米国の原子爆弾の開発を主導して「原爆の父」と呼ばれた物理学者ロバート・オッペンハイマーの伝記映画。「メメント」や「インターステラー」など独創的な映画で話題を呼んできたクリストファー・ノーラン監督の最新作で、監督自身が脚本も担当した。2023年7月に全米公開され、ゴールデン・グローブ賞で監督賞など計5部門で受賞。日本の全国公開は今月29日。
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アメリカの理論物理学者であり、世界最初の原子爆弾製造の指導者。ユダヤ系の裕福な実業家の子として4月22日ニューヨークに生まれる。ハーバード大学卒業後ヨーロッパに留学した。当時は量子力学の誕生直後であり、この新しい物理学の中心の一つであったゲッティンゲン大学で、M・ボルンの指導のもと、原子・分子の量子力学を研究、ついで場の量子論、宇宙線現象へと研究の対象を広げ、1927年に博士の学位を得た。1929年アメリカに帰り、カリフォルニア大学(バークリー)とカリフォルニア工科大学(パサディナ)で新進気鋭の物理学者として多くの研究者を養成し、一方、宇宙線シャワー理論、中間子論、重陽子反応などの研究で揺籃(ようらん)期にあった原子核理論、素粒子論に重要な寄与をした。1936年両大学の教授に就任した。
天体物理、一般相対論にも関心をもち、1938、1939年には中性子星の理論、星の重力崩壊の理論を提出した。これらは1960年代の後半に宇宙に発見されることになるパルサー、X線星、ブラックホールなどの研究の先駆をなすものである。
1941年ごろよりアメリカにおける原子爆弾開発(マンハッタン計画)に関与するようになった。1943~1945年に、ニュー・メキシコ州ロス・アラモスに建てられた研究所の所長として原爆開発のために多くの科学者を集め、その組織化された成果を引き出すうえで並外れた指導力を発揮し、原爆を世界で最初に完成させるという大事業をやり遂げた。第二次世界大戦後ただちにバークリーに戻ったが、1947年からはプリンストン高等研究所の所長に迎えられ、1966年までその任にあった。この間、日本の湯川秀樹(ゆかわひでき)、朝永振一郎(ともながしんいちろう)、小平邦彦(こだいらくにひこ)らのほか、各国から理論物理学者、数学者を招き、世界でトップの研究センターとしての地位を築いた。彼自身は量子電磁気学、素粒子論の研究を続けた。
戦後、「原爆の父」として国家的英雄とされたオッペンハイマーは、1949~1950年における水素爆弾製造の是非をめぐる論争において、製造計画に反対した。アメリカの原子力政策の中枢にあった彼の社会および科学者への影響力は大きかった。彼の権威を失墜させる目的で、いわゆる「オッペンハイマー事件」が、おりからアメリカ社会を支配した「赤狩り」のマッカーシズム風潮のなかで起こされた。1954年原子力委員会は、彼が機密事項に関与することを許可しない決定を行った。のち1963年、アメリカ政府は彼にフェルミ賞を授与し、反共ヒステリック状態でなされた1954年の決定の非を認め、彼の名誉回復を図ったとされている。1967年2月18日、ニュー・ジャージー州プリンストンで死去。
芸術、哲学を愛し、つねに科学と人類の文化の関係に心を砕いた。その魅力的な人格とたぐいまれな才能に恵まれた人物がたどった劇的で波瀾(はらん)に富んだ生涯と核兵器に対する苦悩は、そのまま今日の社会と科学の関係を象徴するものといえる。
[佐藤文隆]
『R・ユンク著、菊盛英夫訳『千の太陽よりも明るく』(1958・文芸春秋新社/2000・平凡社)』▽『ハイナール・キップハルト著、岩淵達治訳『オッペンハイマー事件――水爆・国家・人間』(1965・雪華社)』
ドイツの社会学者、経済学者。フライブルク大学やベルリン大学で医学や哲学を学び、多年ベルリンで開業医をしていたが、社会問題に関心をもち、業務の余暇に社会学や経済学の文献を渉猟し、『国家論』(1907)を著して一躍有名になる。1909年ベルリン大学経済学部私講師、1919年フランクフルト大学社会学、経済学正教授となり、1929年病気退職した。ユダヤ人のためナチスの迫害を受け1933年アメリカに亡命、1943年ロサンゼルスで没した。社会学を人間社会の歴史的発展に関する普遍科学とみて、個々の社会科学を結合する原理科学とみなした。こうした観点から、社会学は社会過程の理論であると定義している。また国家観については、グンプロビッチ、ラッツェンホーファーらの征服国家論を継承し、政治的手段のもつ意味を重視していた。そして、社会発展の過程を経済的史観のみに頼ることを排し、政治的手段によって進行するものとして、やがて国家的権力組織なき無支配の社会「自由市民社会」Freibürgerschaftが到来するとした。主著には『社会学体系』4巻System der Soziologie, 4 Bde.(1922~1929)ほかがある。
[高島昌二]
アメリカの理論物理学者。原子核,量子電磁力学,宇宙線など多くの領域で目覚ましい成果をあげ,教育者としても指導的立場にあり,多くの優れた物理学者をその門下から輩出した。
ニューヨークの生れ。父はユダヤ系ドイツ人で,若いときアメリカに移民として渡り織物輸入業を営む。裕福な家で何不自由なく学問,文学,芸術に親しんで育ち,1922年ハーバード大学入学。3年後に首席で卒業し,25-26年ケンブリッジ大学へ遊学,量子力学の創成期にP.ディラックらの影響をうけ,研究を始める。26年M.ボルンに招かれてゲッティンゲン大学にいき,共同でいわゆるボルン=オッペンハイマー近似を導き,27年春に学位を取得,その後29年までヨーロッパ各地で自由な研究生活をおくり,P.エーレンフェスト,W.パウリらと親交を結んだ。29年,カリフォルニア工科大学とカリフォルニア大学の教授にほとんど同時期に就任,以来,42年までの間に彼の主要な研究のほとんどが行われ,また両校で多数の物理学研究者を育成,カリフォルニアはアメリカ物理学の新しい拠点となった。30年代のオッペンハイマーの仕事は,量子電磁力学に関してディラック電子論・原子核の統計の研究,また宇宙線現象の研究,中間子論の発展,重陽子反応における中性子捕獲の理論の研究など,きわめて多領域である。またパサデナの天文学者と協力して,中性子星や重力崩壊の理論を提出した。オッペンハイマーの役割は,20世紀初めまで実験物理学優位のアメリカ物理学に,ヨーロッパで誕生したばかりの量子力学を踏まえた理論物理学という新機軸を導入した点でも重要であった。
41年秋,A.H.コンプトンに招かれアメリカ科学アカデミーの専門委員会に参加し原爆製造計画に直接ふれ,以後,同計画の中心メンバーの一人となる。43年に設立されたロス・アラモス研究所の所長を45年まで務め,原爆製造の最終工程でその能力を発揮,〈原爆の父〉と呼ばれた。第2次世界大戦後大学へ戻るが,マンハッタン計画の中で果たした彼の役割は引き続き原子力委員会一般諮問委員会の議長(1947-52)として果たされた。また同時期の47年にプリンストン高等研究所の所長となり,66年まで務め,アメリカの理論物理学研究の拠点としての同研究所の名を高めた。
1950年代の冷戦構造の中でアメリカの水爆開発着手に対して反対の立場をとり,そのことを主要な原因として国家への忠誠を問われ,いっさいの公職から追放(1954)されるにいたった。61年,ケネディ大統領の時代に,アメリカ政府はこの措置の事実上の撤回をはかり,フェルミ賞を贈呈(1963)したが,この事件は現代の科学と国家,社会の間にはらむ緊張関係を象徴するものであった。
執筆者:奥山 修平
ドイツの宮廷ユダヤ人。通称〈ユダヤ人ジュースSüss〉で知られる。ビュルテンベルク大公に仕え,宮廷財政を近代化して辣腕をふるい,芸術保護者でもあったが,諸階層の恨みを買い,国庫財産の着服やキリスト教徒女性との性交渉などの嫌疑をかけられて処刑される悲運に倒れた。スケープゴートの歴史的典型である。フォイヒトワンガーの《ユダヤ人ジュース》(1925)をはじめ多くの作家の作品に描かれて世界的に著名となり,反ユダヤ的な映画化(1940)にまで利用された。
執筆者:山下 肇
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1904~67
アメリカの科学行政家。物理学者として出発し,第二次世界大戦中ロスアラモス研究所長として原爆製造を指揮した。水爆計画に反対したため,1954年アメリカ政府から不忠誠の疑いをかけられ,原子力委員会から遠ざけられたが,63年同委員会はフェルミ賞を彼に贈って彼の名誉を回復した。
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… 43年ローズベルト大統領とチャーチル・イギリス首相の会談の結果,イギリスがアメリカのマンハッタン計画に協力することが決まり,イギリスにおける原子兵器の研究開発は中止された。同年春,ニューメキシコ州ロス・アラモスに爆弾を製造するための研究所を設立し,J.R.オッペンハイマーが所長に就任した。ここでは臨界量の理論計算および実験,爆弾の設計,製造を目的とし,マンハッタン計画の中でも特にY計画と呼ばれた。…
…恒星がその進化の終末に到達する中性子物質からなる超高密度の星。中性子星の存在は,すでに1930年代にL.D.ランダウ,J.R.オッペンハイマーらにより理論的に予言されていた。また超新星爆発の際に中性子星が残骸としてできるとする考えを,W.バーデとツビッキーF.Zwickyが提案している。…
…Pは巨視的な系では極端に小さくなるので,事実上このような確率は0であり古典力学と同じ結論が得られるが,原子のスケールではトンネル効果が実際に起こる。 トンネル効果の可能性を最初に指摘したのはJ.R.オッペンハイマーであり(1928),水素原子に強い電場をかけたとき,電子がクーロン場の障壁を透過して外部に放出される確率を論じた。同じ年,G.ガモフ,R.W.ガーニーおよびE.U.コンドンは原子核の放射性崩壊の際,α粒子(ヘリウムの原子核)が原子核から放出される過程(α崩壊)をトンネル効果として説明した。…
…42年12月2日のシカゴ大学で最初の原子炉が臨界に達し,また核分裂物質の量産のための用地買収準備がすすめられたことに象徴されるように,この年は原爆製造のための具体的準備が行われた年にあたる。 43年にはロス・アラモス研究所でJ.R.オッペンハイマーを中心に,精製された核分裂物質をどのように爆弾として構成するかという原爆開発の核心的技術問題を扱う研究が始められた。同時に実用規模の各生産工場の建設,運転が相次いで開始された。…
※「オッペンハイマー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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