ギャンジャ(英語表記)Gyandzha

デジタル大辞泉 「ギャンジャ」の意味・読み・例文・類語

ギャンジャ(Gəncə)

アゼルバイジャン共和国西部の都市。首都バクーに次ぐ同国第2の規模をもつ。ロシア帝国時代はエリザベトポリ、旧ソ連時代はキーロババードと呼ばれた。5世紀頃に建設。織物業商業の中心地として栄えた。モンゴルやタタール来襲を受けて衰退したが、18世紀にギャンジハン国の首都、19世紀初頭にロシア帝国領となった。旧市街には歴史的建造物が多く残る。中世ペルシアの詩人ニザーミー=ガンジャビーの生地。ガンジャ。

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改訂新版 世界大百科事典 「ギャンジャ」の意味・わかりやすい解説

ギャンジャ
Gyandzha

ザカフカス地方,アゼルバイジャン共和国西部の工業都市。人口30万3800(2004)。地名はギャンジャGyandzha(1804以前と1918-35),エリザベトポリElizavetpol'(1804-1918)を経て,1935年革命家S.M.キーロフにちなんでキーロババードKirovabadと改称された(アーバードはペルシア語で〈都市〉の意)。1989年現名に改称。5~6世紀に創建され,12~13世紀にこの地方の商業,文化の中心として栄えた。詩人ニザーミーの生地で,18世紀にはギャンジャ・ハーン国の首都。1804年ロシアに併合され,十月革命前はエリザベトポリ県の県都であった。共和国内では,バクーに次いで工業,特に軽工業(じゅうたん,織物,食品など)が盛んである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ギャンジャ」の意味・わかりやすい解説

ギャンジャ
ぎゃんじゃ
Gyandzha

アゼルバイジャン共和国の都市。1804~1918年の間はエリザベトポリElizavetpol'、1935~89年の間はキーロババードКировабад/Kirovabadとよばれた。ギャンジャの呼称は1804年までと1918~35年にも使用されている。人口30万0900(2002)。小カフカス山脈の北東山麓(さんろく)、クラ川支流ギャンジャチャイ川の扇状地上に位置し、バクー―トビリシ間の鉄道に沿う。市は5世紀より知られ、12~13世紀に織物製造の手工業と商業で知られたが、しばしばペルシア、タタール、モンゴルなどに攻め込まれた。18世紀にはギャンジ・ハン国の首都、1804年にロシア領、68年にエリザベトポリ郡役所所在地となった。綿加工や、食肉製粉乳製品などの工場、地元産明礬(みょうばん)石を原料とする軽金属工場などがある。旧市街には要塞(ようさい)の城壁、塔(13世紀)、イスラム教の学問所ギョイ・イマム(14~17世紀)、近郊にイスラム教寺院ジュマ・メチェチ(17世紀)などの史跡が多い。農業経済、教育、政治、軽工業、医学などの研究・教育施設、郷土館が置かれている。

渡辺一夫

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ギャンジャ」の意味・わかりやすい解説

ギャンジャ
Gyandzha

1935年までガンジャ Gandzha,1935~89年はキロババード Kirovabad。アゼルバイジャン北西部の都市。同国第2の都市で,小カフカス山脈北麓の高原にあり,クラ川の支流ギャンジャチャイ川に面する。アゼルバイジャン最古の都市の一つで,5~6世紀に建設された。隊商ルートの中継地として繁栄したが,1231年にモンゴルに攻略され,1606年ペルシア領となり,ガンジャ・ハン国の首都とされた。 1804年ロシア領,1918年までエリザベートポリ Elizavetpol'と呼ばれた。豊かな農業地帯の中心地で,主産業は,クラ川流域の低地に産する綿花の洗浄をはじめ,綿布,油脂,食肉加工などの農産物加工業で,ほかにアルミニウム,機械・器具の製造業も発達している。農業大学,教育大学があり,旧市街には 12世紀のペルシア詩人ニザーミーの墓と記念碑,17世紀のモスクなどがある。ジョージア(グルジア)の首都トビリシとバクーを結ぶハイウェーが通り,空港もある。人口 28万 2200 (1991推計) 。

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