イギリスの政治家。1793年に下院議員となり、フランス革命に反対するピット(小)を支持した。1807年にポートランド内閣の外相となったが、陸相カースルレーと対立し辞任(1809)して以後は、インド担当相(1816~1821)を務めたものの、政局を指導する立場にはなかった。反動派とされたカースルレーの死(1822)後、再度外相となり、中南米諸国の独立を支持するなど、ウィーン体制を離れて自由主義的な外交政策(カニング外交といわれる)を展開した。これ以後トーリー党内閣の政策は内政、外交の両面で自由主義化し、1827年には辞任したリバプール首相の後任として、ホイッグ党の一部の協力も得て内閣を組織したが、4か月後に病没した。
[青木 康]
イギリスの政治家。ジョージ・カニングの子。1841年にロバート・ピール内閣の外務次官、1856年パーマストンによりインド総督(~1862)に任命された。1857年、インドの大反乱(セポイの反乱)に直面し、兵力を増強してこれを鎮圧。翌1858年インド統治が東インド会社から本国政府の直接支配に移ると、初代インド副王(総督)となった。1859年7月の反乱終結宣言後、行政の再組織化、軍隊の改組に着手。1861年にインド参事会法を導入し、地主を中心とする一部インド人を中央・州立法参事会に加えたり、上層部インド人の団体「英印協会」の結成を助けたりして、インド社会の指導的階層の宥和(ゆうわ)策を推進した。1857年にカルカッタ、ボンベイ(現ムンバイ)、マドラス3大学創設に尽力した。
[内藤雅雄]
イギリスの政治家。イートン,オックスフォードを経て,1794年代議士に当選,トーリー党に属した。すでに学生時代から才気煥発,雄弁をもって聞こえたが,議会にはいってからはピットに認められ,外務次官(1796-99),海軍主計長官(1804-06)などを歴任後,37歳でポートランド内閣の外相となり(1807),ナポレオン戦争遂行の任に当たった。だが,陸軍・植民相のカースルレーとうまくゆかず辞任し,彼と決闘して腿に軽傷を負った(1810)。数年雌伏の後,1816年リバプール内閣のインド監督局総裁,次いで22年自殺したカースルレーの後をうけて外相となり,閣内の最有力者と認められるにいたった。彼は,折から活発化した中南米諸国の民族主義を支持してその独立を承認する一方,イギリスをウィーン反動体制から離脱させ,自由貿易にもとづく19世紀イギリス外交政策の基礎を築いた。27年首相となったが,数ヵ月にして没した。
執筆者:村岡 健次
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1770~1827
イギリスの政治家。1793年トーリ党の下院議員となり,1807年外相となったが,09年陸相カースルレーと衝突して辞職,彼と決闘して負傷した。16~21年インド監督局総裁を務め,22年再び外相となりトーリ党の指導的役割を担った。イギリス商品の市場開拓のため諸民族の自由主義的・国民主義的運動を支持し,中南米諸国の独立を認承,23年のモンロー主義の宣言を支持,ギリシア独立を援助した。27年首相となったが,在任4カ月で病死した。
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