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オランダ風説書 オランダフウセツガキ

百科事典マイペディアの解説

オランダ風説書【オランダふうせつがき】

江戸時代鎖国中に,オランダ商館長が幕府に提出した海外のニュース。オランダ船入港のたびに,オランダ通詞が翻訳し,長崎奉行を通じて差し出したもの。幕府にとって唯一の公の海外情報源であった。
→関連項目カピタン(日本史)

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世界大百科事典 第2版の解説

オランダふうせつがき【オランダ風説書】

鎖国時代,毎年長崎に入港したオランダ船によってもたらされ,オランダ商館長が長崎奉行を通じて江戸幕府に提出した海外情報の和訳文。当初,オランダ人は対日貿易を確立・発展させるために,敵対関係にあり,幕府も警戒忌避したポルトガル,スペインに関する情報を随時自発的に提出した。鎖国後,1641年(寛永18)から幕命により,毎年,船の入港ごとに広範囲の海外情報を提出させるようになったが,時とともに風説書の内容は簡略・形式化した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

オランダ風説書
おらんだふうせつがき

鎖国下、日本との貿易をとくに認められたオランダ船が、連年長崎来航にあたり幕府に提出した海外情勢に関する風説すなわちニュースを総括した書。起源は鎖国完成の1641年(寛永18)とみられる。当初はかならずしも提出が義務づけられたとは考えられないが、やがて通商許可に対する「御忠節」の性格を帯びるに至った。キリスト教禁制を強行し、日本人の海外渡航禁止の政策をとった幕府としては、海外情報源の確保はきわめて重要な意義をもつものであり、この手段としてオランダ人による風説書提出が案出されたものであった。現在知られている風説書は日本文・蘭(らん)文あわせて318通余、時期は1641年(寛永18)から1857年(安政4)に及んでいる。これらオランダ風説書は1976年(昭和51)『和蘭(オランダ)風説書集成』上下2冊(吉川弘文館)として刊行された。なおこのほか、幕末には中国におけるアヘン戦争関係情報として別個に「別段風説書」が提出されている。[箭内健次]
『板沢武雄著『阿蘭陀風説書の研究』(1937・古文化研究所)』

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世界大百科事典内のオランダ風説書の言及

【官板バタヒヤ新聞】より

…長崎のオランダ商館は幕初以来,毎年オランダ商船のもたらす海外情報を江戸幕府に献上していた。これを〈オランダ風説書〉といったが,安政末年にいたってジャカルタのオランダ総督府機関紙《ヤファンシェ・クーラントJavaansche Courant》が代わって献上されるようになり,蕃書調所が翻訳して幕政当局に提出した。1862年(文久2)1月,幕府は御用書肆であった本所竪川三之橋の老皀(ろうそう)館に,これを《官板バタヒヤ新聞》と題して出版させた。…

【ピューリタン革命】より

…その意味でピューリタン革命は,イギリス近代化の画期をなした。
[日本におけるピューリタン革命論]
 ピューリタン革命,とりわけ国王チャールズ1世の処刑という事実そのものは,そのほぼ1年半後,オランダ風説書によって日本に伝えられたが,非公開文書であったためこのニュースはきわめて限られた人の目にしかとまらなかった。したがってこの革命に対する認識が深化していくのは,明治維新後ことに自由民権運動期を待たねばならなかった。…

【風説書】より

…風聞書とも言う。また出島のオランダ商館長の幕府への毎年の海外情報報告書〈《オランダ風説書》〉(1641‐1859)を指す場合もある。古くからこの種のものは存在し,好事家の随筆にも多く記録されているが,情報の歴史上,〈風説書の時代〉とも言いうる時代を迎えるのはアヘン戦争以降,本格的には1853年(嘉永6)ペリーの浦賀来航以後のことである。…

※「オランダ風説書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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