プスコフとタルトゥなどの間に定期航路がある。1242年4月,ドイツ系のリボニア騎士団がこの地に侵入したとき,アレクサンドル・ネフスキーの率いるノブゴロド軍は凍結したチュド湖上にこれを迎えうち,撃破した。この戦いはバルト海東部,リボニア地域をめぐる争いにおいて,ロシア側が勝利をおさめる第一歩となったものであり,〈氷上の戦〉として名高い。…

【ネバ[川]】より

… ネバ川はキエフ・ロシア時代すでにバルト海から黒海,ビザンティン帝国へ至る水路の北方起点となっていたが,現在では,白海・バルト海運河,ボルガ・バルト水路の一部をなし,ヨーロッパ・ロシアにおける最も重要な水上交通路となっている。ネバの形容詞がネフスキーnevskii(〈ネバ川の〉の意)であるが,1240年にネバ河畔でスウェーデン軍を撃退したノブゴロド公アレクサンドルは,この勝利によってアレクサンドル・ネフスキーと呼ばれるようになった。1703年,ピョートル1世が河口の広大な三角州の上に新都サンクト・ピーテルブルッフ(旧,レニングラード。…

※「アレクサンドルネフスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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