クーリー (苦力)
kǔ lì
旧中国において用いられた,中国人の未熟練労働者に対する呼称。語源については必ずしも明らかでないが,一般的にはタミル語の雇用という言葉を英語でcoolie,coolyと表示し,それを漢字で苦力とあてたとされる。中国人は外来語を,意訳でなく音で表示する場合に,音が相似していて意味内容が適切な漢字をあてる。苦力はその典型例で,苦しい力役に従事する労働者という意味を出している。もともとイギリス人がインド人労働者をさしてクーリーと呼称したが,19世紀南アフリカに在住していたインド人一般をクーリーと軽蔑の意をこめて呼んだ例も知られている。19世紀の中葉,黒人奴隷狩りが廃止されて以後,世界の主要銀鉱山,炭鉱,鉄道建設などに,中国人労働者が広範に雇われ,クーリーと呼ばれるようになる。これが今日2000万~3000万人といわれる海外華僑の先祖である。香港はイギリス領になって以後,この苦力貿易で富を築いた。
日本人が中国人の未熟練労働者を苦力という言葉で呼ぶようになったのは,日露戦争後,旧南満州鉄道とその周辺を支配しはじめてからである。そこが開発されるにしたがって,多くの底辺労働者が必要になった。港湾の沖荷役作業,鉄道建設,炭鉱,ダム建設,道路建設,農業の季節労働などである。日本の企業はその必要労働者を主として河北,河南,山東省から調達した。とりわけ山東省から毎年数十万の出稼ぎ労働者が東北地方へやって来た。彼らを山東苦力と呼んだ。日本側の苦力調達機関として有名なのが,撫順炭鉱,満炭・東辺道会社,大連港湾労働者の一手供給を行っていた福昌公司,国際運輸などである。〈満州国〉になってから,大東公司が満州の政権を代表する調達機関となった。苦力は一般に把頭と呼ばれる組頭の下にあり,この親方制度には数人の苦力を配下に置く小把頭から万に及ぶ労働者を支配する大把頭まであった。親方は労働賃金のみならず,労働者の生活財まで一手に供給し,この面でもピンハネした。新中国成立直後,把頭制度は封建的な労働組織であるとして,解体された。なお,このほかにクーリーと呼ばれた肉体労働者は,18世紀から19世紀にかけて,いわゆるクーリー貿易によって,東南アジア,ハワイ,中南米にも広く送られ,サトウキビ等のプランテーションで過酷な労働に従事していた。
執筆者:小島 麗逸
クーリー
Charles Horton Cooley
生没年:1864-1929
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
クーリー
くーりー
Charles Horton Cooley
(1864―1929)
アメリカの社会学者。初期アメリカ社会学の心理学的社会学派を代表する一人。1894年ミシガン大学を卒業。助教授、準教授を経て同大学教授となる。1918年アメリカ社会学会会長に就任。その主著『人間性と社会秩序』(1902)、『社会組織』(1909)において、「共感的内省」の方法により、個人主義的社会観と集団主義的社会観を調整する「社会的自我」social selfの概念を主張、これを「鏡に映った自我」looking-glass selfと説明した。また、その形成の苗床である「第一次集団」primary groupの機能の重要性を強調したことで有名である。第一次集団とは、家族、近隣、遊戯集団に典型的な対面的かつ親密な接触の場であり、そこで個人は発達の初期に社会的統合を経験し、社会的理想を内面化し、社会的自我が形成される。その後、『社会過程』(1918)において社会変動論にも関心を示し、社会過程における個人の知的側面の変化、とくに金銭的価値の進展に伴う価値の葛藤(かっとう)を重視した。
[大塩俊介 2018年7月20日]
『大橋幸・菊池美代志訳『社会組織論』(1970・青木書店)』
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クーリー
Cooley, Charles Horton
[生]1864.8.17. ミシガン,アナーバー
[没]1929.5.8. ミシガン,アナーバー
アメリカの社会学者。ミシガン大学に学び,1894年同大学で博士号を取得。以後没するまで母校で研究に従事。 1918年にアメリカ社会学会会長に就任。 F.H.ギディングズや A.シェッフレの社会学,J.M.ボールドウィンや W.ジェームズの心理学の影響を受け,社会や制度と個人との相互作用を研究。「第1次集団」「鏡に映る自己」など,のちの社会学に残る有名な概念を提供している。主著『人間性と社会秩序』 Human Nature and the Social Order (1902) ,『社会組織』 Social Organization (09) ,『社会過程』 Social Process (18) 。
クーリー(苦力)
クーリー
ku-li; k`u-li; coolie
中国やインドなどの下層労働者を呼んだ語。もっぱら「下賤」な労働に従事するインドの低カーストの名が語源ともいわれるが,革命前の中国では運輸交通の労働に従事する者が多かった。 19世紀のイギリス領における奴隷制廃止後は,黒人奴隷に代って中国人,インド人がアメリカ大陸,西インド諸島,東南アジアの農園,鉱山などで使役されるようになったが,彼らもクーリーと呼ばれた。形式的には契約労働が多いが,労働条件はきわめて悲惨で,実態は人身売買による奴隷的労働に等しかった。
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クーリー
米国の社会学者。ミシガン大学で長く教授をつとめた。その学説は〈第1次集団〉や,〈鏡にうつる自己〉等の概念によって知られ,集団や組織における人間性の形成に先駆的な業績を残している。主著は《人間性と社会秩序》《社会組織論》《社会過程論》の三部作。
→関連項目社会学
クーリー(苦力)【クーリー】
中国やインドの下級労働者に対する外国人の呼称。英語でcoolie(cooly)。実質的には奴隷同様労働力として売買された。19世紀後半の黒人奴隷解放後,欧米の植民地における需要が増大し,クーリー貿易といわれるほど大量に広東などからキューバやパナマに送られた。
→関連項目マリア・ルース号事件
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クーリー
生年月日:1864年8月17日
アメリカの社会学者
1929年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のクーリーの言及
【近隣集団】より
…居住の近接性を契機として形成される集団。アメリカの社会学者C.H.クーリーは第1次集団の具体例として家族,遊戯集団とともに近隣集団を掲げ,人類の集落の歴史上,この近隣集団がつねに個人の感情交流と相互扶助の場となっていたと説いている(《社会組織》1909)。しかし,彼は現代アメリカではしだいに崩壊し,とくに都市において近隣は単に地理的空間の問題にすぎない場合も生じてきていると指摘している。…
【社会心理学】より
… 20世紀のアメリカでは,経験的方法の土台の上で心理学的傾向の強い研究が隆盛をみる。その先駆としては,コミュニケーションや相互作用を重視して自我の形成を論じたC.H.クーリーやG.H.ミード,ポーランドからの移民の実証研究にもとづいて価値,態度(ことに状況規定)と社会行動とのかかわりに照明をあてたトマスW.I.ThomasとF.ズナニエツキらがあげられる。また本能論衰退後に盛んになる行動主義の説は,実験的研究を促進するほか,行動に及ぼされる後天的な習慣や環境要因の重要性に注意を喚起した。…
【移民】より
… 1807年,イギリスで奴隷貿易廃止法が成立し,19世紀前半から半ばにかけて奴隷制度そのものもイギリス,フランス,アメリカ合衆国で廃止される。新世界のみならず,オーストラリアや南アフリカなど世界各地におけるヨーロッパ諸国の植民地で,黒人奴隷の解放によって不足した労働力を補ったのが,インドや中国などから雇い入れられた[クーリー](苦力)であった(インドの移民については〈[印僑]〉の項を参照)。アメリカ合衆国でも19世紀後半,中国人移民が増加し,大陸横断鉄道の建設などに従事した。…
【印僑】より
…印僑の移住時期と移住地は世界の産業変動と密接に関連している。初期の移民は18世紀末にはじまるが,イギリス植民地の開拓に従事し,クーリーとよばれた。1830年代に砂糖生産が拡大すると,その労働力として西インド諸島,フィジー,マレー半島の各地に徴募された。…
※「クーリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」