カペー朝(読み)かぺーちょう(英語表記)Capétiens フランス語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カペー朝」の意味・わかりやすい解説

カペー朝
かぺーちょう
Capétiens フランス語

987年に王位についたユーグ・カペー以来、1328年に男子相続人なしに死亡したシャルル4世まで、フランスに君臨した王朝。この王朝の前身は北フランスの豪族ロベール・ル・フォールを始祖とし、ほぼ1世紀にわたって西フランク王位をカロリング家と争ったロベール家。カペー朝成立当時、フランスにおける国家権力は一貫して解体の方向をたどり、領邦やシャテルニー(城主支配領)が分立する封建化の過程が進行した。初期カペー家の領土は、パリ地方とオルレアン地方に局限されていたが、フランスの政治的枢軸を押さえていただけに、他の大諸侯に比べて地の利があった。また血統に由来する王権の正統性を主張できなかったので、もっぱら教会による聖別に正統性の証(あかし)を求め、諸侯の忠誠を確保しようと図った。しかし、この点では、歴代国王が男子に恵まれ、王位の世襲化に成功したことが評価される。

 カペー家の直轄支配領の増大と集中化が進むのは、ルイ6世とルイ7世のときで、新村の開発、市場の設定、都市化の促進がみられる。次のフィリップ2世の時代には、前代にプランタジネット家の領有に帰していた西フランスの諸地方(ノルマンディーアンジュー、メーヌ、ポアトゥー)の奪回アルビジョア十字軍による南フランスの王領化、大諸侯領の都市コミューヌへの王権の浸透などが注目される。封建制王政とを一体化した「封建王政」の確立はルイ9世の治世で、地方行政における有給官僚(バイイセネシャル)の組織が整い、最高法院や会計院が国王会議から分離、独立する。フィリップ4世の治世ともなると、前代の正義と平和の理想主義的な政治理念よりも、支配の客観化(王国基本法、国王評議会と三部会)の進展とともに、現実主義的政策が表面化する。ローマ教皇のアビニョン移住(1309)、テンプル騎士団の解散(1312)などは、そうした政策の現れである。

[井上泰男]


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