カニング(読み)かにんぐ(英語表記)George Canning

デジタル大辞泉 「カニング」の意味・読み・例文・類語

カニング(George Canning)

[1770~1827]英国の政治家。各国の国民主権民族自決の運動を支援、ウィーン反動体制に抵抗した。1827年、首相となるが4か月後に病没。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「カニング」の意味・読み・例文・類語

カニング

  1. ( George Canning ジョージ━ ) イギリスの政治家。トーリー党に属し、インド相、外相などを経たのち、首相に就任ウィーン体制に抵抗し、また自由貿易を唱えた。(一七七〇‐一八二七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カニング」の意味・わかりやすい解説

カニング(George Canning)
かにんぐ
George Canning
(1770―1827)

イギリスの政治家。1793年に下院議員となり、フランス革命に反対するピット(小)を支持した。1807年にポートランド内閣の外相となったが、陸相カースルレーと対立し辞任(1809)して以後は、インド担当相(1816~1821)を務めたものの、政局を指導する立場にはなかった。反動派とされたカースルレーの死(1822)後、再度外相となり、中南米諸国の独立を支持するなど、ウィーン体制を離れて自由主義的な外交政策(カニング外交といわれる)を展開した。これ以後トーリー党内閣の政策は内政、外交の両面で自由主義化し、1827年には辞任したリバプール首相の後任として、ホイッグ党の一部の協力も得て内閣を組織したが、4か月後に病没した。

青木 康]


カニング(Charles John Canning)
かにんぐ
Charles John Canning
(1812―1862)

イギリスの政治家。ジョージ・カニングの子。1841年にロバート・ピール内閣の外務次官、1856年パーマストンによりインド総督(~1862)に任命された。1857年、インドの大反乱(セポイの反乱)に直面し、兵力を増強してこれを鎮圧。翌1858年インド統治が東インド会社から本国政府の直接支配に移ると、初代インド副王(総督)となった。1859年7月の反乱終結宣言後、行政の再組織化、軍隊の改組に着手。1861年にインド参事会法を導入し、地主を中心とする一部インド人を中央・州立法参事会に加えたり、上層部インド人の団体「英印協会」の結成を助けたりして、インド社会の指導的階層宥和(ゆうわ)策を推進した。1857年にカルカッタボンベイ(現ムンバイ)、マドラス3大学創設に尽力した。

[内藤雅雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「カニング」の意味・わかりやすい解説

カニング
George Canning
生没年:1770-1827

イギリスの政治家。イートンオックスフォードを経て,1794年代議士に当選,トーリー党に属した。すでに学生時代から才気煥発,雄弁をもって聞こえたが,議会にはいってからはピットに認められ,外務次官(1796-99),海軍主計長官(1804-06)などを歴任後,37歳でポートランド内閣の外相となり(1807),ナポレオン戦争遂行の任に当たった。だが,陸軍・植民相のカースルレーとうまくゆかず辞任し,彼と決闘して腿に軽傷を負った(1810)。数年雌伏の後,1816年リバプール内閣のインド監督局総裁,次いで22年自殺したカースルレーの後をうけて外相となり,閣内の最有力者と認められるにいたった。彼は,折から活発化した中南米諸国の民族主義を支持してその独立を承認する一方,イギリスをウィーン反動体制から離脱させ,自由貿易にもとづく19世紀イギリス外交政策の基礎を築いた。27年首相となったが,数ヵ月にして没した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カニング」の意味・わかりやすい解説

カニング
Canning, George

[生]1770.4.11. ロンドン
[没]1827.8.8. ロンドン
イギリスの政治家。 1793~1827年下院議員。ピット (小)の政策を支持,1796~99年外務次官。 1807~09年ポートランド公内閣の外相。 16~21年リバプール伯内閣のインド監督局総裁。カスルレー (子)のあとをうけて再度外相 (1822~27) となり,神聖同盟の反動的な動きから離れた外交政策を展開。ラテンアメリカ諸国の民族主義運動には不干渉策をとり,23年旧スペイン領諸国の独立を承認。ギリシアのトルコに対する抵抗やポルトガルの民主派の活動など,ヨーロッパ内の自由主義的な動きを支援した。内政では自由貿易支持,W.ハスキソンと協力して穀物法の緩和に努力。議会改革には反対したが,自由主義的な彼の政治姿勢はホイッグ党からも支持を得た。 27年4月首相。まもなく病没。

カニング
Canning, Charles John, Earl Canning

[生]1812.12.14. ロンドン
[没]1862.6.17. ロンドン
イギリスの政治家,インド初代副王。 G.カニングの3男。 1836年下院議員となり,41年外務次官,56年インド総督に就任した。着任直後の 57年インド大反乱が起り,58年夏にはその鎮圧に成功。同年8月インド統治改善法が発布され,インド統治はイギリス東インド会社からイギリス王室の手に移り,カニングは初代副王とされた。 59年伯爵を授けられる。反乱の反省から,彼は各種の改革に着手し,軍隊の再編成,財政再建のための新税制の導入,小作人保護のための地代法の制定,裁判所機構の改組などを行なった。また 61年の参事会法によりインド人に官界への道を開くなど,親英層の育成に努めた。 62年退官。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「カニング」の解説

カニング
George Canning

1770~1827

イギリスの政治家。1793年トーリ党の下院議員となり,1807年外相となったが,09年陸相カースルレーと衝突して辞職,彼と決闘して負傷した。16~21年インド監督局総裁を務め,22年再び外相となりトーリ党の指導的役割を担った。イギリス商品の市場開拓のため諸民族の自由主義的・国民主義的運動を支持し,中南米諸国の独立を認承,23年のモンロー主義の宣言を支持,ギリシア独立を援助した。27年首相となったが,在任4カ月で病死した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「カニング」の意味・わかりやすい解説

カニング

英国の政治家。ホイッグ党からトーリー党に転向,ポートランド内閣で外相(1807年―1810年)となるもカスルレーと対立して辞職。1822年―1827年再度外相となり自由主義的外交政策を展開,モンロー宣言,ギリシアの独立を支援したが,内政においては選挙法改正に反対した。1827年首相就任直後,病死。
→関連項目カースルレーハスキッソン

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「カニング」の解説

カニング
George Canning

1770〜1827
イギリスの政治家。トーリー党
外相としてナポレオンに対抗。1822年,カスルレーのあとをうけ再び外相となると,ウィーン体制に対抗して神聖同盟に反対し,自由主義外交の立場からモンロー主義を支持してラテンアメリカの独立を承認,ギリシアの独立を支援した。トーリー党内に進歩的カニング派を形成し,1827年には首相となる。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「カニング」の解説

カニング

生年月日:1812年12月14日
イギリスの政治家
1862年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android