デジタル大辞泉 「グスタフ」の意味・読み・例文・類語
グスタフ(Gustav)
(2世)[1594~1632]スウェーデン王。在位1611~1632。の孫。デンマーク・ロシア・ポーランドと戦い、領土を拡張して北欧第一の強国とした。三十年戦争に介入、新教徒から「解放者」と敬愛されたが、リュッツェンの戦いで戦死。「北方の獅子」とよばれた。グスタフ=アドルフ。
(5世)[1858~1950]スウェーデン王。ノルウェーの独立を支持。第一次、第二次の両大戦では中立を守った。
スウェーデン王(在位1611~32)。グスタフ・アドルフGustav Adolfともいう。グスタフ・バーサの孫。17歳で親政をとり、名宰相オクセンシェーナと協力して中央・地方行政を整備し、軍隊組織を強化し、貴族院を設置して貴族支配を確立した。経済分野ではオランダ人を招いて外国資本の導入を図り、関税、物品税を課して貨幣経済を促進した。またウプサラ大学に王室領を寄贈して学芸の振興にも努めた。さらに法律も整備して各主要都市に控訴裁判所を設けた。外交では、父王の開始した対デンマーク、対ロシア戦争を講和で切り抜け、続行中の対ポーランド戦争に総力を結集し、リガ、リボニアをはじめ、ダンツィヒ(現グダニスク)を除く大半を占領し、1629年に休戦を果たした。翌年ポメラニアに上陸し、三十年戦争に介入することになった。31年ブラティフェルトの戦いで大勝し、その後新教徒の救世主としてドイツ各地で皇帝軍と戦ったが、リュッツェンの戦いで戦死した。英主として内政、外征で数多くの輝かしい業績を残し、「バルト海帝国」への道を開いた。
[清原瑞彦]
スウェーデン王(在位1771~92)。前王時代に王権が弱体化し、二大貴族勢力の政権争いが続いたが、1772年に無血クーデターを成功させ、王権を奪回した。啓蒙(けいもう)的君主として、死刑の緩和、拷問の廃止、出版・宗教の自由、ユダヤ人の国内居住などの承認を行い、また財政改革も行った。少年時代に高名な文化人から美学、歴史学、文学の教育を受け、文芸に深い関心を寄せた。戯曲、歌曲を創作するなどとくに演劇を愛好した。芸術院、音楽院、歴史・考古学院を創設し、学芸を保護したため、著名な科学者、文人が輩出した。治世後10年ごろから王権の伸展を嫌う貴族と対立し、また焼酎(しょうちゅう)の専売制を導入したため国民とも離反した。そのため内政から国外に目を向け、88年にロシアに宣戦したが、将校の反乱をみた。これを即座に鎮圧し、同年のデンマークの侵略を農民軍とともに闘い、反対貴族を抑えて絶対王政を回復した。しかし、反対派貴族に仮装舞踏会で撃たれたのが原因で死去した。
[清原瑞彦]
スウェーデン王(在位1523~60)。グスタフ・バーサGustav Vasaともいう。バーサ王朝の開祖。長年続いたデンマーク支配から、リューベックの支援を得て農民軍とともに祖国を解放した。即位後、教会領を没収し、教会を国王の管轄下に置くなどして宗教改革を断行した。また、低貴族による代官制を採用して行政改革も行った。1533年に、リューベックの同国内での特権を廃止し、スウェーデンの商人を保護した。急激な宗教、社会変革に反目した農民はたびたび一揆(いっき)を起こしたが、これをすべて鎮圧し、国の安泰を図った。長年の戦争、動乱で疲弊した経済の振興のため、農業、商業、鉱山業の改善に努めた。さらに国力を安定させるために国王の世襲制を決めた。スウェーデンの近代建国の父とされる。
[清原瑞彦]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新