コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ウラルトゥ ウラルトゥUrartu

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ウラルトゥ
Urartu

前9~7世紀にかけてアッシリア北方のバン湖周辺を中心に栄えた王国。ヘブライ語名アララト。首都はバン湖東岸沿いのビアイナ (現バン) 。王国の中心は今日のトルコとアルメニア共和国との国境線にまたがり,最大の版図をもったときには,イラン,イラク,シリアの一部をも含んだ。非セム系のウラルトゥ人は,前9世紀頃ビア族のアラメと称する王によって統一され,アッシリアのシャルマネゼル3世と対抗するにいたった。一時アッシリアに敗れたが,新しい王朝を築き,ビアイナを首都として栄え,サルドゥリシュ1世の治下,最大の版図を有し,アッシリアの侵入を一切許さなかった。しかし前 714年キンメリア人の侵入以来,国力は衰退し,ルサ1世治世中の前 713年アッシリア王サルゴン2世に制圧され,その属国となった。前 612年アッシリアが滅亡すると,スキタイ,次いでメディアに編入された。 1879年以降発掘調査が進められ,透かし彫,象眼 (ぞうがん) などを施した青銅製品,細線細工による金・銀製品などすぐれた技術を有した遺物が出土している。また灌漑用運河,城塞構築などの技術にすぐれ,楔形文字で記した碑文も発見されている。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

ウラルトゥ【Urartu】

前9~前6世紀に西アジアに栄えた王国。隆盛期にはアルメニア高原の全域(現在のアルメニア,トルコ,イランにまたがる)を占めた。アッシリアではこの国のことがウルアトリUruatriまたはナイリNairiとよばれたが,自称はビアイニリBiainili,旧約聖書ではアララト(アララテ)Ararat王国の名で登場している。ウラルトゥはアッシリア名に由来する。 ウラルトゥの言語は,ソ連の言語学者メリキシビリG.Melikishviliによると,フルリ語に近く,フルリ・ウラルトゥ語族に属する。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ウラルトゥ
うらるとぅ
Urartu

バン湖を中心に広大な地域を支配した古代の王国。ヘブライ語ではアララトAraratという。中心は現在のアルメニア共和国と、トルコ東部の国境線にまたがり、一時は今日のイラン、イラク、シリアの一部をも版図に含んでいた。紀元前9世紀にウラルトゥ人はビア人の王アラメによって統一され、以後、前7世紀まではアッシリアとの抗争で明け暮れた。サルドゥリシュ1世は首都をバン湖畔に定め、前8世紀初頭のアルギシュティシュ1世の治世に最盛期を迎えた。ルサシュ1世は首都をトプラッハ・カラ(ウズベキスタン内)に築き、主神ハルディスに捧(ささ)げた神殿を建立したが、前713年アッシリアのサルゴン2世に敗れた。前610年アッシリアが完全に滅亡後、前6世紀初頭になってメディアに編入され、前585年アケメネス朝ペルシアのカンビセス1世に滅ぼされ、以後歴史上から姿を消した。
 ウラルトゥ人は民族的にはフルリ人(非インド・ヨーロッパ語系)と関連が深く、ヒッタイトの象形文字に似た文字をもっていたが、大部分はアッシリアの楔形(くさびがた)文字に基づく楔形文字(ウラルトゥ語)を使って記録を残した。芸術面ではアッシリアの影響を強く受けているが、冶金(やきん)術、とくに青銅製品に独自の優れたものが多い。著名な遺跡としては、トプラッハ・カラ、カルミル・ブルール、アルティン・デペなどがあり、城砦(じょうさい)や住居趾(し)、墳墓などが発掘され武具、装身具などが発見された。[高橋正男]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

ウラルトゥの関連キーワードティグラト・ピレセル(3世)アルメニア(アジア南西部)イスタンブール考古学博物館ティグラトピレセル[3世]楔形文字(くさびがたもじ)ティグラト=ピレゼル3世アナトリア文明博物館アルメニア[古代]チャウシュテペ城アナトリア諸言語サルゴン(2世)アルトゥン・テペ中東史(年表)ハッサンル遺跡アララト[山]アッシリア学コルキス王国パサルガダエペルシア美術キャクサレス

今日のキーワード

優曇華

《〈梵〉udumbaraの音写「優曇波羅」の略。霊瑞、希有と訳す》1㋐インドの想像上の植物。三千年に一度その花の咲くときは転輪聖王が出現するという。㋑きわめてまれなことのたとえ。2 クサカゲロウ類が産...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android