オルレアン(その他表記)Orléans

デジタル大辞泉 「オルレアン」の意味・読み・例文・類語

オルレアン(Orléans)

フランス中部、ロアール川に臨む古都。百年戦争末期の1429年、少女ジャンヌ=ダルクによってイギリス軍の包囲から解放されたことで知られる。

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精選版 日本国語大辞典 「オルレアン」の意味・読み・例文・類語

オルレアン

  1. ( Orléans ) フランス中部、ロアール川の右岸にある市。一四世紀以来オルレアン家の所領で、フランス・イギリス間の百年戦争(一三三七‐一四五三)で、一四二九年、ジャンヌ=ダルクがイギリス軍を撃退した所として知られる。

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改訂新版 世界大百科事典 「オルレアン」の意味・わかりやすい解説

オルレアン
Orléans

フランス中部,ロアレ県の県都。人口11万3077(1999)。ロアール川に臨み,パリの南方約115kmに位置する鉄道・道路交通の要衝。大学や裁判所があり,地方の行政,学術・教育や商業の中心地で,近くには5万haに及ぶオルレアンの森がある。古くから後背地の農産物の集散地,ロアール川水運の積替地として栄え,17,18世紀には商工業が発達した。19世紀中葉以降,鉄道時代にはいると水運の衰退にともない,経済的に停滞したが,第2次大戦後になってパリ地域からの工業分散などにより,在来の食品工業(酢醸造など)に加えて,タイヤ,薬品,機械などの諸工業が同市やその周辺に発展し,第3次産業の発展とあいまって,都市圏の人口増加が著しい。

 古来,交通の要地であったことから,オルレアンはフランス史の重要な舞台となるとともに,侵略を被ることが多かった。ローマ人の征服以前にも,すでにガリア人の一部族の集落ゲナブムGenabumがあり,ローマ人も居住していた。カエサルのガリア遠征(前52)のときに破壊されたが再建され,後にローマ皇帝アウレリアヌスの名にちなんでアウレリアヌムAurelianumとなり,4世紀初め司教座が置かれる。現在の名はこれに由来。451年にはアッチラの率いるフン族の軍勢に包囲されるが,司教聖アニヤヌス(サンテニャン。後に町の守護聖人となる)の努力により防衛に成功した。498年にはクロビスがオルレアンを奪取し,511年には,ここでフランス最初の宗教会議を開催。シャルルマーニュの時代には,司教テオドゥルフThéodulfの指導で学院が設立され,これに発する知的中心としての伝統は,1306年の大学の設立で頂点に達する。宗教改革の指導者カルバンも,ここで法学を学んだ。カペー朝のもとでは王領地に編入され,3人の王がここで聖別を受けるなど,王国の中心的都市となった。百年戦争中には,イギリスと結んだブルゴーニュ派に対してアルマニャック派に荷担し,イギリス軍による包囲(1428-29)を受けるが,ジャンヌ・ダルクの活躍で解放された。市の中央のマルトロア広場には彼女の騎馬像があり,現在も5月7,8日にジャンヌ・ダルク祭が行われる。16世紀には宗教戦争の舞台となり,フランス革命時には比較的平穏であったが,1870年の普仏戦争では主戦場の一つになった。第2次大戦時には,ドイツ軍,次いで連合軍の激しい爆撃を受けた。
執筆者:

ロマネスク様式の地下祭室上に13世紀に建設が開始された大聖堂サント・クロア(聖十字架)は,1568年プロテスタントにより破壊され,17世紀にアンリ4世によって原状回復を約してあえて末期ゴシック様式で再建された。ほかに,11世紀初めの地下祭室を残すサンテニャン教会(15世紀),11世紀前半の殉教者礼拝堂をもつサンタバン教会,ルネサンス期の邸館(その一つは現,歴史博物館),17世紀の旧司教館(現,図書館),15世紀の旧市庁舎(現,美術館)等がある。空襲を受けた歴史的建造物は,第2次大戦後計画的に修復・再建されている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「オルレアン」の意味・わかりやすい解説

オルレアン
おるれあん
Orléans

フランス中部、ロアレ県の県都。人口11万3126(1999)、11万4644(2015センサス)。パリの南115キロメートルの位置にあり、ロアール川に臨む。古い市街地には、狭い街路や美しい木造の家々が残る。新しい市街地では城壁の跡に大通りを建設し、第二次世界大戦中に大被害を受けたが復興し、整然と続く家並みがみられる。市内の建物のなかで、威容を誇るのはゴシック式建築のサント・クロア寺院(17~18世紀再建)であり、そのファサード(正面)はフランボワイヤン様式で、骨組が燃え動く炎のごとくである。そのほか16世紀に建てられた市庁舎も戦災から免れた。ロアール川の水運によって、後背地の商品の積替え港として栄え、古くから地方工業が盛んであったが、鉄道の発達によって都市の発展が促された。現在では、食品、機械工業が中心である。百年戦争時のイギリス軍包囲を、1429年5月、ジャンヌ・ダルクが劇的に解放したことから、毎年5月7、8日に盛大なジャンヌ・ダルク祭が催される。

[高橋伸夫]

歴史

オルレアンという地名は3世紀後半のローマ皇帝アウレリアヌスAurelianusに由来する。4世紀から司教区。451年フン人のアッティラの攻撃を受けたが、司教の聖エニャンSaint Aignanの(358―453)の尽力によって町は救われた。6世紀から7世紀初頭にかけてフランク小王国の首府となり、855年、865年にはノルマン人の侵攻を受けた。オルレアン伯領としてはカロリング朝時代に形成され、10世紀にはカペー家の領有下に入り、当家の権力拡充のための基礎となった。13世紀になると、フランスにおけるローマ法研究の拠点として名声を博し、オルレアン学派が形成された。1309年大学が創設され、フランス革命期まで存続した。

 百年戦争の時代、1428年10月からイギリス軍の攻囲によって孤立したが、翌年5月ジャンヌ・ダルクによって解放された。1560年にはこの町で全国三部会がシャルル9世の摂政(せっしょう)カトリーヌ・ド・メディシスの主宰によって開かれ、裁判改革の王令として有名なオルレアン王令を公布する役割を果たした。宗教戦争(ユグノー戦争)が勃発(ぼっぱつ)すると、各地からユグノー(カルバン派の新教徒)が集結したので、旧教派のギーズ公フランソアFrançois (Ⅰer) de Guise(1519―1563)の攻囲を受けたが、この戦いでギーズ公は新教徒の貴族ポルトロ・ド・メレPoltrot de Méréの手にかかって死亡した(1563)。17世紀中葉のフロンドの乱のときには、ルイ13世の姪(めい)にあたるモンパンシエ公夫人(グランド・マドモアゼル)の率いるフロンド派の軍勢に攻囲された。プロイセン・フランス戦争(普仏戦争)の間、オルレアンはパリ解放を目ざすロアール第1軍の拠点であったが、プロイセンの将軍タンLudwig von der Tann(1815―1881)によって一時占領された。第二次世界大戦が起こると、ドイツ軍はふたたびオルレアンに進駐した。

[志垣嘉夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オルレアン」の意味・わかりやすい解説

オルレアン(公家)
オルレアン[こうけ]
Orléans, Ducs d'

フランスのバロア,ブルボン王家の流れをくむ名門の諸侯。4家系がある。 (1) バロア朝初代のフランス王フィリップ6世とジャンヌ・ド・ブルゴーニュ妃の第5子フィリップ1世は,父王からオルレアン公領とバロア伯領をアパナージュ (国王親族封) として受け,オルレアン公となった (1344) が,嫡出子なく1代で終る (75) 。 (2) フランス王シャルル5世とジャンヌ・ド・ブルボン妃の次子ルイ (→オルレアン公ルイ ) を筆頭とする公家系。ルイはブルゴーニュ公ジャン (無畏公)の一味にパリで暗殺された (07) 。この家系ではアルマニャック派で詩人のシャルル (→シャルル・ドルレアン ) ,その子のフランス王ルイ 12世が有名。 (3) フランス王アンリ4世とマリ・ド・メディシス妃の第3子ガストン (→オルレアン公ガストン ) は,1626年オルレアン公領,シャルトル公領をアパナージュとして受けたが1代で終る。 (4) フランス王ルイ 13世とアンヌ・ドートリッシュ妃の次子フィリップ1世 (→オルレアン公フィリップ1世 ) に始る。前出のガストンの死 (1660) とともにオルレアン公と呼ばれた。その子フィリップ2世 (→オルレアン公フィリップ ) はルイ 15世幼年期の摂政。ルイ・フィリップ・ジョゼフ (→オルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフ ) は自由主義派の王族として,フランス革命に参加,その子ルイ・フィリップにいたり最後のフランス王位 (30~48) についた。

オルレアン
Orléans

古代名アウレリアヌム Aurelianum。フランス中部,パリ盆地南部,ロアレ県の県都。パリ南南西 116km,ロアール川右岸に発達した都市。旧オルレアン公国の首都。旧オルレアネ州の州都。前 52年,ユリウス・カエサルのガリア遠征軍に対して反抗したツェナブムの町として,また5世紀にはアッチラ軍を撃退した町として古くから有名。洗礼を受けたフランク王クロービス1世はガリアでのキリスト教布教のための最初の宗教会議をここで開き (511) ,シャルル2世 (禿頭王。在位 843~877) はここで西フランク王としての聖別式を行なった。百年戦争中も王家の拠点となり,ジャンヌ・ダルクによるイギリス軍からの解放 (1429) はフランス国家形成史上重要な出来事であった。 16世紀の宗教戦争中は新旧キリスト教徒双方が市の争奪を繰返し,17世紀には市はロアール川を遡航する帆船の河港として,パリをしのぐ商業活動を行い,19世紀まで繁栄した。しかし港湾機能は,その後ロアール河口の堆積により徐々に衰えた。現在は道路・鉄道網の結節点で農産物の集散地,酢,ビスケットなど食品加工業の中心地で,ほかに機械・電機・織物・化学・印刷工業なども行われる。 14世紀初期に大学が創設され,古くから文化の中心でもあったところで,ジャンヌ・ダルクの騎馬像のある町の中央広場や周囲のアーケードのある町並みは 18世紀のもので,第2次世界大戦後に復元された。ルネサンス様式の市庁舎 (1549~55) ,ゴシック様式のサントクロア大聖堂 (13世紀,16世紀焼失後再建) なども修復され,史跡の多い町として観光も盛ん。人口 11万3257(2008)。

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百科事典マイペディア 「オルレアン」の意味・わかりやすい解説

オルレアン[家]【オルレアン】

フランスの王族で,1344年成立のオルレアン公領に由来。幾つかの家系に分かれたが,ブルボン朝ルイ14世の弟フィリップの家系が最も長く続き,フランス革命期に国王処刑に賛成した平等公フィリップを出した。その子ルイ・フィリップは1830年七月革命で王位につき,同家初の国王となったが,1848年二月革命で退位。第三共和政初期,オルレアン家復活を図った王党派をオルレアニストと呼ぶ。
→関連項目オルレアンバロア朝ブルボン[家]

オルレアン

フランス中部,ロアレ県の県都。パリの南115km,ロアール川右岸にあり,オルレアネ地方の中心。電機,食品加工,機械工業が行われる。酢の醸造で有名。オルレアン家の領地として政治・軍事上の重要都市。1429年ジャンヌ・ダルクが英軍より解放。16世紀の市庁舎,13―17世紀のサント・クロア大聖堂,15世紀のサンテニャン教会がある。1940年独軍に占領された。10万5111人,都市圏人口24万人以上(1990)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オルレアン」の解説

オルレアン
Orléans

フランス,ロワール川中流の都市。ローマ都市を起源とするが,カペー朝以来最も重要な王領の一中心となる。1344年にオルレアン家が設立された。百年戦争の際,1429年敗戦寸前のフランス軍のためにジャンヌ・ダルクがこの都市をイギリス軍の攻囲より解放した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「オルレアン」の解説

オルレアン
Orléans

フランス中部,ロアール川中流域北岸にある都市
古くはカエサルのガリア支配に対する反抗の中心地。のち,フン族のアッティラに包囲されたが撃退。10世紀カペー朝の所領となった。14世紀以後はオルレアン家領で,百年戦争ではイギリスとブルゴーニュ派連合軍の包囲に耐え,1429年ジャンヌ=ダルクにより解放されて,フランスは勝勢に転じた。のちにユグノーの反抗の拠点となる。普仏 (ふふつ) 戦争・第二次世界大戦でドイツ軍の占領を受けた。

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