1953年7月26日、当時26歳のフィデル・カストロ氏らは親米政権打倒のため、東部サンティアゴデクーバのモンカダ兵舎を襲撃し失敗。カストロ氏は逮捕されたが、55年に恩赦で釈放された。メキシコに亡命後、実弟のラウル・カストロ氏やアルゼンチン出身のチェ・ゲバラらとともに56年に帰国し、山中でゲリラ戦を展開、革命は59年1月に成功した。キューバは61年以降、社会主義路線を取り、米国との対立が続いたが、2015年7月に双方が大使館を再開して54年ぶりに国交が回復した。(共同)
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フィデル・カストロの指導のもとにキューバで行われた,ラテン・アメリカにおける最初の社会主義革命。
〈すべてはモンカダから始まった〉といわれるように,キューバ革命は,1953年7月26日,カストロが率いる反乱グループが東部オリエンテ州のサンチアゴ・デ・クーバ郊外にあるモンカダ兵営を襲撃することによって始まった。襲撃の狙いは,兵営を占拠して武器を奪取し,ラジオ放送を通じて前年3月にクーデタで政権に就いたF.バティスタを打倒するよう全国民に呼びかけることであった。しかしこの襲撃は失敗に帰し,多くの者が殺されたり,捕らえられたりした。指導者のカストロは当時,人民党と呼ばれる改良主義的な政党に属しており,反乱に参加した百数十人の青年たちの多くも,キューバの中産階級に属していた。キューバでは1945年以来真正党が政権に就いており,この政府は,1940年に制定された,大土地所有の制限や農民の保護,労働者の地位保障,工業化などを定めた進歩的な憲法を実施するものとして期待されていたが,実際にこの政府のもとで行われたのは組織労働者の状態の若干の改善や,道路や住宅の建設といった程度にすぎず,農村の貧困は放置され,政府内には汚職や腐敗がはびこっていた。このような状態に不満をもった真正党内の分子が清潔な改良主義の政治を目ざして結成したのが人民党であった。このようにキューバ革命のイデオロギー上の出発点はマルクス=レーニン主義ではなく,民族主義的な改良主義であった。
ところで,襲撃に失敗し捕らえられたカストロは裁判にかけられ,ここで有名な〈歴史は私に無罪を宣告するであろう〉という自己弁論を行ったのである。カストロらはやがて恩赦により出獄し,56年に反バティスタ闘争の準備のためメキシコに渡り,そこで既存の改良主義政党とは絶縁した独自の組織である〈7月26日運動〉を結成した。メキシコでE.ゲバラ(愛称チェ・ゲバラ)を同志として受け入れたカストロらはゲリラ戦の訓練を積んだのち,56年11月グランマ号で再び武力でバティスタを打倒すべくキューバに向かった。
キューバに上陸した彼らはバティスタ軍に迎撃され,かろうじて生き残った30人の同志はオリエンテ州のマエストラ山脈中に逃げ込み,そこで新たにゲリラ戦による反バティスタ闘争を開始した。反乱軍は農民の支持を受け,しだいに勢力を強めてゆく一方で,都市部での組織の強化に努めた。キューバの広範な社会階層が反バティスタ勢力として結集してゆくにつれ,バティスタもこれらの勢力に厳しい弾圧を加えた。そのため彼はますます孤立してゆき,58年3月にはアメリカ合衆国政府もバティスタ政権に対する武器援助を停止した。同年4月,〈7月26日運動〉はバティスタ政権に決定的打撃を与えるため,キューバ全土でのゼネストを呼びかけたが,これは準備不足などの理由で失敗した。4月ストの失敗で勢いづいた政府側は約1万2000の軍隊でマエストラ山脈に大攻勢をしかけたが,政府軍の中から寝返りが続出したことや,当時の政府軍が対ゲリラ戦向きに訓練されていなかったことなどから,結局この大攻勢は失敗に終わった。カストロらは反撃に転じてキューバ中部に軍事的に進出し,総勢約3000人に達した反乱軍はしだいにハバナ包囲網を縮めていった。59年1月1日,完全に孤立したバティスタ政権はついに崩壊し,代わって革命政権が樹立された。
革命政権は59年5月に第1次農業改革法を実施し,キューバ社会の構造改革に着手した。農業改革法の実施を契機に革命政権内の穏健派が革命から脱落するとともに,アメリカ政府との関係も悪化し始めた。アメリカの莫大な権益が存在していたキューバで国内の構造改革を行えば,それがアメリカとの対立に発展することは不可避であった。60年2月,キューバとソ連との間に貿易援助協定が締結されたのが革命にとっての一つの転機となった。それにより,アメリカ政府はキューバ糖の輸入を停止するなど革命政権に対する敵視をますます強め,一方,キューバ側も同年8月には在キューバのアメリカ系企業を国有化するなど,両国の関係は悪化の一途をたどり,61年1月,両国政府はついに国交を断絶した。同年4月,アメリカ政府に支援された反革命軍がキューバのヒロン海岸に侵攻したが,キューバ軍はそれを撃退し,その侵攻直前にカストロ首相はキューバの社会主義革命を宣言した。
一方,キューバは1960年9月に第一ハバナ宣言,62年2月に第二ハバナ宣言を発表し,ラテン・アメリカにおける〈アメリカ帝国主義〉との闘争を積極的に呼びかけて,ラテン・アメリカにおける新しい革命運動の中心となった。ソ連を中心とする社会主義諸国との関係もますます強めてゆき,62年10月のいわゆる〈キューバ危機〉事件でキューバ・ソ連関係は一時冷却したが,その後まもなく関係は修復された。60年代の半ば,西半球のなかで孤立を深めていたキューバは,国内的には社会主義と共産主義との並行的建設,対外的にはラテン・アメリカにおける武力革命への積極的支援という急進的な路線をとったが,この路線も結局行き詰まり,70年代に入るや,国内的には経済建設と革命の制度化を,対外的にはソ連・東ヨーロッパ社会主義諸国との一体化を目ざした,より現実的な路線をとるようになった。
→キューバ
執筆者:加茂 雄三
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カリブ海の小島キューバで起こった革命。ゲリラ戦による武装闘争で独裁政権を打倒したのち、ラテンアメリカで最初の社会主義革命へと発展した。既存の共産党の指導によらずに社会主義革命を達成したこのユニークな革命は、ゲリラ戦で権力を奪取するという独特な革命の方法や、ラテンアメリカでは社会主義革命によってのみ対外的従属や低開発の状態から真に脱却できるという理論を提起したことにより、その後のラテンアメリカの革命運動に大きな影響を及ぼした。
革命の社会的、経済的背景となったのは、この国が20世紀初めにアメリカの「保護国」として独立して以来、実質的にアメリカの植民地支配下に置かれてきた状況である。アメリカ政府は独立に際してキューバの憲法に、必要とあればいつでも内外政に干渉できることを規定した条項(プラット修正)の挿入を強制し、事実その条項が1934年に撤回されるまで数次にわたってこの国に軍事干渉を行った。一方、19世紀末以来、砂糖産業を中心に行われたアメリカの対キューバ投資は独立後も増大し続けたため、キューバの経済は著しく対米従属的な砂糖モノカルチュア経済となった。革命前、大部分の土地はアメリカ人やキューバ人の大地主の手に集中し、土地を所有しない小作人や農業労働者の数は農民の約80%を占めた。サトウキビの収穫期以外の時期は「死の季節」とよばれ、多くの農民や労働者が失業し、貧困や飢餓で苦しんだ。彼らを吸収するための工業化もアメリカ製品の流入によって遮られた。1940年の憲法は土地改革や工業化を定めていたが、歴代政府のもとでそれらが実施されぬうちに、1952年3月、軍事クーデターでフルヘンシオ・バチスタが政権につき、植民地的支配の新たな局面が現れた。
革命の第一段階は、1953年7月26日、フィデル・カストロが率いる武装した青年たちがバチスタ打倒のための反乱に立ち上がったことにより始まった。この「モンカダ兵営襲撃」は失敗し、カストロらは捕らえられ裁判で有罪判決を受けた。やがて恩赦で釈放された彼らはメキシコに渡り、そこで革命組織「7月26日運動」を結成した。1956年末「グランマ」号に乗ってキューバに侵入した彼らは、オリエンテ州のシエラ・マエストラ山脈を舞台にゲリラ戦による新たな革命戦争を開始した。彼らは農民たちを闘争に参加させるとともに、広範な階層よりなる反バチスタ統一戦線を組織して闘いを進め、1959年1月1日、アメリカ政府からも見離され孤立無援となったバチスタをついに政権の座から追放した。革命後最初の政権は、中産階級を含む穏健な政府であったが、実権は革命軍の総司令官であったカストロが握っており、1959年5月に第一次農地改革法を制定してキューバ社会の構造改革に着手するや、穏健派が革命から脱落し始めるとともに、アメリカ政府との関係も悪化し、1960年10月のアメリカ人資産の全面国有化、1961年1月のアメリカとの国交断絶を経て、ついに1961年4月に社会主義革命を宣言するに至った。
[加茂雄三 2016年12月12日]
『加茂雄三編『ドキュメント現代史11 キューバ革命』(1973・平凡社)』▽『K・S・カロル著、弥永康夫訳『カストロの道――ゲリラから権力へ』(1972・読売新聞社)』▽『ハーバート・マシューズ著、加茂雄三訳『フィデル・カストロ――反乱と革命の創造力』(1971・紀伊國屋書店)』
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(伊藤千尋 朝日新聞記者 / 2007年)
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1950年代のキューバで,アメリカの支持を受けた独裁体制の打倒を目標とした武装闘争の結果としての革命政権の樹立と,その後の社会主義社会建設の試みをさす。34年以来キューバを支配していた独裁者バティスタに対するカストロらの反政府ゲリラ活動が成功して,59年1月に革命政権が成立した。その後,農地改革などを進めようとする政府とアメリカとの間で対立が激化したため,革命政府は急速にソ連ブロックに接近し,社会主義への傾斜を強めた。61年には反カストロ勢力によるキューバ進攻が失敗し,62年にはキューバ危機が生じた。その後カストロが76年の新憲法にもとづいて国家の実権を握り,キューバは海外の革命運動を支援し,非同盟運動で主導的な役割を果たしたが,90年代初頭の共産圏の崩壊で打撃を受けた。社会主義体制を維持しながら,経済の自由化,外資の導入,観光業の振興などにより困難を克服しようとしている。
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…このような合衆国の覇権政策に対して,この地域諸国はハイチでのカコと呼ばれる武装農民の反乱(1918)や,ドミニカ共和国での軍事占領に対する抵抗,キューバでの33年の民族主義的な革命の勃発など,さまざまな抵抗を示したが,結局これらは封じ込められ,1930年代から50年代にかけて,キューバ,ハイチ,ドミニカ共和国などでは合衆国の権益を守護する独裁者たちが出現した。カリブ海政策
[地域としての課題]
このような合衆国によるヘゲモニーを打破する最初の動きとなったのが1959年のキューバ革命であり,それは独裁者の打倒,反米民族主義の闘い,社会主義革命という急進的な道を歩んで,カリブ海のみならずラテン・アメリカ現代史全般にとっての一大画期となった。一方,イギリス領植民地でも1930年代から労働運動の高揚や,政党の結成などを通じて自治を要求する動きが強まり,第2次世界大戦後には,西インド諸島連邦(1958‐62)が解体して60年代以降独立国が続々と誕生した。…
…その結果,ガーナ(1957)をはじめとする多数のアフリカ諸国があいついで独立し,とりわけ独立が集中した1960年は〈アフリカの年〉と呼ばれた。そしてキューバ革命(1959)とその社会主義宣言は,ラテン・アメリカがアメリカの〈裏庭〉から脱しはじめたという歴史の流れの転換を示すものであり,チリの挫折(1973年,人民連合政権に対する軍事クーデタ)を経たとはいえ,ニカラグア革命(1979)にみられるように解放運動の流れは一貫して継続している。 しかしながらその一方では,政治的独立後も旧本国との経済的従属関係を持続している〈新植民地〉も多数存在している。…
… 問題の〈ブーム〉が生じた背景には,第2次世界大戦後に起こった都市化,それに伴う中産階級の増加,各地の大学が核となった読者層の拡大,スペイン内戦の結果としての多くの作家・知識人たちの亡命,といった有利な条件があった。バルセロナを中心にしたスペイン出版業界の積極的な支援という要因も忘れるわけにはいかないし,さらに,59年に独裁者バティスタを倒して社会主義政権を樹立させたキューバ革命によって与えられた,好ましい刺激も見のがすことはできない。革命に対立するもの以外はすべて可とする寛大な文芸政策を打ち出したカストロ政権は,文化機関である〈アメリカの家〉の創設や同名の文芸誌の発刊を通じて,互いに孤立していた大陸全体の作家たちの交流を増進すると同時に,それ以後に目ざましい活躍をみせることになる新人たちを多数送り出したのである。…
※「キューバ革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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