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ギリシア演劇 ギリシアえんげき Greek theatre

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ギリシア演劇
ギリシアえんげき
Greek theatre

ディオニュソス (バッカス) 神を祀る宗教儀式のなかから発生し,毎年春と冬に国家行事として行われた祭典の一部となって発展した。初めは,合唱団 (コロス) が重要な役割を占めたが,やがて俳優が出現して演劇的要素が強くなるにつれ,コロスの機能は減じ,ついには消滅した。

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百科事典マイペディアの解説

ギリシア演劇【ギリシアえんげき】

古代ギリシアで行われた演劇で,悲劇,喜劇,サテュロス劇ディオニュソスの従者に扮したコロス=合唱隊が登場する劇)などが挙げられる。特に悲劇と喜劇は西洋演劇の源流となった。
→関連項目演劇

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世界大百科事典 第2版の解説

ギリシアえんげき【ギリシア演劇】

古代ギリシアでは笛・竪(たて)琴などの音楽,舞踊やものまね,独唱・合唱・物語など,多くの様態にわたる伝統芸能が太古より存在していた。それらの起源は前史時代にさかのぼり,ミュケナイ時代には先進オリエント文明からの影響も受けて,さまざまの発展をたどったものと思われる。後世ギリシア演劇を代表する悲劇,喜劇などの仮面演劇は,それらの伝統芸能の豊かな素地の上に成立した総合芸術である。
【背景と前史】
 現存する最古の悲劇,喜劇,サテュロス劇(合唱団が,酒神ディオニュソスの従者として登場する半獣神サテュロスから成り立っている演劇)はいずれも前5世紀中葉の,アッティカ地方の主都アテナイにおける演劇活動の最盛期の産であり,すでにおのおのの完成した文芸形式にのっとるものといってよい。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ギリシア演劇
ぎりしあえんげき

古代ギリシアの演劇として顧慮すべきは、悲劇、喜劇、サティロス劇ミモス劇の4種である。西洋演劇史の源流として重要な地位を占めるのは悲劇と喜劇であり、悲劇ではアイスキロスソフォクレスエウリピデス、古喜劇ではアリストファネス、新喜劇ではメナンドロスの戯曲が現存する。いずれもアッティカ地方の都市国家たるアテナイ(アテネ)の詩人であり、悲劇、喜劇はアッティカ悲劇アッティカ喜劇ともよばれる。
 演劇は文化の根源的形態の一つであり、ことに農耕地帯では世界各地に儀礼と不可分の芸能が生じている。各種ギリシア演劇の起源についても酒神ディオニソス崇拝との相関が推察されるが、この問題には論議が多く定説はない。だが、悲劇、喜劇という高度の演劇はアテナイにおいてのみ成立したのであり、僭主(せんしゅ)時代の統治者ペイシストラトスが地方の酒神祭礼を国家行事とし、その実質を悲劇競演と定めたことが母胎である。この毎年3月中旬に行われる「大ディオニシア祭」最初の優勝者は、悲劇の祖、紀元前534年のテスピスとされている。その後アテナイでは僭主制が廃され、民主制のもと、前490年、前480年の勝利を含む対ペルシア戦争が遂行される。緊張のさなか前487年には喜劇競演も同じ大祭に組み込まれ、両演劇は時勢を鋭く反映しつつ、アテナイの消長と運命をともにした。[細井雄介]

劇場

ギリシア劇は日中野外で行われる演劇であった。今日各地に残る石造の劇場は後代の遺構であり、アテナイのディオニソス劇場盛時の姿は推定によるほかないが、劇場の三大要素はオルケストラとテアトロンとスケネである。
 オルケストラorchestraとは「舞踏の場」を意味し、アテナイのディオニソス劇場では直径約20メートルの正円形という推察がある。ここでは主として劇の合唱隊が活動するが、俳優も登場し、また劇以外にもディティランボスdithyrambosとよばれる合唱歌の競演が行われた。合唱隊の員数は、悲劇12人(ソフォクレスが15人に改める)、サティロス劇も12人、喜劇24人で、いずれも方形の隊列(ディティランボス合唱隊が円形に並ぶのと根本的に相違)を組んだ。
 テアトロンtheatronは英語theatre(演劇・劇場)などの語源をなすが、本来は観客席のことである。その収容力には国家行事にふさわしい規模が要請されたはずであり、アクロポリスの山腹に、オルケストラを中心の底部として扇形に上ってゆく急斜面を用いて木組みの客席が設けられていた。のちに改造、前330年ごろに完成された石造のこのディオニソス劇場では、1万4000から1万7000の観客を収容できたといわれる。
 スケネskeneとは平屋根をもつ木組みの楽屋のことで、オルケストラを挟んで扇形の観客席に向かい合う位置にあった。合唱隊はスケネ両翼に伸びる通路(パロドス)parodosを用い、俳優はこれとスケネの戸口をも利用してオルケストラへ登場したと思われる。合唱隊と俳優とは同じ平面で劇を演じた。俳優のための舞台が一段高くなるのは後代のことである。観客席に面したスケネ前面はプロスケニオンproskenionとよばれ、ときには場景を表す絵も設置されたらしい。今日「場面」などを表すシーンsceneという語もここに由来する。
 アテナイの演劇はのちに各地に波及し、ヘレニズム時代には広く大小の都市に石造の劇場が建ち、アテナイの劇場の基本構造はローマでも引き継がれた。[細井雄介]

合唱隊と俳優

結束の固い共同体では、戦勝のおりとか婚礼や葬儀その他の祭儀に、合唱の群れがたやすく組織されたのかもしれない。その後裔(こうえい)と推定される合唱隊(コロス)chorosを率いてテスピスは自ら第一の俳優protagonistになったという。盛時の悲劇では、アッティカの10部族がそれぞれ精鋭を選んで合唱隊をつくり、あらかじめ厳しく訓練して競演の日を迎えた。テスピスに次いで、アイスキロスが第二俳優deuteragonist、ソフォクレスが第三俳優tritagonistを加えたが、その後の増員はなかった。すなわち、劇中人物が何人登場しても、すべての役を3俳優でこなさなければならず、また一場面で発言できる人物も3人までに限られたのである。だが、この厳しい制約があればこそ、かえって詩人たちは比類なく凝縮度の高い劇を創造できたともいえよう。俳優の選ばれ方は不明だが、前5世紀末には多少とも俳優の専門的職業化が進んでいたらしい。合唱隊員および俳優はみな男性であり、仮面をつけて登場した。[細井雄介]

仮面と衣装

ギリシア悲劇は仮面劇であり、最後まで仮面を失わなかった。これは大劇場で人物の面貌(めんぼう)をはっきりみせる仮面の機能によるためであろうが、酒神ディオニソスの祭儀という宗教的特質に起因しているかもしれない。仮面の材質は木、コルク、布などで、朽ちやすかったため遺品はないが、その実際は壺絵(つぼえ)から推察できる。時代は彫刻の発展期であり、彫刻にみられる清潔で鋭い様式は仮面にも明白である。ただし演劇の仮面であるため、その口はかならずなかば開いていた。悲劇の俳優が背丈を高くみせる不自然な高靴コトルノスkothornosや、前額部を高く飾るオンコスonkos付きの醜怪な仮面は後世の所産である。盛時の演劇は生気にあふれる自然な舞台であったとみるべきであろう。
 古喜劇では、俳優や合唱隊員は肉襦袢(にくじゅばん)を着て、腹や臀(しり)は詰め物で膨らませ、男性ならば大きな陽根をつけていた。新喜劇になると、これら誇張の激しい姿態は排除されて、日常を映す市井劇が成立した。[細井雄介]

ギリシア悲劇

悲劇トラゴイディアtragoidiaの原義は「山羊(やぎ)の歌」であるが、これが何を意味したか明らかでない。ただ、サティロス劇とともに、最初から酒神ディオニソスと深い関係にあったことは確かと考えられる。だが、この演劇形式に精神を与えたのはアテナイの詩人たちであり、悲劇の真の創始者はアイスキロスであった。悲劇詩人はただ1日の上演を目ざして悲劇3作とサティロス劇1作を毎年当局に提出する。選考の結果3詩人が選ばれ、これら3人にはそれぞれ合唱隊が与えられて四部作(悲劇としては三部作)の劇が上演される。上演費用は各詩人についた富裕な有力者がいっさいを負担し、詩人は作曲までも含めて演出全般を担当した。毎年ただ一度、3日間の悲劇上演にアテナイは絶大な精力を投入したのである。3日にわたる競演後、審判官が等級をつける。一等を得た詩人が優勝者である。
 ところで、悲劇詩人の眼前には叙事詩人ホメロスの歌い上げた新しい人間像があった。アキレウスなど英雄たちの姿である。これらの英雄は、己の責任において決断し独自に行動できる、いわば高度の質を備えた輝かしい人格であり、ギリシア文化が初めて世界に贈ったといえるほどの存在であった。しかし、それらの英雄が描かれた叙事詩、神話、伝説などはいっさいをすでに完了せるできごととして語り、いかなる波瀾(はらん)をも静かに納めている。このような叙事的世界の英雄たちを悲劇詩人がよみがえらせたのである。あらゆる行為は合唱隊の注視のもと、合唱隊の圧力に耐えて展開されねばならない、というのがギリシア悲劇の基本構造である。つねにいまの立場で物事を判断してゆく合唱隊の面前に、ひとたび劇の登場人物として呼び出されると、それまで静かに眠っていた英雄たちはそれぞれ、たちまち未来との緊張に生きる生身の激しい姿に変わり、ここに後世の演劇史を触発してやまぬ劇的存在が成立した。このような劇的存在がいかなる意味を伝えることができるか、アテナイの人々はこれをよく自覚して、市民も詩人も等しく悲劇上演に熱意を注いだのであろう。
 前406年にエウリピデス、ソフォクレスが相次いで亡くなり、悲劇は実質的に終わりを告げるが、このとき都市国家アテナイもすでに衰退の途にあった。その後も上演自体は、旧作再演の方策もとられ新作も多く、ヘレニズム時代にも各地の劇場で盛んに行われたが、残された戯曲はついに先にあげた三大詩人に限られている。[細井雄介]

ギリシア喜劇

喜劇コモイディアkomoidiaは原義もさだかでなく、古い時期のことはわからず、発展の系譜も不明である。前487年アテナイの国家行事に組み込まれた喜劇上演は、3日間の悲劇上演に続く1日、各人1作を提供する5人で競われた。喜劇では時代も離れ実質も異なるので、古喜劇と新喜劇の別がたてられている。
 古喜劇として残っているのはアリストファネスの11編、前425年から前388年にかけての戯曲である。この時期、ペロポネソス戦争でスパルタ側を相手とするアテナイは敗色を強めて荒廃へ向かった。その趨勢(すうせい)のなかでアリストファネスは、アテナイの戦争政策に反対する保守家として積極的に発言した。古喜劇には、劇中人物が相対立する主張を言い争うアゴンagonという部分と、合唱隊の持ち分で、本筋にかかわりなく作者の主張を観客に向けて直接訴えるパラバシスparabasisという部分とがあり、両者を存分に利用できたのである。このような特有の構造からなるために、古喜劇はあまりにも時代に密着して政治色を濃くし、その印象の迫力は世界喜劇史に際だって強烈であるが、反復して後代に伝えやすい類型になることがなかった。
 過渡期の中喜劇は作品が残っていないが、新喜劇はメナンドロスの断片が近年発見された。発見以前にも、ローマの翻案劇を通じてその作風はかなり知られていた。いずれも同工異曲の恋の物語であり、ここで考案された喜劇的状況はその後も長く引き継がれて、西洋における喜劇史を豊かにさせる素材となった。だが合唱隊は政治的意義を失い、劇と関係のない幕間(まくあい)音楽の担い手に堕していた。歴史を動かす大勢力はすでにギリシアを去ってローマのほうへ傾こうとしている時代の所産が新喜劇であった。[細井雄介]

サティロス劇

滑稽(こっけい)な内容で哄笑(こうしょう)を招くが、喜劇と取り違えてはならぬ異質の演劇である。これは、悲劇競演における1日の上演の締めくくり、すなわち3部の悲劇にかならず続く結尾の部分をなし、合唱隊はそれまで悲劇を演じてきた同じ連中であった。サティロスSatyrosとは酒神ディオニソスの眷属(けんぞく)で半人半獣の山野の精であるが、アッティカ地方ではシレノスSilenosともよばれた。舞台には合唱隊が猥雑(わいざつ)な衣装で馬の耳と尾をつけて登場、滑稽な状況に置かれた神々や悲劇の英雄を取り巻いて行動する。厳粛な行事のあと息抜きを求める均衡感覚が、両演劇の不可分の結合を固持させたのかもしれない。エウリピデスの『キクロプス』1編が完全作として伝えられている。[細井雄介]

ミモス劇

前述した演劇と異なり、国事に制定されなかった雑芸的演劇がある。ミモスmimosとは、身ぶり物まねを意味するが、動物や人間の姿態を注視してその特徴の模倣に走るのは人間の根源的衝動の一つであり、これに基づく雑芸はいつでも至る所に生じることであろう。そのなかでシチリアではプリアケスphlyakesといわれる笑劇があり、前500年前後に活躍のエピカルモスがこれをもとに、神話伝説の茶番化を筋とする短い戯曲を書いたが、すべて消失した。ついで同地方でエウリピデスと同じころソフロンが「ミモス」と称する散文劇を創始、短い対話で日常生活を素描風に活写した。その戯曲も散逸したが、影響は大きく、同系統の後代作家にテオクリトス、ヘロンダスがあげられる。これらは文学の体裁を得た例だが、合唱隊をもたず1人ないし数人で典型的な性格や風俗を模倣し、淫猥(いんわい)な要素も多分にはらむ即興的なミモス劇は種々存在し、なかには悲劇の粗筋を1人の黙劇ですべて演じ尽くすパントミモスpantomimosもあった。
 これらの雑芸がローマ時代に移ってミムス劇とよばれ、正統的演劇を圧倒しつつ帝国の版図とともに各地に広まり、キリスト教による抑圧に至るまで市民に愛好されていた。[細井雄介]

影響

演劇的芸能は無数にあるが、これが最高度の発展に達すると、人間の姿を宇宙全体との相関において描き尽くしうる芸術は「演劇」のほかにないということをギリシア演劇は史上初めて立証してくれた。後代の諸民族が等しくトラジディtragedy、コメディcomedyなどとギリシア語音を移して同種演劇の創造に励みつつ演劇史の主流をつくり、ついにわが国まで「悲劇」「喜劇」の邦訳新造語を定着させるに至った事実だけでも、ギリシア演劇の影響は絶大といえよう。ことに悲劇については、盛時の演劇は終わっていたが、アリストテレスが『詩学』で悲劇の構造分析と本質究明に尽くし、その洞察は演劇を超えて広く芸術研究の最高峰を極めている。また近くは、ニーチェが悲劇研究に基づく鋭い文化批判で現代思想を導き、フロイトが悲劇の英雄に深い意味を認めて精神分析を進展させ、現代の文化人類学者が神話研究から文化の深層に迫りつつあるように、ギリシア演劇は文化の根源として学問史上無視できない。
 ギリシア演劇は、ようやくルネサンス期に伝存手稿が公刊されても、長らく戯曲として読まれるだけであったが、20世紀には復古上演の機運も生じ、1936年以来ギリシア国立劇場は現代語による古劇上演を続けている。他の諸国でも世界各地にわたっておりおりにギリシア劇は翻訳され上演されており、よみがえった英雄たちが今後舞台上から完全に消えることはけっしておこらないであろう。[細井雄介]
『『ギリシア悲劇全集』全4巻(1960・人文書院) ▽『ギリシア喜劇全集』全2巻(1961・人文書院) ▽高津春繁著『古代ギリシア文学史』(1952・岩波書店) ▽中村善也著『ギリシア悲劇入門』(1974・岩波書店) ▽川島重成著『ギリシャ悲劇の人間理解』(1983・新地書房)』

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世界大百科事典内のギリシア演劇の言及

【古典劇】より

…ただし,古典劇という言葉を日本の演劇史に適用することはまれにしか行われない。 狭義の古典劇の第1は,古代ギリシア演劇,古代ローマ演劇のことである。ギリシア悲劇とギリシア喜劇は前5世紀のアテナイを中心に花開き,三大悲劇詩人のアイスキュロス,ソフォクレス,エウリピデス,古喜劇のアリストファネスたちが活躍した。…

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