日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
イスラエル・ヨルダン平和条約
いすらえるよるだんへいわじょうやく
Treaty of Peace between the State of Israel and the Hashemite Kingdom of Jordan
1994年10月に調印された、アラブ諸国ではエジプトに次ぐイスラエルとの平和条約。パレスチナ暫定自治合意(1993年9月)の直後からイスラエルとヨルダンの公式交渉が動きだした。1994年7月、アメリカでイスラエルのラビン首相とヨルダンのフセイン国王が「ワシントン宣言」に調印、その後、短期間のうちに平和条約が締結された。国境が一部修正され、ヨルダン領となった土地は、リース方式でイスラエル農民に従来どおりの使用権が保証されている。そのほか、安全保障での協力、水資源問題の合意と協力などが盛り込まれた。中東和平交渉のなかではもともと政治的な難問が少なく、アメリカのヨルダンへの軍事協力や9億ドルに上る対アメリカ債務の帳消しなど、アメリカによる経済的支援が和平を強力に後押しした。
しかし、イスラエルで1996年に発足したネタニヤフ政権下で中東和平が停滞すると、和平の進展に伴う域内経済の活発化に対する過大な期待も薄れた。1997年9月、イスラエルの諜報機関(ちょうほうきかん)モサドが、ヨルダンの首都アンマンでパレスチナのイスラム組織ハマス(ハマースとも)の政治局員ハーリド・マシャアルKhaled Mashaal(1956― )の暗殺未遂事件を起こしたことで、イスラエル・ヨルダン平和条約も危機に陥ったが、ヨルダンは両国の平和と治安を妨害するとして1999年、マシャアルらを国外追放した。
ヨルダン国民の半数以上がパレスチナ人であるため、ヨルダンの対イスラエル外交はつねに微妙な舵(かじ)取りを要求される。2001年からのシャロン政権のもとでイスラエルとパレスチナが暴力の応酬で混沌とすると、2003年6月、ヨルダンがホスト国となってアメリカ大統領ブッシュ、イスラエル首相シャロン、パレスチナ自治政府首相アッバスの三者会談がアカバで行われ、先にアメリカ、ロシア、ヨーロッパ連合(EU)、国連の4者(カルテット)が提示した和平プロセス「ロードマップ」を実行に移すことが合意された。
2010年末からアラブ各国で民主化運動が高まったアラブの春の流れのなかで、ヨルダンでもめまぐるしく内閣が交替している。2012年5月にファイズ・タラウネFayez al-Tarawneh(1949―2021)元首相が首相に任命された際には、1990年代にタラウネ首相がイスラエル・ヨルダン平和条約で重要な役割を果たした経緯もあり、民主化に加えてイスラエルとの平和条約破棄を求めるデモも発生した。なお、タラウネ内閣は同年10月に総辞職した。
[勝又郁子]