セルビアの作家。ボスニアの零細な手工業職人の家に生まれる。幼くして父を失い、敬虔(けいけん)なカトリック教徒の母の愛に支えられて成長。向学心に燃え、ザグレブ、ウィーン、クラクフの大学で哲学を学んだ。第一次世界大戦中、南スラブ民族解放運動に参加したかどでオーストリア官憲に逮捕され、入獄。この体験から処女詩集『黒海より』(1918)が生まれ、叙情詩人として出発した。1924年以降散文に転じ、短編を得意とした。1923年グラーツ大学よりボスニア史の研究で博士号を受け、その後ユーゴスラビア外務省に入り、第二次世界大戦開始まで西欧諸国で外交官生活を送った。大戦中、ナチ占領下のベオグラードで自宅蟄居(ちっきょ)し、長編小説の執筆に専心した。解放後の1945年、その成果である三部作『ドリナの橋』『ボスニア物語』『サラエボの女』を矢つぎばやに発表し、世界の注目を集めた。続いて『宰相の象』(1948)、『呪(のろ)われた中庭』(1954)を発表し、1961年「自国の歴史の主題と運命を叙述し得た叙事詩的力量」が評価されて、ノーベル文学賞を受賞した。
[栗原成郎]
『松谷健二訳『ドリナの橋』(1966・恒文社)』
ユーゴスラビアの作家。1961年ノーベル文学賞受賞。ボスニア生れ。ザグレブ,ウィーンなどの大学でスラブ文学と歴史を修め,グラーツ大学で博士号を取得。早くから急進的運動に加わり,サラエボ事件に連座して第1次大戦中を獄中で過ごす。この時の思索をもとに1918年散文詩《黒海より》をまとめ,その後外交官としてヨーロッパ各地を巡りながら,ボスニアの過去に素材を求めた好短編を次々と発表。45年,ナチス占領下のベオグラードで完成した《ドリナの橋》《ボスニア物語》《サラエボの女》の長編三部作を発表して世界の注目をあびた。いずれも永遠の相の下に東と西の衝突,新と旧の交代を静謐(せいひつ)なリアリズムで描破した雄編である。54年には中編《呪われた中庭》で,イスタンブールの牢獄を舞台に悪についての考察を展開した。戦後は連邦議会議員や連邦作家同盟議長をつとめるなど,公務多忙のため作品数は少ない。中・長編小説はすべて邦訳されている。
執筆者:田中 一生
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…ドリナ川流域地方は第1次世界大戦当初の1914年9~11月,オーストリア軍とセルビア軍が激烈な戦いを繰り返した場所であるし,第2次世界大戦に際しては,枢軸軍に対するパルチザン闘争の主要な舞台にもなった。また,ボスニアのノーベル賞作家アンドリッチの作品《ドリナの橋》は,ドリナ川中流の町ビシェグラードの500年にもわたる歴史を,この川にかかる橋を中心に書きつづった小説として有名である。【柴 宜弘】。…
…20世紀初頭には,モスタル出身のシャンティチAleksa Šantić(1868‐1924)は,詩《エミール》において同名のムスリム女性に寄せるキリスト教徒青年の切々たる恋心を歌い,コチッチPetar Kočić(1877‐1916)は戯曲《狢裁判》で官憲の愚かさを徹底的に笑いのめしている。第2次世界大戦後は,アンドリッチが3部作《ドリナの橋》《ボスニア物語》《サラエボの女》ほか多数の作品を著し,1961年にノーベル文学賞を受賞した。その他,パルチザン戦争体験をユーモラスに描いたチョピッチBranko Čopić(1915‐84),独裁体制の不条理を描いたセリモビッチMeša Selimović(1910‐82)などが活躍した。…
…また言語の統一とともに各民族間の文学交流が生まれた。とくに20世紀に入ってから,アンドリッチらが編集した《南方文芸》(1918-19)にツァンカル,クルレジャらも寄稿して,南スラブ諸族の文化的・文学的な協働が始まった。 20世紀に入って1918年には南スラブ諸族の統一国家ユーゴスラビアが成立するが,この20世紀の文学はスロベニアのモダニズム運動で幕をあける。…
※「アンドリッチ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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