キプロス(読み)きぷろす(英語表記)Republic of Cyprus 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「キプロス」の意味・わかりやすい解説

キプロス
きぷろす
Republic of Cyprus 英語
Kypriaki Dimokratia ギリシア語
Kbrs Cumhuriyeti トルコ語

地中海東部に浮かぶ同名の島からなる共和国。面積9251平方キロメートル。首都はニコシア。キプロスの名は、この島に自生する植物ヘンナLawsonia albaのヘブライ語kopherに由来する。住民はおもにギリシア系(約78%)とトルコ系(約11%)のほかにアルメニア系などからなり、ギリシア語による名称キプロスKyprosに対してトルコ語ではクブルスKbrsとよぶ。なお英語ではサイプラスと読む。1960年の独立以来、言語、文化、宗教を異にするギリシア、トルコ両系住民の間で紛争が絶えず、1975年にはトルコ系住民が北部に「キプロス連邦トルコ系住民共和国」を樹立し、さらに1983年にはギリシア系住民国家との連邦構想を放棄して一方的に「北キプロストルコ共和国」としての独立を宣言している。2009年時点でキプロスの総人口は87万1000人と推計され、「北キプロス・トルコ共和国」を除いた人口は77万1000(2006推計)である。2004年、ヨーロッパ連合(EU)加盟。

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自然

東のシリア海岸から100キロメートル、北のトルコ海岸から70キロメートルにあって、地中海東部の交通を制する位置にあり、地中海の島としてはシチリア、サルデーニャに次いで大きい。地体構造上はアルプス‐ヒマラヤ造山帯に属し、島の南北に、ともに標高1000メートル級のトロードス山脈とキレニア山脈が東西に走る。最高点はトロードス山脈中にあるオリンポス山(1951メートル)である。キレニア山脈はおもに石灰岩からなるが、トロードス山脈には火山岩もみられる。なお、両山脈の中間にはキプロスの穀倉地帯である幅20~30キロメートルのメサオリア平野が横たわり、首都ニコシアもここに位置する。気候は典型的な地中海性気候を示し、年平均気温は約20℃、年降水量は平地で300~400ミリメートル、山地では1200ミリメートルに達するが、降水はほぼ10月から翌年3月までに限られる。山地を中心に、国土の20%近くがマツ、スギ、イトスギ、プラタナスなどの森林で覆われ、地中海東部地方で最高の美林といわれている。西部のパフォスの森には、野生の保護動物キプロスヒツジが生息する。

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歴史

新石器時代の遺跡もみられるが、古くからギリシア人が定着し、ミケーネ文明の影響も受け、エジプトとの交流地点として栄えた。その後フェニキア、アッシリア、ペルシア、プトレマイオス朝などによって支配され、紀元前57年にはローマ帝国領となった。引き続きビザンティン帝国領となったが、7世紀から10世紀にかけてアラブ人の侵入を受け、1191年には十字軍に参加したイングランド王リチャード1世(獅子(しし)心王)によって征圧された。ついでテンプル騎士団の手に渡ったのち、1192年から3世紀にわたっては、リチャード1世から託されたフランスのリュジニャン家によって統治され、この期には中世的繁栄をみた。しかし1489年にはベネチア領となり、さらに1571年にはオスマン帝国に支配され、以後トルコ人の移住が始まった。しかし300年後の1878年、ロシア・トルコ戦争後のロシアの南下政策に対応しようとするイギリスが、オスマン帝国の容認のもとでその統治権を得た。ついで第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)とともにイギリスが併合し、1925年にはその直轄植民地となった。

 1930年代から、キプロスをギリシアに合併させようとするエノシス運動が、ギリシア政府の支援のもとに、多数を占めるギリシア系住民の間で高まり、これに反対する少数派のトルコ系住民およびトルコ政府との間で対立が激化し始めた。1954年にイギリスが中東統合軍司令部をキプロスに移したことから、エノシス運動は反イギリス暴動とテロ活動へと先鋭化し、1958年にはトルコ系住民の分割要求も高まって抗争は深刻化した。ついにイギリスは領有を断念し、1959年のイギリス、ギリシア、トルコの三か国会議の結果、1960年8月16日、これらの国の保障のもとにキプロスは単一の共和国として独立を遂げた。

 しかし独立後もギリシア系住民とトルコ系住民の反目はいっこうに後を絶たず、1963年には内戦が勃発して国連キプロス平和維持軍(UNFICYP)が出動した(~1964)。さらに1974年になって、ギリシア政府に支持された過激派ギリシア系軍人によるクーデターが発生し、穏健派のマカリオス大統領が一時追放される事態となった。これを機にトルコ軍がトルコ系住民の保護を理由に北部に侵入して紛争は国際化し、トルコ軍によって北部(国土の39%)が占領された状態が固定したまま、1975年には北部での「キプロス連邦トルコ系住民共和国」の発足が宣せられた。このような連邦制の採用は、その後1977年になって双方の合意を得たが、しかし事態の進展がないまま1983年11月、トルコ系住民議会は「北キプロス・トルコ共和国」としての独立を宣言、以後キプロス島は、事実上南北2か国が存在する状況となっている。

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政治

1960年発足の複合民族国家「キプロス共和国」では、1959年の三か国会議での取決めに基づき、大統領(任期5年)をギリシア系、副大統領をトルコ系にそれぞれ固定し、内閣と国会(一院制)構成員をギリシア系7、トルコ系3に割り振るなどの配慮がなされてきた。しかし早くも1963年には、トルコ系国会議員15名が選出されないまま、ギリシア系の35名だけで国会が運営されるなどの変則事態が生じ、以来改められることがなかった(2009年時点では80議席のうち、ギリシア系56議席のみで構成、任期5年)。さらに1975年に「キプロス連邦トルコ系住民共和国」が誕生してからは、分裂は決定的となり、この「トルコ系住民共和国」は独自の憲法と議会を確立し、通貨もキプロス・ポンドからトルコ・リラに切り換え、標準時間もトルコ本土と統一させるなどの措置を講じている。なおこの分裂を契機に、約18万のギリシア系住民の北部から南部への脱出と、約4万5000人のトルコ系住民の南部から北部への移住がみられた。1983年の「北キプロス・トルコ共和国」の独立宣言は、キプロスの政治情勢をますます複雑、混迷化させている。トルコは「北キプロス・トルコ共和国」をその独立直後に承認したが、国連の場ではこの独立宣言はほとんどの国から非難の対象となっている。

 1991年国連は南北2国による連邦制を提案したが、「キプロス共和国」の1993年の大統領選挙では、国連提案に反対の立場のクレリデスが当選し、1996年の総選挙でもクレリデスの率いる民主運動党(DISY)が多数を得た。1998年の大統領選挙ではクレリデスが再選された。1993年以後、国連提案を受けてしばしば南北の会談が繰り返されているが、1997年の交渉では、北キプロス側が支援国トルコとともに、南単独のEU加盟問題に反発して交渉は物別れに終わった。2001年、国連仲介のもと、ふたたび両系大統領の直接交渉が行われ、以後、定期的な直接交渉が続けられた。2003年2月に行われた大統領選挙ではクレリデスの対北キプロス政策に批判的なパパドプロスが当選。2004年4月、連邦国家制を骨子とする国連和平提案による南北統合の是非を問う国民投票が行われたが、南北で賛否が分かれ、交渉は中断した。2004年5月、キプロスは単独でEU(ヨーロッパ連合)加盟を果たした。2008年2月の大統領選挙ではキプロス問題解決に柔軟な姿勢のフリストフィアスが選出され、ふたたび北キプロスとの統合に向けた交渉が始まっている。

 陸軍の兵力1万のほか陸海空軍に若干の装備をもつ「キプロス共和国」の戦力に対して、「北キプロス・トルコ共和国」も5000の国民軍をもち、さらに3万6000のトルコ軍が駐留しこれを支援している。一方、中立的立場から国連キプロス平和維持軍(約850人)が駐留する。またアクロティリ、エピスコピ、デケリアの3地区にはイギリスが軍事基地をもち、中東統合軍司令部を置いて約3000の兵力が駐留。ギリシア軍も約1100の兵力が駐留している。

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経済・産業

農業は古くからキプロスでもっとも重要な産業である。就業人口の7.2%が農業に従事し(2004)、国土の多くが農業生産に利用されている。ただ、ほとんどが天水耕地であるため休閑地も多く、農地面積は国土の17.8%(2005)を占めるにすぎず、経営も零細で生産性はそれほど高くない。そのうえ1974年からの紛争によって農業生産が被った打撃には著しいものがあった。おもな作物は伝統的に小麦、大麦、ジャガイモ、ブドウ、およびオレンジなどの柑橘(かんきつ)類であるが、紛争の影響によって主穀類は、一時は大量の輸入を余儀なくされた。他方、ジャガイモや果実は、アラブ産油国の需要に支えられて生産が伸び、重要な輸出品となっている。ギリシア語でキプロスを意味することばから銅ということばが生まれたといわれるほど、キプロスでの銅の産出は古くから有名であったが、現在でも銅のほか鉄、クロム、石綿、石膏(せっこう)を産し、その多くは輸出されている。ただし近年は資源の枯渇によって生産量も低下してきた。工業は小規模な食品加工業や織物業、あるいはセメント工業が中心であり、織物やセメントなど製品の一部は輸出に向けられている。

 国土の分断によって「キプロス共和国」は北部の39%の面積を失ったが、この北部地域はキプロスの国民総生産(GNP)の58%、宿泊観光客の75%、柑橘園の80%、鉱業生産高の56%、工業生産設備の50%をそれぞれ占めていたため、その損失は大きかった。しかしその後は経済復興が進み、またレバノン内戦の余波を受けて、ベイルートにあった通商・観光資本が転進してくるなど、経済は活気を取り戻し、外国人観光客も増えていった。

 2007年の輸出額は12億5000万ドル、輸入額86億9000万ドル。おもな輸出相手国はイギリス、ギリシア、ロシア、アラブ首長国連邦、レバノンで、おもな輸出品は衣料品やジャガイモ、レモン、グレープフルーツ、ブドウ、ワイン、タバコなどの農産物、薬品、セメントなどである。おもな輸入相手国はイギリス、イタリア、ギリシア、アメリカ、ドイツで、おもな輸入品は原油、石油製品、機械類、化学製品、繊維製品である。

 一方、北部の「北キプロス・トルコ共和国」はトルコの援助によって経済開発を進めつつあるが、トルコの財政難もあって、その成果は南部に比べて劣っている。

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社会

住民の約78%はギリシア系、約11%はトルコ系によって占められ、ほかにごく少数のアルメニア人、アラブ人などが居住する。かつてギリシア系およびトルコ系の住民は、都市内の住地や村を異にして生活しながらも、地域的には偏らず全土に分散していた。しかし1974年以後、南北分断が固定化するに伴い、ギリシア系住民は南部へ、トルコ系住民は北部へ、それぞれ難民として移住を余儀なくされている。言語はギリシア語とトルコ語が公用語として用いられてきており、英語もイギリス統治時代の名残(なごり)でよく通用する。ギリシア系住民のほとんどはギリシア正教に、トルコ系住民はイスラム教スンニー派に属し、アルメニア人はほぼキリスト教アルメニア教会派、またアラブ人はほぼキリスト教マロン派の信者である。初等教育は6~15歳(9年間)で、無料・義務制をとる。大学としては総合大学のキプロス大学、ニコシア大学のほかに工科大学などが設けられている。

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文化

地中海に浮かぶ風光明媚(めいび)な島で、史跡や伝説の地にも富み、観光面ではみるべきものが多い。キロキティアの先史住居跡、ビーナス誕生の地と伝えられるパフォスの浜、ギリシア・ローマ時代のサラミスの遺跡、キレニアにあるベネチア時代の城塞(じょうさい)などがとくに著名である。ニコシアにはキプロス博物館がある。各地に海水浴場があり、トロードス山脈中にはスキー場の設備がみられる。

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『澁澤幸子著『キプロス島歴史散歩』(2005・新潮社)』


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百科事典マイペディア 「キプロス」の意味・わかりやすい解説

キプロス

◎正式名称−キプロス共和国Republic of Cyprus(北部のトルコ系住民は,北キプロス・トルコ共和国の独立を宣言している)。◎面積−9251km2。◎人口−86万人(2011)。◎首都−ニコシアNikosia(24万人,2011,トルコ系地区を除く)。◎住民−ギリシア系77%,トルコ系18%,アルメニア人など。◎宗教−ギリシア系はギリシア正教,トルコ系はイスラム(スンナ派)。◎言語−ギリシア語,トルコ語(以上公用語)。◎通貨−ユーロEuro。トルコ系住民地域ではトルコ・リラを使用。◎元首−大統領,ニコス・アナスタシアディスNicos Anastasiades(2013年2月選出,任期5年)。◎憲法−1960年8月発効。◎国会−一院制(定員80,ただし,現在ギリシア系56議席のみで構成,任期5年)。2011年5月選挙結果(ギリシア系のみ),民主運動党20,労働者進歩党19,民主党9,社会民主運動党5,欧州党2,環境運動党1。◎1人当りGNP−1万8430ドル(2004)。◎農林・漁業就業者比率−10.0%(1997)。◎平均寿命−男77.9歳,女81.8歳(2013)。◎乳児死亡率−3.3‰(2009)。◎識字率−98%(2008)。    *    *東地中海,シリア西方100km,トルコ南方70kmにある地中海第3の大島で共和国。英語ではサイプラスCyprus。南岸と北岸に東西に並行して2山脈が走り,中央はメサオリア平野となっている。典型的な地中海式気候。穀物,オリーブ,果物が主要農産物。銅などの鉱産資源に恵まれ,紡績,皮革,醸造工場がある。 前3000年ころ青銅器文明が始まり,前1000年ころギリシア人,次いでフェニキア人が植民した。前58年ローマ領に編入された。15世紀以降,地中海の覇権を競うジェノバ,ベネチアによる争奪の的となり,1489年,ベネチア領となった。1571年オスマン帝国領,1878年英領として軍事基地となった。1931年以降住民の反英とエノシス(ギリシア復帰)運動が起こり,1960年イギリス連邦内の共和国として独立した。 ギリシア系住民とトルコ系住民の民族的・宗教的対立は根深く,1963年,1966年―1967年には大規模な武力衝突が起き,内戦状態となった。1964年には国連が平和維持軍を派遣した(現在も駐留)。1974年ギリシア系軍事組織EOKAの指導者がクーデタを起こすと,トルコはトルコ系住民の保護を理由に派兵し,島の北部を占領した。トルコ系住民は1983年,北キプロス・トルコ共和国の独立を宣言し(トルコだけが承認),キプロスは南北に分断された。ギリシア系のキプロス共和国のヨーロッパ連合(EU)加盟を前に,国連の提示した和平案に沿って,2004年4月南北再統合の賛否を問う国民投票が実施された。北キプロス・トルコ共和国では賛成が65%を占めたが,南部のキプロス共和国は反対が76%に達し,統合案は否決された。南北分断状態のまま,2004年5月キプロス共和国は単独でEUに加盟。北キプロス・トルコ共和国には約3万人のトルコ軍が駐留する。2012年にはギリシア債務危機に際して,多額のギリシア国債を抱えるキプロスの金融・財政危機が深刻化。EU,IMFに支援要請がなされ,2013年3月,EUはキプロスに対して他のEU諸国並の税率の引き上げ,金融規制とともに,高額預金の強制削減などの強引ともいえる対応策を条件として100億ユーロ(欧州金融メカニズム(ESM)から最大90億ユーロ,IMFから最大10億ユーロ)の支援を決定した。しかしキプロスの銀行などへの預金の1/3はロシア・マネーといわれ,EUとしては,ロシアとの間でもキプロス金融支援の合意と間接支援が必要となった。反発を強めるキプロスの国内世論の動向もあり,危機が乗り切れるか先行きは不透明である。そうしたなか2013年2月に大統領選挙が行われ,野党・民主運動党(DISY)党首アナスタシアディスが与党AKELの支持を受ける候補を下して大統領に選出された。政権の課題は金融・財政危機及び懸案のキプロス問題の解決である。
→関連項目欧州債務問題国際連合トロードスパフォス

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「キプロス」の意味・わかりやすい解説

キプロス
Cyprus

正式名称 キプロス共和国 Republic of Cyprus。ギリシア語でキプリアキ民主国 Kipriaki Dimokratia,トルコ語でクブルス共和国 Kibris Cumhuriyeti。
面積 9251km2
人口 132万3000(2021推計。おもにトルコ人からなる約 15万人の移民を含む)。
首都 ニコシア

地中海東部,トルコの南約 70km,シリアの西約 100kmにある地中海第3の大島キプロス島を領域とする国。山岳地帯が多く,北部海岸沿いにキレニア山脈が 160kmにわたって東西に走り,中南には険しいトロードス山脈が横たわる。この両山脈の間に首都ニコシアを中心として東西に海岸の開けた肥沃なメサオリア平野が広がる。日平均気温は,ニコシアで最高 36℃,最低 21℃,平均降水量 483mm,最高はトロードス山脈の 1118mm,最低は中央平野部の 305mm。住民の 80%はギリシア系で,ギリシア正教徒。 18.7%はトルコ系で,イスラム教徒。公用語はギリシア語とトルコ語。平地の半分は耕地で,主要作物はコムギ,カラスムギ,オオムギ,オリーブ,野菜,ブドウなど。牧畜も盛ん。軽工業の発展に努めており,観光も貿易赤字削減のための重要な資源。ニコシアのほか,リマソルファマグスタ,ラルナカなどの港町がある。全島に道路網が完備している。遺跡が多く,ギリシアの神殿,ローマのフォールム,ゴシック聖堂,イスラム教のモスクなどが各地に点在し,ヨーロッパや中東からの観光地として有名である。東地中海の要衝に位置したため,古くから諸民族によって争奪の地となった。 1878年イギリスの施政下に入り,第1次世界大戦の際イギリスに併合され,第2次世界大戦中はイギリス海軍の要塞となった。 1960年イギリス連邦内の共和国として独立。 1963年以来ギリシア系住民とトルコ系住民との間で紛争 (→キプロス紛争 ) が繰り返されていたが,1974年にギリシア軍事政権の介入によりクーデターが発生。これに対してトルコも軍を派遣し,1983年北部トルコ系住民は「北キプロス・トルコ共和国」 (面積 3335km2。首都ニコシア) の独立を宣言した。国連安全保障理事会はこの独立を認めておらず,国連平和維持軍が派遣されているが,事実上は二つの政府が並立した状態が続いている。 2004年ヨーロッパ連合 EUに加盟。 (→キプロス史 )

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知恵蔵 「キプロス」の解説

キプロス

キプロスは地中海東部の共和国。首都はニコシアで、四国の半分ほどの島国である。1960年に英国から独立を果たしたが、多数派のギリシャ系住民と北部に多いトルコ系住民の争いが生じ、1983年に北部が「北キプロス・トルコ共和国」として独立を宣言した(国連は未承認)。その後、南北統合の交渉が断続的に進められているが、実現の見通しは立っていない。
2004年、南部「キプロス共和国」のみが欧州連合(EU)に加盟し、08年からはユーロも導入した。小麦・果実栽培や牧畜が盛んで、鉱産資源にも恵まれているが、主産業は観光業であり、世界遺産の「パフォス」「ヒロキティア」「トロードス地方の壁画教会群」を始め、各地にギリシャ・ローマ時代の遺跡や中世の修道院・モスクが点在し、白砂のビーチ「アギア・ナパ」も多くのリゾート客を集める。
その観光業と並び、キプロス経済を支えているのが国際金融業である。スイスやルクセンブルクと同様、欧州有数のタックスヘイブン(租税の回避地)として、世界中から投資を呼び込んでいる。その銀行の総資産は、国内総生産(GDP)の7~8倍にも及ぶ。とりわけロシア企業の投資が多く、脱税やマネーロンダリングが横行しているとも指摘されている。こうして集めた巨額な資金の行き先が、ギリシャ国債であった。キプロスは歴史的にギリシャと関係が深く、キプロスの大手銀行は大量のギリシャ国債を購入していたのである。
09年に表面化したギリシャ金融危機の影響を受け、キプロスも銀行の財務が悪化。国家財政も破綻の危機に直面した。12年6月、キプロス政府はEUに金融支援を要請したが、ドイツを始め支援に消極意見が強く、救済策の基本合意までに半年以上を要した。
13年3月EUは、キプロス政府が約7000億円を自己調達することを条件に、最大約1兆3千億円の支援を約束。その財源確保のため、キプロスの全預金口座に課税することを提案した。これをキプロス議会が拒否すると、EUは大口預金者のみに課税することを再提案。結果、キプロスの大手2銀行(キプロス銀行、ライキ銀行)は、10万ユーロを超える預金者から一定額を徴収した上、1銀行に整理されることになった。徴収額は、13年4月19日時点では未定。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2013年)

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旺文社世界史事典 三訂版 「キプロス」の解説

キプロス
Kypros

地中海東部,キプロス島のみからなる共和国。首都ニコシア
石器時代・青銅器時代からの遺跡が見られ,古代よりギリシア文化・ビザンツ文化の影響が著しい。16世紀以後,オスマン帝国の支配に属したが,1878年にイギリスが支配権を奪い,1914年正式にイギリス領となった。しかし,第二次世界大戦以後,マカリオス大主教を中心としたギリシア復帰運動が激しくなった。いっぽう,トルコも主権を要求し,1960年妥協的にイギリス連邦下でのギリシア人・トルコ人の変則的な多民族国家として独立した。しかし,その後も両民族の対立が続き,1974年に内戦が起こりトルコが軍事介入し,北部地域を占領した。1983年にトルコ系住民は北部で「北キプロス−トルコ共和国」として独立。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

精選版 日本国語大辞典 「キプロス」の意味・読み・例文・類語

キプロス

(Cyprus) この地に生まれたといわれるアフロディテの別名「キプリス」に由来。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

世界大百科事典 第2版 「キプロス」の意味・わかりやすい解説

キプロス【Kypros[ギリシア]】

正式名称=キプロス共和国Kypriakí Demokratía(北部のトルコ系住民は,北キプロス・トルコ共和国Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyetiの成立を宣言している)面積=9251km2人口(1996)=76万7000人(島全体)首都=ニコシアNikosía(トルコ名レフコサLefkoşa)(日本との時差=-7時間)主要言語=ギリシア語,トルコ語通貨=キプロス・ポンドCyprus Pound(トルコ系住民地域ではトルコ・リラ)東地中海の北東端,トルコの南64km,シリアの西97kmに位置する地中海第3の島(面積9251km2)。

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