オルレアン(読み)おるれあん(英語表記)Orléans

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オルレアン」の意味・わかりやすい解説

オルレアン
おるれあん
Orléans

フランス中部、ロアレ県の県都。人口11万3126(1999)、11万4644(2015センサス)。パリの南115キロメートルの位置にあり、ロアール川に臨む。古い市街地には、狭い街路や美しい木造の家々が残る。新しい市街地では城壁の跡に大通りを建設し、第二次世界大戦中に大被害を受けたが復興し、整然と続く家並みがみられる。市内の建物のなかで、威容を誇るのはゴシック式建築のサント・クロア寺院(17~18世紀再建)であり、そのファサード(正面)はフランボワイヤン様式で、骨組が燃え動く炎のごとくである。そのほか16世紀に建てられた市庁舎も戦災から免れた。ロアール川の水運によって、後背地の商品の積替え港として栄え、古くから地方工業が盛んであったが、鉄道の発達によって都市の発展が促された。現在では、食品、機械工業が中心である。百年戦争時のイギリス軍包囲を、1429年5月、ジャンヌ・ダルクが劇的に解放したことから、毎年5月7、8日に盛大なジャンヌ・ダルク祭が催される。

[高橋伸夫]

歴史

オルレアンという地名は3世紀後半のローマ皇帝アウレリアヌスAurelianusに由来する。4世紀から司教区。451年フン人のアッティラの攻撃を受けたが、司教の聖エニャンSaint Aignanの(358―453)の尽力によって町は救われた。6世紀から7世紀初頭にかけてフランク小王国の首府となり、855年、865年にはノルマン人侵攻を受けた。オルレアン伯領としてはカロリング朝時代に形成され、10世紀にはカペー家の領有下に入り、当家の権力拡充のための基礎となった。13世紀になると、フランスにおけるローマ法研究の拠点として名声を博し、オルレアン学派が形成された。1309年大学が創設され、フランス革命期まで存続した。

 百年戦争の時代、1428年10月からイギリス軍の攻囲によって孤立したが、翌年5月ジャンヌ・ダルクによって解放された。1560年にはこの町で全国三部会がシャルル9世の摂政(せっしょう)カトリーヌ・ド・メディシスの主宰によって開かれ、裁判改革の王令として有名なオルレアン王令を公布する役割を果たした。宗教戦争(ユグノー戦争)が勃発(ぼっぱつ)すると、各地からユグノーカルバン派の新教徒)が集結したので、旧教派のギーズ公フランソアFrançois (Ⅰer) de Guise(1519―1563)の攻囲を受けたが、この戦いでギーズ公は新教徒の貴族ポルトロ・ド・メレPoltrot de Méréの手にかかって死亡した(1563)。17世紀中葉のフロンドの乱のときには、ルイ13世の姪(めい)にあたるモンパンシエ公夫人(グランド・マドモアゼル)の率いるフロンド派の軍勢に攻囲された。プロイセン・フランス戦争(普仏戦争)の間、オルレアンはパリ解放を目ざすロアール第1軍の拠点であったが、プロイセンの将軍タンLudwig von der Tann(1815―1881)によって一時占領された。第二次世界大戦が起こると、ドイツ軍はふたたびオルレアンに進駐した。

[志垣嘉夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オルレアン」の意味・わかりやすい解説

オルレアン(公家)
オルレアン[こうけ]
Orléans, Ducs d'

フランスのバロア,ブルボン王家の流れをくむ名門の諸侯。4家系がある。 (1) バロア朝初代のフランス王フィリップ6世とジャンヌ・ド・ブルゴーニュ妃の第5子フィリップ1世は,父王からオルレアン公領とバロア伯領をアパナージュ (国王親族封) として受け,オルレアン公となった (1344) が,嫡出子なく1代で終る (75) 。 (2) フランス王シャルル5世とジャンヌ・ド・ブルボン妃の次子ルイ (→オルレアン公ルイ ) を筆頭とする公家系。ルイはブルゴーニュ公ジャン (無畏公)の一味にパリで暗殺された (07) 。この家系ではアルマニャック派で詩人のシャルル (→シャルル・ドルレアン ) ,その子のフランス王ルイ 12世が有名。 (3) フランス王アンリ4世とマリ・ド・メディシス妃の第3子ガストン (→オルレアン公ガストン ) は,1626年オルレアン公領,シャルトル公領をアパナージュとして受けたが1代で終る。 (4) フランス王ルイ 13世とアンヌ・ドートリッシュ妃の次子フィリップ1世 (→オルレアン公フィリップ1世 ) に始る。前出のガストンの死 (1660) とともにオルレアン公と呼ばれた。その子フィリップ2世 (→オルレアン公フィリップ ) はルイ 15世幼年期の摂政。ルイ・フィリップ・ジョゼフ (→オルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフ ) は自由主義派の王族として,フランス革命に参加,その子ルイ・フィリップにいたり最後のフランス王位 (30~48) についた。

オルレアン
Orléans

古代名アウレリアヌム Aurelianum。フランス中部,パリ盆地南部,ロアレ県の県都。パリ南南西 116km,ロアール川右岸に発達した都市。旧オルレアン公国の首都。旧オルレアネ州の州都。前 52年,ユリウス・カエサルのガリア遠征軍に対して反抗したツェナブムの町として,また5世紀にはアッチラ軍を撃退した町として古くから有名。洗礼を受けたフランク王クロービス1世はガリアでのキリスト教布教のための最初の宗教会議をここで開き (511) ,シャルル2世 (禿頭王。在位 843~877) はここで西フランク王としての聖別式を行なった。百年戦争中も王家の拠点となり,ジャンヌ・ダルクによるイギリス軍からの解放 (1429) はフランス国家形成史上重要な出来事であった。 16世紀の宗教戦争中は新旧キリスト教徒双方が市の争奪を繰返し,17世紀には市はロアール川を遡航する帆船の河港として,パリをしのぐ商業活動を行い,19世紀まで繁栄した。しかし港湾機能は,その後ロアール河口の堆積により徐々に衰えた。現在は道路・鉄道網の結節点で農産物の集散地,酢,ビスケットなど食品加工業の中心地で,ほかに機械・電機・織物・化学・印刷工業なども行われる。 14世紀初期に大学が創設され,古くから文化の中心でもあったところで,ジャンヌ・ダルクの騎馬像のある町の中央広場や周囲のアーケードのある町並みは 18世紀のもので,第2次世界大戦後に復元された。ルネサンス様式の市庁舎 (1549~55) ,ゴシック様式のサントクロア大聖堂 (13世紀,16世紀焼失後再建) なども修復され,史跡の多い町として観光も盛ん。人口 11万3257(2008)。

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