フランス中部,ロアレ県の県都。人口11万3077(1999)。ロアール川に臨み,パリの南方約115kmに位置する鉄道・道路交通の要衝。大学や裁判所があり,地方の行政,学術・教育や商業の中心地で,近くには5万haに及ぶオルレアンの森がある。古くから後背地の農産物の集散地,ロアール川水運の積替地として栄え,17,18世紀には商工業が発達した。19世紀中葉以降,鉄道時代にはいると水運の衰退にともない,経済的に停滞したが,第2次大戦後になってパリ地域からの工業分散などにより,在来の食品工業(酢醸造など)に加えて,タイヤ,薬品,機械などの諸工業が同市やその周辺に発展し,第3次産業の発展とあいまって,都市圏の人口増加が著しい。
古来,交通の要地であったことから,オルレアンはフランス史の重要な舞台となるとともに,侵略を被ることが多かった。ローマ人の征服以前にも,すでにガリア人の一部族の集落ゲナブムGenabumがあり,ローマ人も居住していた。カエサルのガリア遠征(前52)のときに破壊されたが再建され,後にローマ皇帝アウレリアヌスの名にちなんでアウレリアヌムAurelianumとなり,4世紀初め司教座が置かれる。現在の名はこれに由来。451年にはアッチラの率いるフン族の軍勢に包囲されるが,司教聖アニヤヌス(サンテニャン。後に町の守護聖人となる)の努力により防衛に成功した。498年にはクロビスがオルレアンを奪取し,511年には,ここでフランス最初の宗教会議を開催。シャルルマーニュの時代には,司教テオドゥルフThéodulfの指導で学院が設立され,これに発する知的中心としての伝統は,1306年の大学の設立で頂点に達する。宗教改革の指導者カルバンも,ここで法学を学んだ。カペー朝のもとでは王領地に編入され,3人の王がここで聖別を受けるなど,王国の中心的都市となった。百年戦争中には,イギリスと結んだブルゴーニュ派に対してアルマニャック派に荷担し,イギリス軍による包囲(1428-29)を受けるが,ジャンヌ・ダルクの活躍で解放された。市の中央のマルトロア広場には彼女の騎馬像があり,現在も5月7,8日にジャンヌ・ダルク祭が行われる。16世紀には宗教戦争の舞台となり,フランス革命時には比較的平穏であったが,1870年の普仏戦争では主戦場の一つになった。第2次大戦時には,ドイツ軍,次いで連合軍の激しい爆撃を受けた。
執筆者:礒部 啓三
ロマネスク様式の地下祭室上に13世紀に建設が開始された大聖堂サント・クロア(聖十字架)は,1568年プロテスタントにより破壊され,17世紀にアンリ4世によって原状回復を約してあえて末期ゴシック様式で再建された。ほかに,11世紀初めの地下祭室を残すサンテニャン教会(15世紀),11世紀前半の殉教者礼拝堂をもつサンタバン教会,ルネサンス期の邸館(その一つは現,歴史博物館),17世紀の旧司教館(現,図書館),15世紀の旧市庁舎(現,美術館)等がある。空襲を受けた歴史的建造物は,第2次大戦後計画的に修復・再建されている。
執筆者:岸本 雅美
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フランス中部、ロアレ県の県都。人口11万3126(1999)、11万4644(2015センサス)。パリの南115キロメートルの位置にあり、ロアール川に臨む。古い市街地には、狭い街路や美しい木造の家々が残る。新しい市街地では城壁の跡に大通りを建設し、第二次世界大戦中に大被害を受けたが復興し、整然と続く家並みがみられる。市内の建物のなかで、威容を誇るのはゴシック式建築のサント・クロア寺院(17~18世紀再建)であり、そのファサード(正面)はフランボワイヤン様式で、骨組が燃え動く炎のごとくである。そのほか16世紀に建てられた市庁舎も戦災から免れた。ロアール川の水運によって、後背地の商品の積替え港として栄え、古くから地方工業が盛んであったが、鉄道の発達によって都市の発展が促された。現在では、食品、機械工業が中心である。百年戦争時のイギリス軍包囲を、1429年5月、ジャンヌ・ダルクが劇的に解放したことから、毎年5月7、8日に盛大なジャンヌ・ダルク祭が催される。
[高橋伸夫]
オルレアンという地名は3世紀後半のローマ皇帝アウレリアヌスAurelianusに由来する。4世紀から司教区。451年フン人のアッティラの攻撃を受けたが、司教の聖エニャンSaint Aignanの(358―453)の尽力によって町は救われた。6世紀から7世紀初頭にかけてフランク小王国の首府となり、855年、865年にはノルマン人の侵攻を受けた。オルレアン伯領としてはカロリング朝時代に形成され、10世紀にはカペー家の領有下に入り、当家の権力拡充のための基礎となった。13世紀になると、フランスにおけるローマ法研究の拠点として名声を博し、オルレアン学派が形成された。1309年大学が創設され、フランス革命期まで存続した。
百年戦争の時代、1428年10月からイギリス軍の攻囲によって孤立したが、翌年5月ジャンヌ・ダルクによって解放された。1560年にはこの町で全国三部会がシャルル9世の摂政(せっしょう)カトリーヌ・ド・メディシスの主宰によって開かれ、裁判改革の王令として有名なオルレアン王令を公布する役割を果たした。宗教戦争(ユグノー戦争)が勃発(ぼっぱつ)すると、各地からユグノー(カルバン派の新教徒)が集結したので、旧教派のギーズ公フランソアFrançois (Ⅰer) de Guise(1519―1563)の攻囲を受けたが、この戦いでギーズ公は新教徒の貴族ポルトロ・ド・メレPoltrot de Méréの手にかかって死亡した(1563)。17世紀中葉のフロンドの乱のときには、ルイ13世の姪(めい)にあたるモンパンシエ公夫人(グランド・マドモアゼル)の率いるフロンド派の軍勢に攻囲された。プロイセン・フランス戦争(普仏戦争)の間、オルレアンはパリ解放を目ざすロアール第1軍の拠点であったが、プロイセンの将軍タンLudwig von der Tann(1815―1881)によって一時占領された。第二次世界大戦が起こると、ドイツ軍はふたたびオルレアンに進駐した。
[志垣嘉夫]
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フランス,ロワール川中流の都市。ローマ都市を起源とするが,カペー朝以来最も重要な王領の一中心となる。1344年にオルレアン家が設立された。百年戦争の際,1429年敗戦寸前のフランス軍のためにジャンヌ・ダルクがこの都市をイギリス軍の攻囲より解放した。
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