翻訳|Xenophon
古代ギリシアの軍人、文筆家。アテナイのエルキア区の出身。父は豊かな騎士階級の人であったらしく、『馬術』『騎兵隊長論』などの著作がある。ソクラテスの弟子の一人で、プラトンはほぼ同年輩のライバルであった。師の追憶はのちに『覚書』『饗宴(きょうえん)』『ソクラテスの弁明』にまとめられている。しかし彼は元来武人で、師の深い哲理に浸ることはできず、またアテナイの民主政治の退廃は耐えがたいものであった。おりよく旧友からの手紙で、ペルシア王アルタクセルクセス2世の王位をねらう弟キロスの軍隊に参加するように勧められる。彼は師ソクラテスの苦言を受けながらも、ついに小アジアに渡り、その軍隊の傭兵(ようへい)となってバビロンに向けて出発する。しかし、頼むキロスはまもなく戦死、やむなく彼は敗軍の将として1万のギリシア人部隊を率いて退却、多くの苦難と戦いながら積雪のなかを黒海沿岸を旅してボスポロスにたどり着く。この1万人の退却の記録が、彼の最大の傑作『キロスのアナバシス』(アナバシスは「のぼる」の意)7巻である。もっとも5巻以後は、それまでの生々しい筆致に比べて著者の自己弁護が目だち、このへんに作品成立の事情がうかがわれる。このほか、同じキロスの名を冠したものに『キロスの教育』という8巻の作品があるが、これはその名を借りて綴(つづ)った彼の理想の王者像である。彼は紀元前399年にこの遠征から解放されたが、まもなくスパルタ王アゲシラオスの軍に加わってアテナイと戦うはめに陥り、ついに祖国からは追放の宣告を受けた。しかしこのコリント戦争が終わるころには、スパルタから贈られたオリンピア近くのスキルス村に引きこもり、妻子とともに静かな文筆生活に入った。『アナバシス』など多くの大作はここで生まれている。ところが5年後にはスパルタがテーベに敗れたので、彼はスキルスからコリントに移り、アテナイからの追放解除はあったが、この地で死んだといわれている。
彼の作品は非常にすなおなアッティカ方言で書かれているために古典ギリシア語の代表として、また文体の範としてローマでも尊重されたために、珍しいことに全作品が残っている。前記のもののほかに、『ギリシア史』7巻は前411~前362年、すなわちトゥキディデスの『戦史』が中断されたところからスパルタの覇権の崩壊に至る間の歴史で、明らかに彼が先輩の筆を継がんとした作品である。ここで彼のスパルタびいきの心情は激しく、アゲシラオス王への尊敬の念のあまり、スパルタの敗北を抹殺し、敵方の英雄を黙殺している。『家政論』『狩猟論』『スパルタ人の国制』『ヒエローン』などの小論も興味深い。
[風間喜代三 2015年1月20日]
『青木司朗・風間喜代三訳『世界文学全集5 アナバシス』(1968・筑摩書房)』▽『松平千秋訳『アナバシス』(1985・筑摩書房)』▽『クセノフォーン著、佐々木理訳『ソークラテースの思い出』(岩波文庫)』
古代ギリシアの物語作者。3~4世紀ごろの人。後世「ギリシア小説」とよばれるジャンルに属する『アンテイアとハブロコメス』(別名『エペソス物語』)の作者。生涯についてはほとんど不詳。その名もおそらくはペンネームか。美男美女2人の主人公がさまざまな苦難にあいながら、最後はハッピー・エンディングに終わるという、この種の物語のパターンがここにもみられる。叙述がたどたどしいので原作の抄本であろうといわれる。
[松平千秋]
『松平千秋訳『エペソス物語』(『筑摩世界文学大系64 古代文学集』所収・1961・筑摩書房)』
古代ギリシアの軍人,歴史家。アテナイの上層階級に生まれ,体育,騎馬,狩猟,軍事,修辞弁論などの優れた教育を享受し,とくにソクラテスを師と仰いでいた。ペロポネソス戦争終了後,テーバイ人の旧友の誘いに応じてペルシア王子キュロス(小キュロス)の軍に一私人として参加した。クナクサの会戦(前401)においてキュロス王子が戦死した後,ギリシア人傭兵(重装兵約1万名)の頭目に選ばれ,厳冬のアルメニア山中の退却行軍を指揮したが,その目撃体験談は自身の筆になる《アナバシス》に詳述されている。その後ペルシアとスパルタとの戦争勃発とともに,スパルタ王アゲシラオス王の下で騎兵指揮者として各地に転戦したが,故国アテナイと敵対関係に陥るに及んでアテナイからは追放処分を受け,代りにスパルタからオリュンピア近隣のスキルスに土地を与えられ,前394年ころから約20年間この地に住み,静穏のうちに狩猟や運動競技に興じたり,文筆活動にいそしむ日々を送った。
クセノフォンの体験談,追憶記,歴史記述,キュロス大王の歴史小説,狩猟や騎馬術に関する専門的記述など,多岐にわたる文筆活動と名文家としての名声はこのスキルス時代のたまものと目される。しかし前371年レウクトラの会戦後スパルタの覇権が失墜するや,クセノフォンもスキルスを失いコリントスに移る。やがてスパルタ,アテナイ,コリントス3国間の和議成立後,クセノフォンの追放処分は解除され,30余年ぶりに彼は故国アテナイへ復帰した。クセノフォンの2人の息子たちはスパルタで教育を受けたが,その中の一人グリュロスはマンティネイアの会戦(前362)でアテナイ側騎兵隊に加わって奮戦したが戦死,その追悼の碑詩には父クセノフォンの名誉をともに称えるものが多く作られたとアリストテレスは記している。クセノフォンの没年は不明であるが,《租税について》と題する彼の最晩年の著述は内容的に見て前355年,アテナイ第二海上同盟崩壊後の財政再建建策書となっている。
クセノフォンの著述は多分野にわたり膨大な量に及ぶが,若いころの師ソクラテスの教訓(《ソクラテスの思い出》),反民主主義的な政治理念,そして長じて実見したスパルタ人貴族に対する崇敬の念などが一つに融合した明確な人柄がうかがわれる。バランス感覚と良識の具現ともいうべき平明率直な著作は,古代ギリシア,ローマでは教養の糧と仰がれ,18世紀末までその評価はゆるがなかったが,実証主義的歴史学,プラトン中心的古代哲学評価,国家主義的文明評価がそろって台頭した19世紀以来,古代人群像の中でのクセノフォン評価は著しく下落した。しかし現代思想にもやがて良識の復するときが訪れるとすれば,クセノフォンの敬虔と人間理解,そして国境にとらわれない自由な生き方は再び価値あるものとされるだろう。
執筆者:久保 正彰
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前430頃~前355以後
アテネ人でソクラテスの弟子。軍人で著作家。前401年傭兵隊に加わり,ペルシアにおもむき苦難をなめた。スパルタ王と親交,特別待遇を受ける。祖国を追放されたが,晩年に赦免され,和解。コリントでその生涯を終えた。
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…主として農耕・牧畜に従事する独立自営の農民について用いられた。前4世紀アテナイの著述家クセノフォンは,《家政論》のなかで,農業に従事する人々をアウトゥールゴイと〈監督によって農業を行う者〉に分類しているが,前者が家族および少数の奴隷とともに自ら労働したのに対して,後者は自ら働くことなく多数の奴隷を使役して農業を行わせた。前7世紀初頭にまとめられた叙事詩人ヘシオドスの《農と暦(仕事と日々)》のなかには,アウトゥールゴイの姿がすでに明確に描き出されている。…
…クセノフォン作の散文。アケメネス朝ペルシアにおける王位継承争いに敗れ反乱を起こした小キュロスに,約1万人のギリシア人が傭兵として参集した(前401)。…
…自伝の一種とみなすこともできるが,常識的な区別として,語り手の私生活や内面的反応に重点をおくのが自伝,公的な経歴,とくに歴史的な事件や人物を中心とするものが回想録といえる。このジャンルの原型をなすものに,古代ギリシアのクセノフォンの2著,《アナバシス》と《ソクラテスの思い出》があげられる。著者自身,ギリシア人の傭兵と共にペルシアの王子キュロスの王位争いの戦いに参加,キュロスがあえなく戦死した後,ギリシア兵をまとめて長途の退却,帰国を苦難のうちにやりとげた体験記が前者で,後者は題名のとおり,回想風なソクラテス伝である。…
…喜劇も政治情勢の激変を鋭敏に反映して,それまでの自由な政治風刺や個人攻撃の矛を収める。中にはクセノフォンのように他国に亡命しながらも,追憶談義や冒険旅行記,伝記や歴史小説のごとき新しい文芸ジャンルの開拓に足跡を残したものもいる。またソクラテスの弟子プラトンのように,現実の社会と政治には携わらず,前5世紀のアテナイ文化に対して容赦ない道徳的批判を浴びせ,ついに詩人追放論を公にするものが現れたのも,この時代の極端な一つの反動的動きを示している。…
…クセノフォン作のソクラテス回想録。4巻から成り,2巻までは前399年死刑になったソクラテスを弁護し,宣告を下したアテナイ人たちを非難することを主題としている。…
…古代オリンピックの種目として前680年に4頭立戦車競走が,前648年に競馬競走が加えられ,スポーツとしての馬術が始まった。前4世紀のクセノフォンには騎馬術や馬の調教法の著作があり,彼はこのため〈馬術の始祖〉とされている。ローマ時代を経て,5世紀にはヨーロッパでも蹄鉄(ていてつ)の使用が始まり,馬術はますます盛んになった。…
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