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イタリア共産党 イタリアきょうさんとう

百科事典マイペディアの解説

イタリア共産党【イタリアきょうさんとう】

1921年社会党から分裂して成立。最初は極左派のボルディーガ,1926年以降はグラムシ,次いでトリアッティが指導者となった。ファシズム体制下では非合法であったが,レジスタンスで勢力を拡大し,第2次大戦後は1980年代まで西ヨーロッパ最大の共産党だった。
→関連項目ウニタネンニユーロコミュニズムロンゴ

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世界大百科事典 第2版の解説

イタリアきょうさんとう【イタリア共産党 Partito Comunista Italiano】

1921年イタリア社会党から分裂して結党。初期の指導者はA.ボルディーガ(1889‐1970),グラムシらで,26年に非合法化された後,パリに指導部を移す。ファシズムに対する抵抗運動をつづけ,武装レジスタンス期(1943‐45)の活動で大衆的基盤を広げた。第2次大戦後はトリアッティ書記長の下で議会第二党の地位を保持し,56年に構造改革路線を打ち出して〈社会主義へのイタリアの道〉を唱え,ユーロコミュニズムの先駆となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イタリア共産党
イタリアきょうさんとう

左翼民主党」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イタリア共産党
いたりあきょうさんとう
Partito Comunista Italiano

イタリアの共産主義政党。略称PCI。1921年社会党から分派、コミンテルン(第三インターナショナル)のイタリア支部として結成された。1926年ファシスト政府の政党禁止令によって解散。グラムシをはじめ多くの幹部の投獄や亡命によって、以後、党の組織活動はとだえた。しかし第二次世界大戦の終わる直前、抵抗運動の主役として活躍し、その体験を元に、戦後野党第一党としてイタリアの政治に決定的な役割を果たした。しかし、1989年ベルリンの壁崩壊直後に解党し、改革派の大部分は「左翼民主党」に属し、反対派は「再建共産党」を新たにおこした。[柴田敏夫]

多中心主義と歴史的妥協

1944年亡命先のモスクワから帰国したトリアッティによって大衆政党型の「新しい党」づくりが進められると同時に、議会を中心とする平和革命方式が採用され、やがて1956年12月の第8回党大会で「社会主義へのイタリアの道」と題する基本綱領がまとめられた。それは、
(1)ソビエト社会主義を唯一のモデルとすることを否定し、社会主義の多様性を主張する「多中心主義」
(2)イタリア社会主義国家の建設には幅広い国民大衆の合意に基づく下からの「構造的諸改革」の必要
を主たる柱としており、それ以後同党に一貫して継承されると同時に、日本の革新政党にも種々の影響を与えた。1973年ベルリングエル書記長は、より柔軟な「歴史的妥協」路線を提示し、政権獲得のためには保守勢力とも妥協する必要があり、また西欧社会主義は、複数政党制を認めるなどなによりも自由を基礎にして建設されなければならないとする「ユーロコミュニズム」の旗手としての立場を鮮明にした。1976年6月総選挙で前例のない得票率34.4%、227議席を獲得した後、1979年1月までキリスト教民主党(DC)政府に閣外協力したが、目だった成果を得られなかった。下部党員の不満が高まるなか、チリ革命の教訓に触発されたベルリングエルの責任ある政府に参加するための「歴史的妥協」路線の見直しは、事実上必至とみられるようになる。これに追打ちをかけたのは、キリスト教民主党の長老であり元首相のアルド・モーロの誘拐・暗殺事件(1978年3月)である。モーロは、イタリア共産党との橋渡しをする唯一の政治家だったからである。[柴田敏夫]

政治的孤立と減退

こうして1980年代のイタリア共産党は、「歴史的妥協」路線から、進歩的民主勢力(とくに社会党)と提携してDC支配に対抗する「民主的オルタナティブ」路線(1983年党大会で採択)に転換し、EC(ヨーロッパ共同体)統合にも理解を示し、またソ連離れを強めていくが(アフガニスタン侵攻反対、ポーランド軍事介入批判)、実質的には妥協路線を継続するものと大方には受け取られた。1983年、社会党クラクシ党首の率いる5党連立政権の誕生によって、イタリア共産党は孤立した。1984年にはEC議会選挙で34.4%を獲得し、キリスト教民主党の33.6%を超えたものの、イタリア共産党にとって明確な展望は容易に開けなかった。
 一方、1980年代中葉のイタリア経済は、黄金の時期といわれるほど好況にわき、大衆消費社会化が顕著となり、このころの世論調査で目だったのは、若年層の政治離れ、無関心層の増大であった。有権者の政治意識も急速に変容、多様化し、またストライキを回避する労働組合もみられるようになった。総選挙のたびに、イタリア共産党は得票率を下げ、集票力の減退に悩んだ。[柴田敏夫]

改革と党名変更

1985年のゴルバチョフのペレストロイカ(建て直し)に始まる東欧諸国の脱社会主義化、1989年のベルリンの壁撤去に至る大変動は、否応なくイタリア共産党に「存続のための」改革を迫ることとなる。この困難な大事業は、書記長のオケットAchille Occhetto(1936― )の下、1989年末から15か月にわたり、2回の党大会を経てようやく終わった。オケットはあらかじめ党指導部の若返りを図ったうえで改革に取り組んだが、マルクス主義の正当性を主張し、直前まで党改革に反対した古参のコスッタ派をまとめえず、約68%の多数決をもって決着した。こうして1991年の第20回党大会で、イタリア共産党は党名を左翼民主党Partito Democratico della Sinistra(略称PDS)に改め、70年におよぶ歴史に幕を閉じた。[柴田敏夫]
『植村邦著『イタリア共産党転換の検証』(1999・新泉社) ▽山田薫著『イタリア共産党と戦後民主体制の形成』(2002・シーエービー出版) ▽ナポリターノ・ホブズボーム著、山崎功訳『イタリア共産党との対話』(岩波新書) ▽柴田敏夫著『イタリア共産党』(教育社新書)』

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世界大百科事典内のイタリア共産党の言及

【イタリア】より

…これら連立内閣は平均寿命が1年足らずの短命内閣で,ここからイタリアの政治の不安定さが印象づけられているが,実際には内閣が変わってもキリスト教民主党を中心とする政治の枠組みは同じままであり,政治の不安定というより,政治の動態の欠如というべき現象であった。 キリスト教民主党に次ぐ第2党はイタリア共産党で,1950~60年代の総選挙での得票率は25%前後を維持して確固たる勢力を有していた。共産党は,創設者の一人であるグラムシがファシズム政権下の監獄で書き残した《獄中ノート》を文化思想の拠りどころとし,また中部イタリアのトスカナ,エミリア・ロマーニャ,ウンブリアの地域に〈赤いベルト地帯〉とよばれる強固な基盤を築いていた。…

【グラムシ】より

…第1次大戦後,トリアッティ,タスカらと《オルディネ・ヌオーボ(新秩序)》誌を刊行して,トリノの労働者と共に工場評議会運動に取り組み,1920年4月のゼネスト,同年秋の工場占拠闘争を推進した。21年1月イタリア共産党の結成に参加,22年6月からコミンテルン執行委員としてモスクワ,次いでウィーンに滞在,この間ロシア女性ジュリアと結婚,2児の父親となった。24年4月国会議員に当選して帰国,党書記長に選出され,ファシズム支配下での革命運動のあり方に心を砕いた。…

【構造改革論】より

…狭義には,1950年代後半から60年代にかけて,イタリア共産党を中心に発展した現代社会主義革命の戦略論をいう。これが目ざしたのは,国家独占資本主義と呼ばれる高度に発達した資本主義社会に適応しうる変革であり,またそれを担う主体の形成である。…

【トリアッティ】より

…イタリア共産党指導者。トリノ大学在学中に社会党に入党,第1次大戦後グラムシらとともに《新秩序Ordine Nuovo》誌を発行して,トリノの労働運動を指導する。…

※「イタリア共産党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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