日本大百科全書(ニッポニカ) 「パレスチナ問題」の意味・わかりやすい解説
パレスチナ問題
ぱれすちなもんだい
Palestinian Problem
パレスチナ問題とは、一口でいえば、中東の一角を占めるパレスチナ地方の帰属、いいかえれば、そこに住む人たちの自決(自分たちの問題を自ら決めること)の問題である。にもかかわらず、パレスチナでは、住民の意志をなおざりに、国際政治に翻弄され、紛争が起こり、血みどろの戦いが続いているところにこそ問題の核心がある。
[奥野保男]
問題の発端
今に至る問題の発端をたどると、第一次世界大戦中のイギリスの「三枚舌」外交があげられる。イギリスは、オスマン・トルコとの戦いに勝つために、アラブ人にパレスチナを含むアラブ国家の独立を約定し(1915年のフサイン‐マクマホン書簡)、トルコ領内でのアラブ人の反乱を促した。その一方で、ユダヤ人に対しては、パレスチナでの「民族的郷土」すなわちユダヤ人国家の建設を支援する約束をした(1917年のバルフォア宣言)。さらにこの間、戦後パレスチナ地域を英仏両国で分割する密約(1916年のサイクス‐ピコ協定)をフランスと結んでいる。これらに先立って、1897年スイスのバーゼルで開かれた第1回シオニスト会議をきっかけに、ユダヤ人の祖国建設運動(シオニズム)が高まり、パレスチナへの移民も急増しており、これにヨーロッパ各地でのユダヤ人差別・排斥事件が拍車をかけた。
第一次世界大戦後、パレスチナ地域は国際連盟のイギリス委任統治領となるが、戦時中の欺瞞(ぎまん)外交の結果、アラブ、ユダヤ、イギリスの間で三つどもえの争いが起きた。それまでのパレスチナでは、アラブ人とユダヤ人の平和な共存状態が続いていたのである。したがって、紛争の原因は、第一次世界大戦中のイギリスの帝国主義外交や第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人大虐殺に代表されるヨーロッパの反ユダヤ主義など、欧米人が主になって、パレスチナ以外の場所で、パレスチナの住民を犠牲にして生成されたということができる。
[奥野保男]
イスラエルの独立と抗争
やがて第二次世界大戦後になって、紛争の処理に手を焼いたイギリス政府は委任統治の返上を決意し、問題を国際連合に委託した。国連は、1947年11月にユダヤ人に有利なパレスチナ分割決議を採択したが、48年5月ユダヤ国民評議会がイスラエルの建国を一方的に宣言。これに反対する近隣アラブ諸国が派兵し、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)となった。その後、アラブ・イスラエル間の紛争は、56年のスエズ戦争(第二次中東戦争)、67年の六日戦争(第三次中東戦争)、73年の10月戦争(第四次中東戦争)と計4回の中東戦争が起きている。いずれも当事国が国連安保理の決議を受諾して停戦にこぎつけたが、すべてアメリカ、ソ連、ヨーロッパの大国と近隣諸国の国家権力の思惑に基づく処理で終り、パレスチナ問題の本質である「住民の自決」をまったく無視するものであった。
67年の第三次中東戦争で、イスラエルはヨルダン川西岸地区やガザ地区などを占領下に置き、パレスチナ側の反対勢力の活動が活発になる。64年にアラブ連盟によって設立されたパレスチナ解放機構(PLO)は、70年代以降武力闘争を展開していった。87年12月には、ガザ地区で始まったパレスチナ住民によるインティファーダ(大衆蜂起)が、イスラエル占領下の西岸地域に波及した。88年11月PLOはパレスチナ民族評議会(PNC)でパレスチナ国家の独立を宣言、同時にイスラエルの生存権を認めた安保理決議の受入れを明記した政治宣言も採択した。
その後、91年の湾岸戦争で、イラクがクウェート撤退の条件として、ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原などからのイスラエルの撤退を要求し、いわゆるパレスチナ問題とのリンケージ(イラク大統領フセインが、クウェートからの撤退をイスラエルのパレスチナ占領地からの撤退と連係させるよう要求したこと)をもちだしたことから、イスラエルとイスラエルを支持するアメリカも、パレスチナ問題を含む包括的な中東和平に乗り出さざるをえなくなった。こうして開かれたのが、91年10月スペインのマドリードでの中東和平会議であり、全体会議に続き、多国間交渉と二国間協議を行うことになった。そして、92年末から始まっていたノルウェーでの秘密交渉が実り、93年9月の二国間協議でイスラエルとPLOとの間にガザ・エリコ暫定自治(パレスチナ暫定自治)および相互承認が合意され、協定にワシントンでアラファト議長(PLO)とラビン首相(イスラエル)が調印、同10月に発効した。これが一般にオスロ合意とよばれるものである。
[奥野保男]
パレスチナ暫定自治
「領土と平和の交換」といわれるこの暫定自治協定は、イスラエルの占領地のうち、まず先行的にガザ地区とヨルダン川西岸のエリコで、イスラエル軍の撤退完了をもってパレスチナ人住民による自治が開始され、パレスチナ人に警察、教育、保健などの行政権を委譲し、5年間の暫定期間ののち、占領地の恒久的な地位を決めるというものである。協定で決められたスケジュールからは大幅に遅れたものの、94年5月のカイロ合意に従ってイスラエル軍の撤退が始まり、95年9月には、ヘブロンを除くヨルダン川西岸の都市部にまで自治を拡げるパレスチナ自治拡大協定が調印された。その1か月後には、和平路線を推進してきたラビン首相が暗殺されたが、96年1月にはパレスチナ立法評議会選挙(議席88)が行われ、パレスチナ自治政府も誕生、アラファトPLO議長が自治政府長官(ライース)に選出された。イスラエルはその後、ペレス後継政権を経て、96年6月に右派政党リクードのネタニヤフ政権が成立。イスラエルによる東エルサレムでの入植地建設の強行、これに反対するパレスチナ過激派組織ハマスによる反撃の応酬などがあり、オスロ合意は足踏みを続けた。
99年5月の選挙で勝利したバラク労働党政権の誕生で、改めて恒久的地位交渉が再開されたが、聖都エルサレムの帰属をはじめ、独立国家パレスチナの領土、ユダヤ人入植地の扱い、パレスチナ難民の帰還などをめぐり、両者は厳しく対立した。そして2000年9月リクードのシャロン党首が、エルサレムのイスラム教聖地アル・アクサ・モスク訪問を強行したことから、第二次インティファーダが発生。翌01年2月のイスラエル首相公選でシャロン政権が誕生してからは、交渉は暗礁に乗り上げた。
[奥野保男]
険しい和平への道
2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロは、その遠因ともいえるパレスチナ問題の解決への期待と要望を、国際的に強めることとなった。しかし、イスラエル寄りのアメリカの仲介では、事はうまく運ばず、この事件で勢いを得たかにみえるパレスチナ過激派による連続自爆攻撃と、アメリカの対テロ軍事強硬策への便乗とみえるイスラエルの「対テロ戦争宣言」(ハマスは非難)、パレスチナ自治区への大規模侵攻といった事態を招いた。過剰報復の悪循環は、02年に入って一段と強まり、パレスチナ和平交渉のプロセスは、崩壊状態に陥る大打撃を受けた。さらに、03年3月アメリカ・イギリス両軍の攻撃でイラク戦争が勃発。アメリカは孤立をさけ、戦果をあげるため、アラブ諸国はじめ同盟国に配慮しつつも、イスラエル支持の立場をくずそうとしない。同年4月、カルテット(アメリカ、ヨーロッパ連合、国連、ロシア)によって正式に提示された「パレスチナ国家の独立を軸に2005年までに問題の平和解決を目ざす」というロードマップ(行程表)最終案も、ブッシュ米大統領が02年6月に発表していた和平提案を発展させたもので、いうまでもなくアメリカ主導によるものである。
ブッシュ政権の自国を最強・最善とする覇権主義、大国主義、武力第一主義といった思い上がりや単独行動主義は、アメリカと一体化するイスラエル政府に深く浸透している。イスラエルのシャロン政権は、まさにブッシュの「対テロ戦争」の論理に倣(なら)い、2004年にはハマスの指導者ヤシンとランティシをイスラエル軍によって相次いで公然と殺害し、アラファト議長を排除するなど国の圧倒的な軍事力を駆使しての大規模な「国家テロ」政策を強行している。その背後には、イスラエル政府と世界ユダヤ人組織によるコンドミニアム(共同統治)というイスラエル国家の二重構造を指摘する説もある。さらに、イスラエルを説得できるのは、この国に影響力をもつアメリカだけだと期待されている当のアメリカは、公正で中立的な立場を求められる調停者として失格であるともいう現実に、パレスチナ問題解決の難しさがあるといえよう。
[奥野保男]
パレスチナの民族問題の核心
パレスチナ問題の核心は、アラブ諸国に散在するパレスチナ難民キャンプで棄民ゆえの無権利状況と迫害を生きる人々の姿にある。祖国を放逐されたディアスポラ(離散)・パレスチナ人(2002年現在、パレスチナ人は全世界に約930万人、パレスチナ中央統計局による)は、民族自決権の回復=パレスチナ国家実現に苦難の解決を求めるが、そのことは、パレスチナ人放逐により誕生した「ユダヤ人国家」イスラエルの解体を意味しており、それゆえにイスラエル側からの「テロリスト」非難、武力弾圧に直面してきた。そうした状況においてパレスチナ問題は、二つの民族間の宿命的対立である、とする視点が一般化してきた。
しかし、「パレスチナ人」という民族概念は、「ユダヤ人国家」イスラエル誕生で放逐・棄民化された人々の共通の運命をてこに形成されたのであり、「ユダヤ人」対「パレスチナ人」の対立の図式は、「ユダヤ人」がパレスチナで国家建設を始めるなかでできあがった歴史的に新しい事態にほかならない。
19世紀末、ユダヤ人迫害の嵐(あらし)が吹き荒れる東ヨーロッパを中心に、シオニズムが始動した。「ユダヤ人国家」建設にディアスポラ・ユダヤ人の被る差別と迫害(ユダヤ人問題)の解決を求めるシオニズムは、『旧約聖書』で「約束の地」とされるパレスチナを「ユダヤ人の郷土」と見定め、そこをユダヤ教徒だけの領土=「ユダヤ人国家」として獲得する運動であった。このシオニズムによってパレスチナ問題は発現した。パレスチナの住民は大半がイスラム教徒で、それにキリスト教徒とわずかなユダヤ教徒がいたが、人々は宗教のいかんにかかわらず一様にアラブとして一体化して暮らしていた。第一次世界大戦後イギリス委任統治下で本格化するシオニズムの運動は、ユダヤ人(おもにヨーロッパの)のパレスチナへの大量入植によって人為的に「ユダヤ人」の実体をつくりあげていった。土地と生活権を脅かされシオニズムに抵抗するアラブ住民は、アラブ民族独立要求の運動を体現し、イギリス委任統治権力に弾圧される運命にあった。さらにアラブ住民は、パレスチナでのシオニズムの展開を正当視するヨーロッパ世界の圧力にも直面した。パレスチナのアラブ住民がユダヤ人(教徒)の国家建設に脅かされ抵抗するとき、ヨーロッパは、非ユダヤ教徒のアラブがユダヤ教徒に敵対しているというようにみて、アラブ住民がシオニズムに対決する真の理由を黙殺した。ヨーロッパで、ユダヤ人問題をつくりだしてきた宗教の違いによる敵対の見方を、パレスチナの対立に当てはめたのである。1948年、前年の国連決議に基づき、イスラエルがパレスチナ住民の放逐とその後の彼らのディアスポラの将来をてこに誕生したことは、ヨーロッパのユダヤ人問題が解決したのではなく、宗教の違いによる敵対の形をとって新たにパレスチナで再生されたことを示していた。
近年、パレスチナ問題はパレスチナ人自身の主体化のなかで克服されようとする段階を迎えている。そのことを端的に示すのは、パレスチナ人が、彼らの解放の目標とするパレスチナ国家建設を、宗教のいかんを問わない、現イスラエル市民をも構成員のなかに考慮する非宗教的・民主的国家に求めている点である。中東の民衆の苦悩は一様に、宗教、宗派、国籍等の違いが敵対要因として作用する世界でのそれである。パレスチナ人はそのことを、非「ユダヤ人」としての苦悩を通じて、またさまざまな宗徒が混じり合っているアラブ諸国での無国籍者であるがための異端者の苦悩を通じて学んだ。パレスチナ人は、他者への敵対のなかで自己解放はありえないということを自覚している点で、ユダヤ人問題解決の担い手でもあるといえるであろう。
[藤田 進]
『臼杵陽著『世界化するパレスチナ/イスラエル紛争』(2004・岩波書店)』▽『エドワード・W・サイード著、杉田英明訳『パレスチナ問題』(2004・みすず書房)』▽『広河隆一著『パレスチナ』新版(岩波新書)』▽『芝生瑞和著『パレスチナ』(文春新書)』▽『横田勇人著『パレスチナ紛争史』(集英社新書)』