トルコ西部,イズミルの南にある古代都市。前11世紀ごろイオニア人が移住して建設。前545-前466年にはペルシアの勢力下にあったが,その後アテナイの民主制とオストラキスモス(陶片追放)を採用し,デロス同盟に参加。ペロポネソス戦争ではアテナイに味方したが,前412年スパルタに屈す。古くから多くの乳房をもつ母神アルテミスの崇拝が盛んで,前6世紀中ごろには大規模なイオニア式の二重周柱神殿アルテミシオンArtemisionが建てられた。その127本の円柱の費用は,リュディア王クロイソスが寄進したといわれる。前356年ヘロストラトスの放火によって神殿は焼失したが,同じプランに基づいて新神殿が再建され,その規模と壮麗さとによって古代世界の七不思議の一つに数えられた。
前3世紀初めごろ,町は付近の山麓(現在の遺跡の位置)に移され,港湾施設と全長9kmの城壁をそなえた新都市が建設された。前189年ペルガモン領,前133年ローマ領となる。前88年ポントス王ミトリダテスがローマに対する反乱を企てたとき,町のローマ市民約8万人が虐殺されたが,小アジアに平和が回復したアウグストゥス帝時代には,ローマ領アシア州の都として繁栄した。後55-58年,使徒パウロはこの地でキリスト教の伝道に従事。新約聖書の《エペソ人への手紙》はパウロがこの町の信徒たちに送った書簡である。4世紀には町の中心に3廊式バシリカの聖母マリア教会が建てられ,431年にはここで有名なエフェソス公会議が開催された。また,ユスティニアヌス帝時代の550-564年には,コンスタンティノープルの聖使徒教会を手本にして,3廊式2階建てで6個の円蓋をもつ聖ヨハネ教会が建立された。町は263年ゴート族の侵入によって破壊されたあと商業都市として再建されたが,1426年トルコ領になって以後はまったく見捨てられ,廃墟と化した。
1896年以来,オーストリア考古学会が組織的な発掘調査を続けている。現在遺跡には,両側を柱廊に縁どられた幅5m,延長530m,大理石舗装のアルカディアネ大通り(400年ころ),観客席66段,2万4000人収容の大劇場,富裕な市民ケルススが建てた図書館(135年完成),華麗なハドリアヌス神殿(130年ころ),コリント式のセラピス神殿,約1500人収容のオデイオン(音楽堂,2世紀),そのほか公共浴場,体育練習場,競技場,泉屋,市役所などの跡が残っている。
執筆者:松島 道也
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トルコ、小アジアの西海岸に栄えた古代都市。『新約聖書』ではエペソと書かれる。紀元前11世紀末ごろに建設され、イオニア12都市の一つとして、前6世紀ごろから植民と貿易により発展した。万物流転を説く哲人ヘラクレイトス、詩人カリノスもここから出た。この地に建立されたアルテミス神殿は、古代七不思議の一つに数えられる壮麗な建物であった。ローマ支配下にもアジア州の州都として栄え、紀元後53年から約2年間、使徒パウロがここに滞在して伝道し、教会を建て、『新約聖書』の「コリント書」「ガラテヤ書」を書いた。使徒ヨハネも聖母マリアを伴い、晩年ここに住んだと伝えられている。262年、ゴート人が侵入して市街と神殿を破壊、その後復興したが、昔日の繁栄は回復しなかった。431年エフェソス公会議が開かれ、15世紀後半には一寒村と化し、19世紀後半からオーストリア考古学協会の発掘によって古代の栄えが世に示された。
[秀村欣二]
…彼女はまた〈青年の養育者〉として共通の職能をもつ女神ヘカテと,さらにはアポロンが太陽神と同一視されるようになったのにともない,月の女神セレネSelēnēと,しばしば混同ないし同一視された。崇拝の中心地はアッティカ地方のブラウロンと小アジアのエフェソスで,ブラウロンのアルテミス神殿には,アガメムノンの娘イフィゲネイアがクリミア半島のタウリスから持ち帰ったと伝える神像がまつられていた。一方,エフェソスには古代の七不思議に数えられる大神殿があり,数多くの乳房をもつアルテミス像がその本尊であった。…
※「エフェソス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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