改訂新版 世界大百科事典 「オタワ協定」の意味・わかりやすい解説
オタワ協定 (オタワきょうてい)
Ottawa Agreement
1932年7月21日~8月20日,カナダのオタワで開かれたイギリス帝国経済会議(オタワ会議)で締結された協定で,イギリス連邦特恵関税制度Commonwealth Preferenceなどを定めた。19世紀から20世紀初頭までのイギリスは,工業製品貿易における優位を背景に,自由貿易主義を掲げ各植民地に対しても開放的な貿易政策をすすめた。しかし,第1次大戦を契機として,イギリス本国にとってイギリス連邦の結束を強化することの必要性と,植民地にとってイギリス本国市場でアルゼンチンや他のヨーロッパの競争者に対し優位を保ちたいという欲求とが合致して,1915年にイギリス連邦諸国の相互貿易に特恵関税を中心とする優遇措置が導入された。次いで世界恐慌が深刻化するなかで,31年のイギリスの金本位制停止に引き続いて32年オタワ会議(参加したのは,イギリス本国,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド,南アフリカ,アイルランドの各自治領,インド,南ローデシアの植民地)が開かれ,イギリス連邦を世界恐慌から救出する方策が論議された。イギリス連邦以外の国の製品に対しては相対的に高い関税を賦課し,連邦諸国内の製品の関税は低くするという特恵制度はより完備・徹底したものとなった。この特恵制度は,連邦諸国に安定的な市場圏を確保するのに役立ちはしたが,1930年代の世界的な恐慌のもとにおきた世界経済のブロック化(ブロック経済)に一層の拍車をかける結果となった(〈ポンド地域〉の項目参照)。
第2次大戦後はGATT(ガツト)-IMF体制のもとで,無差別互恵原則による自由貿易主義が世界貿易拡大の主柱となった。したがってイギリス連邦特恵制度の拡大は行われず,さらに連邦諸国の中にもイギリス本国からの輸入品に代わって自国内の製造工業を育成したいという動きが出て,47年には特恵の範囲が大幅に縮小された。また50年代からはイギリス連邦内相互の貿易は後退しはじめ,オーストラリア,ニュージーランドなどでも対イギリス貿易の比重は減少を続けた。このような変化を背景に,61年にはイギリスのEEC加盟申請が行われ,73年1月の正式加盟によってイギリス連邦特恵制度は終止符をうった。そしてこれに代わるものとして,イギリス連邦独立諸国の一部は,75年に拡大ECと発展途上国との特恵や経済協力関係を定めたロメ協定に参加するなどして,拡大ECと新しい通商協定を結ぶことになった。
執筆者:佐々波 楊子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報