翻訳|sociology
sociologie は古くは「生態学」「交際学」などとも訳された。
1960年代後半から70年代前半にかけて,西欧社会学界(日本を含む)は厳しい批判と真摯(しんし)な内省を体験し,かつてないほどの分裂と混迷に陥った。ある者はこのような混沌状況の出現をもって〈(西欧)社会学の危機〉と呼び,またある者は〈社会学のアイデンティティ喪失〉と名付けた。それから10年経った80年代前半の今日,社会学の混沌と危機はまだ終息していない。
もともと,社会学は社会諸科学のなかでも〈遅れてきた学問〉であるだけに,学の基本的性格をめぐっての論争や対立はけっして珍しいものではない。それどころか,互いに理論的立場を異にする構造-機能主義者R.K.マートンと超弁証法的社会学者G.ギュルビッチをして,〈豊饒(ほうじよう)なる不毛性〉といわせたほどまでに,社会学における論争は盛んだった。それは,なにも1940年代以前の〈前パラダイム段階〉における社会哲学的色彩の強い論争のみに限らない。T.パーソンズやマートンの努力によって,構造-機能主義的パラダイムがいわゆる〈科学的社会学〉として学界に君臨するようになった40年代以降においても,その天蓋のような地位にあえて挑戦する努力は絶えなかった。なかでも,フランクフルト学派の〈批判的社会理論〉とC.W.ミルズの〈新社会学〉は,60年代から70年代にかけての批判と内省の潜流となったものである。しかし,それらの論争や対立も,総体としての社会学界を震撼(しんかん)させ,〈社会学の危機〉と呼ばれるほどの衝撃的な事態を招来するにはいたらなかった。
これに対して,1960年代から70年代にかけての批判と内省が,個々の社会学者をして新たなアイデンティティの模索に駆り立てるほどの知的衝撃力を発揮したのは,それらが従来の批判や内省には欠如していたメタ科学次元での根源的な省察に支えられていたからである。すなわち,こうした批判や内省の主導者的役割を果たしたA.グールドナーに典型的にみられるように,社会学の自己探究はこの科学の〈下部構造〉,とりわけその〈領域仮説〉についての存在論的,認識論的,人間学的検討から開始し,概念,対象,問題,方法等の科学的検討を経て,最後には個々の社会学者の〈感情の構造〉や〈個人的現実〉にまでその批判精神が回帰せねばならぬという,おそろしく根源的な性格をもっていた。
だからといって,社会学の基本理念やそれに導かれた研究領域への関心やコミットメントが,社会学者の間で消滅したわけでは毛頭ない。コントの《実証哲学講義》によって社会学という学名が採用されて以来今日にいたるまで,そのニュアンスや力点に若干の相違はあるにしても,この学問に携わってきた者たちの基本的理念が〈個人と社会〉の関係を解き明かすことにあったことはいうまでもない。〈個人〉が主体,人間性,パーソナリティ,行為主体等の表現をとり,〈社会〉が集合体,全体社会,国民社会等の表現に変わってきているとはいえ,共通している問題関心は〈社会によってつくられる個人〉と〈個人によってつくられる社会〉という相補的関係のメカニズムを解明することにあった。その場合,〈社会〉が〈個人〉を超越しかつそれに対立する外在性と拘束性に力点をおく立場と,〈社会〉が〈個人〉的行為の集合的所産であるとしてその連続性を強調する立場との相違があったとはいえ,両方の立場とも対極を峻拒(しゆんきよ)するのではなく,つねに両極間の緊張と相克の狭間(はざま)にあることを自覚しながら,個人と社会との間の弁証法的関係をその全体性において定式化するというのが社会学的理論化だった。しかも,こうした理論化の背後には,個人の自由や自発性を極大化するとともに,社会の福祉や平等をも極大化するためにはいかなる処方箋をつくればよいかというユートピア的心情がうずいていた。
普通,〈社会本質論〉と呼ばれている社会学の基本理念の確認のうえに立って,社会学はその考察の守備範囲を次のように決めた。まず,分析の基本単位は,個人が意味付与の主体であり,行為の主体であり,他者との関係のなかで生きていることから,〈社会的行為〉と概念化された。次いで,こうした社会的行為が交流し衝突し,やがて間主観性をつくり出していく〈社会的相互作用〉あるいは〈社会過程〉の領域が注目されることになった。ついで,共鳴的,親和的な相互作用のなかで生まれる〈社会集団〉,あるいはその合目的的な課題達成集団である〈社会組織〉の領域に焦点が合わされることになった。そして,以上の諸領域を包括し,統合する社会が,〈社会構造〉あるいは〈全体社会システム〉として概念化され,その階級構造,支配構造,統合と分離などが問題にされることになった。以上が,静態学的分析であるのに対して,動態的側面の考察が課題とされるのが,既存の社会体制の構造的変動を取り扱う〈社会変動〉の領域である。以上,〈社会的行為〉〈社会的相互作用〉〈社会集団〉〈社会構造〉〈社会変動〉という5領域を社会学的構築物に不可欠のブロックに見立てると,ブロックをつなぎ固めるものとしてのセメントが求められねばならない。それが,慣習や法から価値体系や規範的秩序,さらには美学や宗教の世界までも包含する〈文化体系〉の領域である。さきに述べた五つの領域に最後の〈文化体系〉を加えた六つの領域が,これまで社会学者によって合意されている研究の守備範囲といってよかろう。そして,この領域をミクロ次元の〈社会的行為〉から〈社会変動〉まで遡上し,逆にマクロな〈社会変動〉から〈社会的行為〉にまで下降するという往復運動こそが,〈個人〉と〈社会〉との間の弁証法的関係を把握するための不可欠の戦略思考とされてきたものである。このように,一見安定しているかにみえる社会学的構築物が大きく動揺しつつある。
〈自己反省の社会学〉とも〈社会学の社会学〉とも呼ばれるこのような動向が生まれた背後には,社会学の正統あるいは〈通常科学〉を呼称する構造-機能主義と,それへの戦闘的対抗性をあらわにして〈革命科学〉たらんとしているマルクス主義社会学のいずれもが,構造的変化を遂げつつある社会的現実の解明にとって適合性と妥当性を喪失しているという判断があったのである。
脱工業社会あるいは後期資本主義社会と呼ばれる方向に向けての構造的変動が進展していくなかで,とりわけ社会学と有意な関連をもち,〈社会学の社会学〉を刺激したものとしては次のような現象が考えられる。
(1)人間性や社会的行為の分野 政治体制のいかんを問わず,生産主義や業績主義の価値体系が支配しているところでは,〈目的合理的行為〉〈道具主義〉〈労働〉などが称揚され,〈価値合理的行為〉〈表出主義〉〈コミュニケーション〉などは軽視される。しかし,生きがい,アイデンティティ,本来的自己の実現などは,後者のなかにおいてしか求められない。このことを,グロテスクに,だが直截に表現したのが〈対抗文化counter culture〉運動である。また,この運動は,人間が無制限な可塑性をもつ順応動物ではなく,自立と統合へと向かう内的潜勢力をもつものであることを示し,人間性を環境決定論の拘束から解放するための一石を投じた。こうした現実の動向が,ともに道具的・戦略的知識に堕し,適応の管理学に化している観のある構造-機能主義とマルクス主義社会学の双方に対する疑惑と不信をかきたてる一助となったことは確かである。
(2)相互作用と社会過程の分野 成長経済下における〈豊かな社会〉の出現や〈福祉国家〉の成立がプロレタリアートの体制内在化を推し進め,ネオ・コーポラティズムの先兵であるテクノクラートが交渉や商議を通じて問題解決と利害調整を行った結果,階級紛争を代表とする激甚な抗争や葛藤は消滅したかにみえた。アロンRaymond Aron(1905-80)やベルDaniel Bell(1919- )を先導者とする〈イデオロギーの終焉(しゆうえん)〉論は,そうした無葛藤社会,つまり合意社会の到来を予告するものだった。だが,それが願望的思考にすぎなかったことは,その教義が出現して10年も経たぬうちに,各地で激発した新しい抗争,すなわち人種,世代,性,エコロジーなどを争点とする運動によって実証された。しかも,それらの運動は紛争が社会病理現象に矮小化されてはならず,差別や不平等のない公正社会の建設に向かっての積極的動因であることを人々に印象づけた。これに対して社会学のほうはどうだったかというと,〈機能主義的マルクス主義〉の異名をとりつつあるソ連の社会学も含めて,構造-機能主義は,社会システムの緊張処理とシステム維持という社会統制的視点からこの問題を取り扱い,社会変動的文脈における積極的役割については評価しなかった。〈社会学の社会学〉はこうした基本的な価値観の葛藤を内包した運動から裨益(ひえき)された面が多大である。
(3)集団と組織の分野 都市化や大衆社会化の進展によって,共同体的集団が解体され,人々が相互連関を欠く原子的個人に解消されてしまったという詠嘆。成員の欲求充足よりも組織目標の達成のみを追求し,効率や機能の合理性のみを重視する官僚制組織に対する怨嗟(えんさ)。私生活主義と所有個人主義のホーム・グラウンドと化し,公共領域での活動を放棄してしまっている核家族に対する失望。集団と組織の結集原理に対するフラストレーションを聞くようになってからすでに久しい。こういう状況のなかで,従来自由と平等の陰に隠れて第二義的な取扱いしかされてこなかった友愛理念を,それ自体組織目標に掲げた新左翼new leftの運動。これまで意思決定機構から排除され疎外されていた底辺の民衆が,それへの参加を求めるコミュニティ・コントロールの動き。あるいは,閉鎖的な核家族の枠を突破して疑似拡大家族の構成をとるコミューン運動や,土地や家屋を不法占拠して共同で生活管理をするスクォッターsquatterの活動。これらはいずれも〈管理社会化〉や〈一次元社会化〉が進展するなかで,新たなゲマインシャフトを建設しようとする〈自覚的な実験的実践〉だった。こうした〈反組織〉の観を呈する試みが,きわめて精緻な組織理論をもつ構造-機能主義やマルクス主義社会学に受け入れられるはずはなく,とくにオールドレフトはそれらをアナーキズムと断定して峻拒した。しかし,〈社会学の社会学〉は彼らの提起した問題のなかに新しい結集原理の模索があったことを洞察する感受性をもっていた。
(4)階級構造,支配構造,社会構造の分野科学や技術が生産力の構成要素となり,高度の知的労働や管理労働に対する需要が増大するにつれて,新中間階級あるいは新プチ・ブル階級と呼ばれる層が著しく肥大化し,ブルジョアジーとプロレタリアートへの二極分解という古典的定式をいよいよ非適合的なものとみなさせるような事態を生み出してきている。加えて,〈豊かな社会〉と社会福祉政策の進展によって,相対的な生活の安定と満足を付与された労働者階級は,階級闘争という形での要求達成を行うことが少なくなってきている。他方,現存の社会関係の社会的再生産のみならず支配的イデオロギーの文化的再生産をもねらった国家の介入主義的動向はますます強化され,階級闘争の潜勢力はリベラルで革新主義的な行政側の〈危機管理〉装置によって中和化されるにいたっている。さらに,ネオ・コーポラティズムを基本理念とし,計画化と利害調整の専門家たるテクノクラートを配備した今日の〈社会国家〉が,基本的矛盾の顕出を抑止する緩衝装置の役割を果たしつつあることも忘れてはならない。このような後期資本主義社会における階級構造や支配構造の構造的変動への関心をかきたてたのは,生産点ではなく大量消費点の生活世界のなかで浮上した新しい要求,すなわち生活の質,差別反対,個人の実現,参加,人権等の実現をめざす〈新しい社会運動〉だった。反核運動,エコロジー運動,人種的・性的差別反対運動,自主管理運動等は,いずれも国家の計画やその実施への民衆の介入とともに,システムのニーズ,つまり資本蓄積,正当化,社会的均衡という立場からの社会生活の再定義ではなく,上記のような民衆の新しいニーズに基づく再定義をめざすものだった。したがって,それらが社会システム論としての構造-機能主義と対立するばかりでなく,後期資本主義社会の全体構造のなかに生じている新しい矛盾の把握を怠り,スコラ学的教条主義に束縛されているマルクス主義社会学にも〈異議申立て〉をするのは当然である。
(5)体制の危機と変動の分野 福祉国家的装置をもつ後期資本主義社会では,暴力革命はおろか,革命的変動図式そのものの可能性もほとんどなくなっているという判断が一般化している。そしてそれに代わって,漸進的改革の積上げを基盤にした計画的社会変動図式が支配的になってきている。同時にまた,人々は現在が〈一つの時代の終焉,新しい時代の開幕〉に当たることを実感しながらも,全体としての社会がどこに向かおうとしているのかについての明確な知識はもたない。〈脱工業社会〉〈プログラム化された社会〉〈自主管理社会〉等々,代替社会のイメージだけは氾濫している。人々のうえには動揺しつつある過渡期という思いがおおい,危機感のみが高進している。では現代の危機とはいかなるものか。それは資本蓄積や正当性の調達が困難になり,システムの逆機能や解体が起こる経済や政治の次元における客観的過程にとどまらず,文化や人間性の次元における疎外,物象化,アノミー,象徴的相互作用の萎靡等の主体的過程にまで及ぶものである。このような主体性そのものの危機の克服を〈意識の改革〉の方向に求め,〈個人的なものが政治的personal is political〉というスローガンの下に〈意識高揚consciousness raising〉を基本戦略とした新左翼の運動が,歴史と個人という文脈で果たした影響はきわめて大きい。とくに,経済決定論にとらわれていたマルクス主義社会学の内部に,〈文化的マルクス主義〉と呼ばれる批判主義の再生を促した意義は大きい。
こうした社会的背景をもつ〈社会学の社会学〉が隆盛をきわめていくなかで,〈科学的社会学〉の前に異説扱いされていたさまざまなパラダイムが再登場し,互いに自己主張しながら〈マルチ・パラダイム科学としての社会学〉という評価を生み出すまでにいたっている。
すなわち,存在論的反省の次元では,個人実在論=社会唯名論か,個人唯名論=社会実在論かという古典的な対立が,〈社会的行為の社会学〉か〈社会体系の社会学〉かという新しい装いのもとに再燃することになった。これは,社会とは人間による意味構成およびシンボルによって媒介された行為や関係の所産とみなす立場と,社会とは個人に外在し個人を拘束する実体とみなす立場との対立であり,その思想的源流はM.ウェーバーとÉ.デュルケームにまでさかのぼることができる。
次に,認識論次元での反省は,社会学の認識が価値自由のルールにのっとった実証的性格のものであるべきか,それとも〈精神科学〉の伝統に準拠した人文学的性格のものであるべきか,というこれまた古典的な論争のむし返しだった。しかし,社会学の認識関心をもって社会と人間の解放にあるとするJ.ハーバーマスが,人間の意識やエランélan(情動)を重視する主観主義的アプローチを採用するのに対して,イデオロギー的呪縛からの科学の解放を意図するL.アルチュセールが,物性を備えた構造や組織への客観主義的アプローチを主張し,マルクス主義社会学を〈文化〉派と〈科学〉派に分断させたことにみられるように,この問題の根は深い。
次の人間学的次元での反省もまた,古くして新しいものである。人間やその行為を環境の産物とみなす決定論と,人間の自立性や自由意思の社会形成力を重視する主意主義との対立である。ここで興味深いことは,初期のパーソンズが,大恐慌によって発生した中産階級の危機や社会的崩壊を道徳的価値観の鼓吹によって防止するという意図をもって,主意主義的行為論の理論枠組みに立脚していたのに対して,中期以後の相対的安定期においては,持続する秩序やパターンを重視する環境決定主義に傾斜した社会システム論が採用されていることである。
最後の方法論的論争もまた,他の論争と同様に長い歴史をもつ。社会学は自然科学をモデルにした法則定立的科学なのか,それとも精神科学をモデルにした個性記述的科学なのか。前者は数理的モデルや計量的方法を駆使して,社会現象の実証主義的把握をめざすものであり,後者はW.ディルタイに淵源する解釈学的方法を駆使して,日常的生活世界の意味理解に努めるものである。
存在論的,認識論的,人間学的,方法論的反省によって明確になってきたことは,社会学には主観主義的アプローチと客観主義的アプローチが存在しているということだった。このほかに,社会学には社会の本質や社会学の究極的課題をめぐるもう一つ大きな対立がある。それは,社会学が秩序や均衡の維持に専念する学問なのか,それとも紛争や変動を志向する学問なのか,という対立である。R.ダーレンドルフの〈秩序論〉対〈紛争論〉という区分以来,イデオロギー性を色濃くにじませている争点であるが,要するに,その認識関心が安定性・秩序・統合・機能的調整・合意・システム存続等に向けられた社会学か,それとも変革・構造的矛盾・対立・解体・支配的様式・解放等に向けられた社会学か,といういささか単純化しすぎるきらいのある二者択一である。
ビュレルBurrell GibsonとモーガンGareth Morganは,この主観主義-客観主義という軸と規制(秩序)-ラディカル変動(紛争)という軸とを組み合わせて,四つの社会学パラダイムを指摘しているが,これはまさしく〈マルチ・パラダイム科学としての社会学〉という現状の整理図である。すなわち,彼らによって分類された四つの社会学とは以下のとおりである。
(1)機能主義社会学 客観主義的な規制の社会学で,社会実在論的,実証主義的,決定論的,法則定立的な性格をもつ。このなかには,パーソンズを師伝とする社会システム論のほかに,構造-機能主義パラダイムの相対化と具体化を図ったマートンの〈中範囲の理論〉,G.H.ミードに発する象徴的相互作用論,社会過程の核心を行為の交換に求めるブラウPeter M.Blau(1918-2002)一派の社会的交換論,それに批判者によって〈社会福祉国家のマーケット・リサーチ屋〉と揶揄(やゆ)されている膨大な数の応用社会学者たちを含む。ところで,機能主義社会学の中核である社会システム論の理論的特質は,システムの存続あるいはホメオスタシスの達成のために充足すべき機能的要件の理論を整備したことと,社会的相互作用の安定化にとって規範的要素が不可欠であることが主張されている点である。すなわち,大規模で,持続的で自給自足的な社会的相互作用のシステムをもって社会とみなすこの立場にあっては,システムがその内部矛盾によって機能障害を引き起こした場合も,システムのラディカルな変動を回避するためには,適応(A),目標達成(G),統合(I),パターン維持(L)という四つの機能的要件を充足せねばならぬとされる(AGIL図式)。また,社会システム分析の基本的単位である社会的地位・役割にとって中枢的契機をなすものが社会的規範とされ,社会化や統制においてそれが強調されるのもこの立場の特徴である。このように,成員よりもシステムのニーズの充足を先行させ,現存のシステムの維持を第一義とする研究態度が,テクノクラシーに奉仕する管理的社会学という批判を生み出したのもうなずける。
(2)解釈的社会学 主観主義的な立場に立つ規制の社会学で,社会唯名論的,反実証主義的,主意主義的,個性記述的な性格をもつ。この中心をなすのは,日常的な生活世界の意味構造を理解しようとするシュッツAlfred Schutz(1899-1959)を先頭とする現象学的社会学と,この現象学的社会学の理念と社会言語学の方法とを結合して,常民世界の規範的ルールや合理性の構造に接近しようとしているエスノメソドロジーethnomethodologyである。両者に共通する理論的立場の特徴は,それらが観察者としてではなく参加者として社会事象とかかわりをもち,人々の行為や相互作用を不断の意味解釈過程ととらえ,それに理解的方法で迫るという方法と,理論以前の常識がもつ有意性構造や妥当性構造に焦点を合わせ,社会的現実構成の多元性を指摘し,いわゆる〈多元的現実〉の理論を展開していることである。しかし,主観主義的アプローチへの過度の執着は,これらの理論をミクロな次元の現象理解におしとどめ,〈主観的に意図された意味が物性に転化する〉マクロな次元における疎外され物象化された体制構造の問題を看過させることになった。この点で,社会を生み出す人間と逆に社会によって生み出される人間,主体的な生産性と客観的な生産物との間の弁証法的関係を,現象学とマルクス主義との概念的折衷によって解明しようとしたバーガーPeter Berger(1929- )とルックマンThomas Luckmann(1927- )の試みは注目されてよい。
(3)批判社会学 主観主義的立場に立つラディカル変動の社会学で,社会唯名論的,反実証主義的,主意主義的,個性記述的な性格をもつ。しかし,全体性の観念のもとに,主観的世界と客観的世界の統一的把握をめざしてきているいわゆるヘーゲル派マルクス主義と,その理念的継承者であるフランクフルト学派が異論なくこのグループに入るとはいえない。とくに,今日批判社会学の理論指導者と目されるハーバーマスとオッフェClaus Offeは,参加者の内在的視座と観察者の外在的視座との統合,解釈学的・構造主義的分析とシステム論的・機能主義的分析との接合,意味的に構成されている生活世界の研究と自動制御システムにも似たシステム統合との結合をめざしているものであるだけに,それらをここに位置させることには抵抗がある。にもかかわらず,ここで彼らを取り扱うのは,教条主義的マルクス主義との対比を念頭においてのことである。この立場の理論的特徴は,マクロ次元での社会体制の分析から始まり,ミクロ次元での〈コミュニケーション行為〉とその補完物である〈生活世界〉という一般的社会理論の基本的範疇を確定するという道筋をたどっていることである。すなわち,不断に脱商品化していく資本と労働の再商品化という課題を担わされた福祉国家が試みる危機管理の諸政策は,それ自体新たな危機状況を生み出すものだというのが基本的診断である。その根本的原因は,機能主義的理性による規制が強化されればされるほど,〈意味の喪失〉が進行するという〈啓蒙の逆理〉に求められる。ここから,当然のことながら,新しい理性を確立するためには,コミュニケーション行為を回復せねばならぬという基本命題が引き出され,その訓練場である〈新しい社会運動〉が市民社会における〈危機管理〉へのオールタナティブとして称揚されることになるのである。
(4)構造主義的社会学 客観主義的アプローチからするラディカル変動の社会学で,社会実在論的,実証主義的,決定論的,法則定立的な性格をもつ。このうち,最も重要なのは,〈科学的〉マルクス主義の異名をもつアルチュセールやプーランツァスNicos Poulantzas,さらにその強い影響を受けたライトErik Olin Wrightたちの階級論と国家論である。現象を原子論的単位に還元することなく,相互連関する諸要素の組織されたセットとしてとらえるべきだという教え,直接観察可能な社会的現実の背後に横たわる全体構造を把握すべきだという訓戒,さらに構造は深層と表層の多層性をもつという主張,これらはいずれも構造主義理論から継承したものであるが,彼らの真面目は人間主義をもってイデオロギーとみなし,歴史的変動は構造そのものの中に内蔵されている矛盾の把握によってしか求められぬとして,階級と国家を中心にした経験的研究を推進したことである。経済構造,国家構造,国家政策,階級闘争の間の相互規定関係を精緻化し,階級研究を前進させたライトの試み,および国家をもって政治的に中立な利害の調整機関とみなす多元論的国家観,および逆に,国家をもって支配階級の道具とみなす道具論的国家観のいずれをも退け,国家構造をもって資本主義のシステム的拘束や矛盾によって規定されたものとみなし,社会構成体内に存在している力学に研究焦点を合わせたプーランツァスの試み,これらはいずれも構造主義社会学の実証的産出力を証明するものである。
このように,現在,社会学は分散,分離,混沌のただなかにある。そういう状況のなかにあって,すでに現象学的社会学や批判社会学の一部にみられるように,対立するパラダイムとの弁証法的統合を試みる動きも生まれつつある。フリードリックスRobert W.Friedricksの唱える〈弁証法的社会学〉の構想がそれに当たる。しかし,そのためには,アイゼンシュタットS.N.Eisenstadt(1923- )のいう〈分析的相互開放性〉が前提とならねばならない。現在,固陋(ころう)な閉鎖性の殻の中に閉じこもり,異説との対話を回避する者と,オプティミスティックな収斂論にとりつかれている者の両極化が依然進行中であるが,理論はすべて自己の内部の矛盾や変則についての理論的回帰性をもたぬかぎり,ドグマに転化するというグールドナーのことばを胸にたたみこんでおこう。
執筆者:高橋 徹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
社会(文化をも含め)の構造と機能、変動と発展を人間の社会的行為とかかわらせながら、固有の概念・方法を用いて理論的・実証的に究明し、歴史的・社会的現実を貫く法則を明らかにして、現実の諸問題の解決に寄与しようとする社会科学の一部門をいう。
[濱嶋 朗]
ごく広い意味では、社会学は生活の共同という観点から人間の社会生活を研究する学問であるといえるが、人間の社会生活とか生活の共同とはなにかということになると、漠然としてとりとめがないから、その意味をはっきりさせない限り、学問の独自性を保ちえない。ところで、社会生活にはさまざまな機能分野(経済、政治、法、教育、宗教などの生活領域)があり、それらの分野はそのときどきの社会全体を貫く構造原理によって互いに関連づけられ、全体として一つのまとまりを示している。また、各分野を通じて多種多様な集団や制度が欲求充足の手段として形成され、人間の行為と複雑に絡みながら社会構造の中核部分を形づくる一方、内外の諸条件に対応する過程で絶えず変動を遂げていく。そこで、もっと狭い意味での社会学は、集団や制度を媒介的中間項として、要素的な人間の行為と全体的な社会とのかかわり合いを、要素分析と機構分析を有機的に統合しつつ実証的に究明し、この実証的な現実の実態究明に基づいて、行為、集団、制度をひっくるめた社会の構造とその変動を貫く法則を明らかにして、現実の社会生活上の諸問題を解決しようとする。
この課題を解決するために、社会学は行為論(人間論)、構造論、変動論の3部門に分かれて研究を進めるが、もちろんこの3部門の研究分野は相互に密接不可分に関連している。
〔1〕行為論(人間論)においては、社会を構成する要素的な単位である人間とその社会的行為が分析される。人間はその内的な欲求や動機につき動かされて感じ、考え、行動するが、同時にそれはおもに、人間が所属している集団やその規範または社会的期待のもとで行われる。したがって人間は、その欲求充足に際して共通の価値体系や規範・制度に水路づけられ、他から期待された役割を遂行する過程で、それを内面化し、社会的に形成される。その一方で、人間は行為の主体者として周囲に働き返し、社会や集団や制度に変容を強いる。人間論(パーソナリティー論)や行為論の任務は、そのような人間とその社会的行為を分析するところにあるといえる。
〔2〕次に社会構造の分析があげられる。社会構造はさまざまな要素からなるが、集団と制度に大別される。
(1)人間の織り成す社会関係や行為の行われる場面は、大小さまざまの集団の内外においてであるが、家族・村落・都市などの基礎集団、学校・企業・国家などの機能集団、さらには群集・公衆・大衆・階級・階層・民族といった各種の集団の構造と機能、および集団相互間の関係を明らかにするのが、集団論の課題である。集団研究は、これまで社会学の中心的分野をなしていた。
(2)これらの集団やひいては全体社会に通用する価値、規範、制度の体系を、人間の行為や集団との関係で分析することも、それに劣らず重要な課題である。この分野は、いわば社会の文化的側面にあたり、標準化された行為様式としての規範や制度、それに伴う役割期待や社会統制が、人間と集団ないしは社会をつなぐ媒介環としての意味を担い、社会構造を内側から補強する働きをしているので、制度論も集団論に劣らず重要である。
〔3〕第三の分野は社会変動論であるが、これは前述の集団や制度、あるいは全体社会の構造そのものの変動を分析する任務をもつ。とりわけ現代のように変動の激しい社会では、産業化、組織の巨大化(官僚制化)、都市化、核家族化などといった個々の集団や組織、ひいては社会全体の変化の原因、経過、結果を解明することなしに社会生活を理解できないといってよい。それとともに、よりマクロな観点から人類社会の歴史的発展を跡づけ、その変化の趨勢(すうせい)や方向のなかに現代社会をどう位置づけ、将来をどう展望するかも変動論の重要な課題をなしている。
[濱嶋 朗]
以上のように、集団や制度を媒介としながら人間(行為)と社会とのかかわり合いをみていくのが、社会学の課題であるが、社会生活を送る個々の人間は、その欲求充足の必要上さまざまな生活領域にまたがる各種の集団や制度に直接間接かかわらざるをえないから、その対象もいきおい広範多岐にわたり、社会生活の全分野について分析する必要が出てくる。そのため、社会学の対象は拡散し、固有の対象を明確に限定しにくい。そのことが社会学という学問のあいまいさの原因となってきた。しかし、対象は特定されなくても、対象に迫る方法の独自性によって学問は成立しうる。この方法の独自性は、集団と制度に媒介された人間と社会とのかかわり合いを、人間の意識や行動というミクロな次元にまで掘り下げる一方、社会の構造と変動というマクロな次元にまでさかのぼりながら実証的に研究していくところにある。
しかし、よく考えてみると、対象が一見はっきりしないのは、社会学に限らず他の社会諸科学にも当てはまる。というのは、社会生活の各領域(経済、政治、教育、宗教など)は、実際には密接に依存し浸透しあっていて、相互に切り離しえないから、どうしても重なり合う部分を生じるためである。それらの各領域を便宜上、人為的に間仕切りして、経済学、政治学、教育学、宗教学などの縄張りとするのが、これまでの伝統的な行き方であった。そのため、各領域にまたがる集団、制度、行為を中心に研究を進める社会学のアプローチは、どうしても他の社会諸科学と対象の点で重なり合うことになる。社会学と他の社会諸科学とがどう違うのかが問題になるのは、そのような事情による。しかし、対象である社会生活の諸分野は、あらゆる社会諸科学の共有財産なのであり、問題はこの対象に迫る方法の独自性にあるといわなければならない。他の社会諸科学はそれぞれの領域を縦割りにして研究するのに対し、社会学は各領域を横割りにして、そこに働く集団、制度、行為を分析するという方法上の独自性から、社会学は社会諸科学の個別的、専門的な一部門でありながら、しかも同時に各領域にわたる一般的、総合的な認識を目ざすという、一種独特な位置を占めることになる。
[濱嶋 朗]
〔1〕社会学の成立は近代市民社会の確立以後のことである。その端緒は、ホッブズ、ロック、ルソーらの自然法思想に認められるが、イギリスの経験的社会論やフランスの百科全書学派を経て、コントの『実証哲学講義』第4巻(1839)によって、近代市民社会の科学的自己認識としての社会学の体系が樹立された。彼は社会を生物有機体になぞらえて社会有機体説を提唱し、社会学を社会静学と社会動学の2部門に分けた。前者は、社会をその構成要素の相互依存と相互関連からなる有機的秩序とみなし、個人を超えた実体だと考えた。後者は、人類史を人間精神の進歩の歴史としてとらえ、社会発展に関する「三段階の法則」を打ち立て、市民社会を人類史の変動過程のなかに位置づけることによって、社会再組織の方向と方策を探究した。イギリスのスペンサー、ドイツのシェフレ、アメリカのウォードらも初期の社会学を代表する学者であるが、コントとほぼ同様の立場をとっていた。また、初期の社会学は、社会現象のすべてにわたる総合的、包括的な認識を目ざすあまり、社会諸科学の独自性を否定して、その成果を全部社会学のなかに取り込み、社会学を百科全書的帝王科学とみなす総合社会学の立場をとった。
〔2〕しかしその後、社会諸科学の専門化が進み、生物有機体になぞらえて説明する社会理論の粗雑さと百科全書的な内容の空疎さが批判されて、総合社会学は破産し、専門的な特殊個別科学としての社会学を確立しようとする動きが強まった。この動きは、社会の説明原理を生物学から心理学に切り替える方向をたどり、社会現象を「模倣の法則」によって説明しようとするフランスのタルドを経て、心理学的方針にたつ社会学が有力になった。アメリカのギディングス、スモール、クーリー、イギリスのホッブハウスらがこの流れに属するが、とりわけドイツのジンメル、フィーアカント、ウィーゼらの形式社会学が、20世紀初頭の社会学を代表するものであった。この派の社会学が形式社会学とよばれるのは、社会学の独自の対象を社会の内容(経済、政治、教育、宗教など)から切り離し、そこに共通にみられる社会化の形式(上下関係、闘争、競争、分業などの社会過程ないしは社会関係)に求めたからである。その場合、人々の間の心的相互作用を中心に社会過程や社会関係の徹底した心理学的把握を行い、それによって社会学を一個の専門科学として確立することに成功した。しかし、心理学に徹して社会化の形式を追うあまり、抽象的で生産性に乏しい空理空論に陥り、現実から遊離する結果になった。
〔3〕もっともそのころにも、人間の行為の意味連関を追究して、古今東西にわたる経済、政治、宗教などの比較研究を行ったドイツのM・ウェーバーの輝かしい業績や、総合社会学の伝統を受け継ぎ社会学主義を唱えたフランスのデュルケームの業績を無視するわけにはいかない。他方、形式社会学への反動から、社会学にもっと具体的な内容を与え、実践に役だつ現実科学にしようとする気運が20世紀の30年代以後に強まり、ドイツでは唯物史観の影響下で歴史哲学的な色合いの濃い知識社会学(マンハイム、M・シェラー、A・ウェーバーら)が出現し、アメリカでは文化人類学との交流から、社会や文化のありのままの姿を全体関連的にとらえ、実証的に研究する機能主義の社会学が有力になった。
[濱嶋 朗]
現代に入って、とくに第二次世界大戦後、社会学は多彩な展開を遂げ、これまでとはまったく様相を異にするに至っている。
〔1〕第二次大戦後の社会学は、これまで指導的な地位を占めていたヨーロッパ社会学の地盤沈下にかわるアメリカ社会学の躍進によって特徴づけられる。と同時に、アメリカの傘の下で国際社会学会連合を中心とする社会学の国際的な交流と協力が盛んになる一方、従来社会学を異端視してきた旧ソ連その他社会主義国においても「具体的社会学的調査」の名のもとに研究が積極的に進められ、国際的交流がみられるようになった。
〔2〕アメリカ社会学の優位は、従来の抽象的な理論一辺倒の学問から具体的、実証的な調査・研究を重視する傾向を促した。これは、1930年ごろから発達してきた社会調査の技法(とくに実験的・統計数理的方法)がいっそう精密化したためである。この傾向は、プラグマティズムと結び付いて操作主義や自然科学主義の風潮を生み、種々の社会現象を数理的に処理し操作する数理社会学の展開を促した。
〔3〕それとともに、現実の諸問題の解決または調整を目ざす実用化の傾向が目だち、政策科学や管理科学、行動科学や情報科学と結び付いて実践的な応用学ないしは社会技術学としての性格を強く帯びるようになっている。技術、組織、マス・コミュニケーションなどによる人間疎外の深化、産業化・都市化・流動化に伴う社会生活の急激な変化と解体ないしは病理現象の増大に対処すべく企業の労務管理、コミュニティの組織化、消費行動や投票行動の測定と予測、各種の総合的社会計画の策定、社会指標の設定など社会学的知見や技術を応用化して福祉の向上に役だてようとする分野の発達が目覚ましい。
〔4〕これと関連して、現代社会学が当面する諸問題(たとえば、成層と移動、大衆社会とマス・コミュニケーション、官僚制的組織と人間、小集団とリーダーシップ、社会変動と社会計画など)への関心が高まり、また、未来学を含めておもに近代化論やテクノクラシー論の流れをくむ現代社会論(アロンらの産業社会論、ベルやトゥレーヌの脱工業社会論、情報化社会論、ドラッカーらの知識社会論、マルクーゼらの管理社会論など)の盛行をみている。その基調は、資本主義と社会主義がますます似通ってくるとする収斂(しゅうれん)理論であり、またそこにもうかがえるように、マルクス主義の影響力の低下(いわゆるイデオロギーの終焉(しゅうえん))も否めない。
〔5〕一方、社会学の研究分野はこれまでになく拡大し多様化して、社会生活のほとんど全面にわたるようになったが、それぞれの研究分野のなかでも専門化と細分化の傾向が著しく、社会学の全容はますます見通しがきかなくなりつつある。また、瑣末(さまつ)な経験主義や没イデオロギー的な技術主義、誤った調査至上主義に陥る傾向もみられる。マートンの「中範囲の理論」の提唱、ホマンズによる主として小集団研究の膨大なデータからの統一的理論図式の提出、ブラウらの交換理論の発展、パーソンズらによる構造機能主義的な社会システム論の構築、同じくパーソンズの規範パラダイムに対抗するA・シュッツ、H・ブルーマーらによる現象学的なアプローチの提唱(とくにその解釈パラダイムの主張)などが、そのよい例である。
〔6〕他方、専門化と細分化とは裏腹に、隣接諸科学との交流と協力(いわゆる学際的研究)が一段と活発化し、とくに社会心理学や文化人類学その他の社会諸科学(一部は自然諸科学)と緊密に提携しながら、人間科学や行動科学という新しい総合科学が生まれつつあることも無視できない。これは、従来の総合的社会科学であるマルクス主義の理論体系や問題意識とは異質のもので、それだけに両者の間に論争が展開される素地をもっている。
[濱嶋 朗]
現代社会学が当面する課題は、まずなによりも、なんのための社会学かという原点に立ち返り、深刻化しつつある管理社会的疎外状況からどうしたら人間性を解放できるかという問題意識のもとに、家族、地域、学校、職場、国家などの集団場面における人間と社会とのかかわり方を事実に即してとらえ、単なる現状の糊塗(こと)でも上からの管理や操作の技術でもなく、人間の福祉を向上するための理論と技術を発展させるところにある、といってよいであろう。かつてリンドが「なんのための知識か」と提起した鋭い問いかけは、今日ゴールドナーの自己反省の社会学をはじめとするラディカルな潮流のなかに、よみがえりつつある。
他方、参加革命といわれるように、経営や政治などへの下からの参加によって、労働や管理や社会を人間化し、自主管理と自己決定を実現しようとする運動に対して社会学はなにを提供できるのか、が深刻に反省される必要がある。このことは、没イデオロギー的技術論でも操作的システム論でもない新しい学問への脱皮を要求する。このことはまた、社会科学の巨匠であるマルクスとM・ウェーバーがかつて提起した問題を、理論的にも実践的にもどう乗り越えるか、という社会科学全体の問題につながる。そうした観点から、社会の構造と変動についての理論を打ち立て、将来の科学的展望とその実現手段を提供する姿勢が、社会学に望まれているということができる。
[濱嶋 朗]
『清水幾太郎著『社会学講義』(1950・岩波書店)』▽『岩井弘融著『社会学原論』(1972・弘文堂)』▽『福武直監修『社会学講座』全18巻(1972~76・東京大学出版会)』▽『R・K・マートン著、森東吾他訳『現代社会学大系13 社会理論と機能分析』(1969・青木書店)』▽『T・パーソンズ著、佐藤勉訳『現代社会学大系14 社会体系論』(1974・青木書店)』▽『福武直・濱嶋朗編『社会学』第2版(1979・有斐閣)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新