フルリ人(読み)フルリじん(その他表記)Hurrians

改訂新版 世界大百科事典 「フルリ人」の意味・わかりやすい解説

フルリ人 (フルリじん)
Hurrians

古代オリエント膠着語を話す非セム系民族。前3千年紀半ばころから約1000年またはそれ以上の長きにわたってメソポタミアに居住した。ただし言語については人名のほかにはフルリ語資料が乏しく不明な点が多い。旧約聖書中のヒビ人Hivitesはフルリ人をさすものと思われる(《創世記》34:2以下,《ヨシュア記》9:7,11:19)。ただし旧約聖書中のヒビ人ないしホリ人Horitesの用法には混乱がみられる。サルゴン時代の文書から検出されるフルリ語人名や普通名詞はわずかであるが,それらと関連して出てくる地名などから,北または北東からティグリス川を越えてメソポタミアに侵入してきたものと思われる。ウル第3王朝時代(前2112-前2004)になると史料から検出されるフルリ語人名は増加するが,彼らが主として居住していた地域はなおティグリス川の東に限られていた。しかし,ウル第3王朝崩壊とともにフルリ人の居住地域は飛躍的に拡大する。クルディスターン地方の町シュシャラやカラナ(テル・リマー)の住民の多くがフルリ人であることは驚くにあたらないとして,ユーフラテス川中流のマリ(7編のフルリ語宗教文書が出土),ユーフラテス川上流のハガル・バザルや遠くアンティオキア平野のアララク(Ⅶ層)などにもフルリ語人名が検出され,フルリ人がアッシリアばかりでなくシリア一帯に浸透し始めたことがわかる。

 フルリ人が最も広範かつ活発に活躍した時代は次の中アッシリア(または中バビロニア時代)であった。前17世紀末から前16世紀初頭にかけて北シリアにおける旧勢力はヒッタイトに滅ぼされるが,まもなくヒッタイトが内紛のためシリアから身を引いている間に,フルリ人はシリアを中心にその地歩を固めた。この時期でとくに重要なのは前1500年ころまでに成立していたと思われるミタンニ王国である。
ミタンニ王国
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フルリ人」の意味・わかりやすい解説

フルリ人
フルリじん
Hurrians

前2千年紀のオリエントの歴史と文化に重要な役割を果たした民族。メソポタミアのウル第3王朝の史料にすでにフルリ人の人名や地名が現れる。チグリス川左岸やザグロス山脈に居住していたと推定される。しかし前2千年紀初頭からしだいに西方に移動し,とりわけインド=ヨーロッパ語族の南下に影響されたとみられるその移動は大規模で,ザグロス山脈とバン湖の間の地方から出て,前 18世紀にはシャムシ=アダド1世のアッシリアを滅ぼし,チグリス川の東にヌジ (ヌズ) という都市 (→ヌジ遺跡 ) を建てて通商の一大中心地とした。またシリア各地やアナトリア東辺部にも入植し,ヒッタイト人と隣接するにいたった。当時北メソポタミアがフルリ人の最も多く住んだところであった。前 15世紀アーリア系の貴族のもとイランの山岳地帯からシリアを支配するミタンニ王国を形成,ワシュカンニを首都とした。エジプトとは,トゥトモス3世のときシリアの支配権をめぐって争ったが,アメンホテプ3世時代には友好関係を保ち,両王家の婚姻も行なわれた。しかし前 14世紀中頃シュッピルリウマシュ1世のもとに勢力増大したヒッタイト帝国と戦って敗れ,ミタンニ王マッティワザはヒッタイトに臣従。またアッシリアも再び独立したため,政治的には支配力を失ったが,キリキアのキズワトナ王国やシリアの諸都市のフルリ人は経済的・文化的勢力を持続し,ヒッタイト帝国の宗教,文学ばかりでなく,王家の血統にもフルリ的色彩を色濃く残した。シリアの海港ウガリトでも同様であった。アルメニア山中のハヤシャ王国を除いて,前2千年紀末までに民族的集団としてのフルリ人は消滅した。フルリ人の言語 (→フルリ語 ) は現在では死語となっているが,カフカス (コーカサス) 地方のグルジア系諸語はその系統をひくという説もある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フルリ人」の意味・わかりやすい解説

フルリ人
ふるりじん
Hurrians

西南アジアのカフカス山脈の南麓(なんろく)地方を原住地とする山岳民族。紀元前3000年ごろから原住地を離れ、北メソポタミアに移動を始めた。前18世紀ごろになると、インド・ヨーロッパ語族をその支配者とする王国を各地に建設した。アナトリア地方に侵入した一派はヒッタイト帝国、ユーフラテス川中流域ではミタンニ王国、バビロニアにはカッシート王朝が建てられ、各国の王名や神名からもインド・ヨーロッパ語族の影響がわかる。前17世紀ごろ下エジプトのデルタ地帯を支配したヒクソスとよばれる異民族の侵入も、フルリ人の大移動と深い関係があると考えられている。しかし、フルリ人だけの王国は建設されなかった。

[吉村作治]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「フルリ人」の解説

フルリ人(フルリじん)
Hurri

北メソポタミアに居住した民族。フルリ語の系譜は未詳。ウラルトゥとの関連が指摘されている。前24世紀頃のアッカド時代から知られるが,ウル第3王朝時代の将軍たちにフルリ人名を持つ者が多くいた。シャムシアダド1世の広大な勢力圏が瓦解すると,フルリ人は北メソポタミアからシリア方面にも進出した。このフルリ人居住地域にミタンニが建国された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「フルリ人」の解説

フルリ人
フルリじん
Hurrians

北メソポタミア,アナトリア東部山地,北シリアを主住地とする古代オリエントの民族
民族系統は不明。前2000年紀初め以来,バン湖付近の原住地からアッシリア・シリア地方に移動して住民と混血した。エジプトに侵入したヒクソスはその移動の余波である。前16世紀にアーリア人系の支配層と結合して,ミタンニ王国を建設した。

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世界大百科事典(旧版)内のフルリ人の言及

【メソポタミア】より

… イシン・ラルサ時代からバビロン第1王朝時代にかけては各種の粘土板文書が多く残っているから,統治体制,司法制度,商業,土地制度,尼僧制などに関して,みるべき多くの研究成果がある。バビロン第1王朝
[カッシート人,フルリ人,ミタンニ王国]
 西イランにいたカッシート人はサムスイルナ時代に南メソポタミアに現れたが,その言語はまだわかっていない。バビロン第1王朝の崩壊後カッシート人は前12世紀中葉までバビロニアを支配した。…

※「フルリ人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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