グラント
- ( Ulysses Simpson Grant ユリシーズ=シンプソン━ ) アメリカ合衆国第一八代大統領(在任一八六九‐七七)。南北戦争で北軍の最高司令官となり、戦後、共和党から推されて大統領に就任。明治一二年(一八七九)日本を訪れた。(一八二二‐八五)
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グラント
Ulysses Simpson Grant
生没年:1822-85
アメリカの南北戦争中の北軍最高司令官,第18代大統領。在職1869-77年。オハイオ州に生まれる。1843年ウェスト・ポイント陸軍士官学校を卒業,対メキシコ戦争に際して勇猛さで名をあげた。54年から一時軍隊を離れ,ミズーリ,イリノイ両州で農業,不動産業などに従事した。南北戦争が勃発すると,大佐としてイリノイ歩兵志願兵部隊を指揮,その徹底した戦いぶりで〈無条件降伏のグラント〉というあだ名を得た。まもなく准将となり,ビクスバーグ,チャタヌーガの戦で勝利を収め,リンカン大統領の信頼を獲得,64年3月に連邦軍最高司令官に任命された。優れた戦略家であり,南北戦争の近代的全面戦争としての性格を理解していた彼は,圧倒的な力を集中してあらゆる機会に南軍をたたき,65年4月9日,ついに疲れ切ったR.E.リーとその軍隊をバージニア州アポマトックスで降伏させた。英雄となった彼は,68年大統領選挙で急進派が支配する共和党によって大統領候補に推され,当選した。大統領としては,米英間の漁業紛争および南北戦争中の補償問題をほぼ解決したワシントン条約の締結など,外交面で実績をあげ,内政でも行政改革に着手するなど見るべきものがあったが,南北戦争後の経済発展期にあって,クレディ・モビリエ事件のように,政府と私企業間の不正・腐敗が続出し,無能政治家の名前を歴史に残した。大統領任期終了後の79年,世界旅行の途中,日本を訪れた。
執筆者:井出 義光
グラント
John Graunt
生没年:1620-74
ロンドンに生まれ,商人であったが,著書《死亡表に関する自然的および政治的諸観察》(1662)によって,統計学の創始者の一人に数えられる。本書は,当時教会が毎週発表していた,埋葬届に基づく死亡表や出生記録を分析して,人間の出生,死亡に統計的規則性が存在することを提示したものである。当時まだ組織的な人口調査は行われていなかったので,これは人口統計学における画期的発見であったのみならず,大量現象のなかに存在する統計的法則性を初めて指摘したものとして,統計学史上重要な意味をもっている。彼の主著であるこの本については,《政治算術》の著者W.ペティの協力があったともいわれている。
執筆者:竹内 啓
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グラント(John Graunt)
ぐらんと
John Graunt
(1620―1674)
政治算術political arithmeticの創始者。ロンドンで小間物商を営み、毛織物商組合員の特権をもつ富裕な商人であったが、市民革命の際には議会軍の将校として活躍した。その間、W・ペティと知り合い、ベーコンの思想に共鳴する2人は、社会現象も自然現象と同様に数量的観察によって合則性を明らかにしうるものとし、相協力して社会経済の数量的研究を行うこととなった。これが政治算術であり、経済学と統計学との未分化の段階での源流をなすものである。彼の主著『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』Natural and Political Observations Mentioned in a Following Index, and Made upon the Bills of Mortality(1662)は、当時のイギリス人口の急激な変動の諸要因を、埋葬や洗礼に関する資料を基に分析したものであるが、その手法は近代的統計的研究方法や人口学的手法の先駆をなすものとなった。この著によって彼の名声は国の内外に高まり、イギリス王立協会の会員にも推薦されたが、1666年のロンドンの大火で家産を失い、晩年は不遇であったといわれる。
[木村太郎]
『久留間鮫造訳『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』(『統計学古典選集Ⅲ』所収・1941・栗田書店)』▽『松川七郎著『ウィリアム・ペティ』増補版(1967・岩波書店)』
グラント(Ulysses Simpson Grant)
ぐらんと
Ulysses Simpson Grant
(1822―1885)
アメリカ合衆国第18代大統領(在任1869~77)。4月27日オハイオ州に生まれる。陸軍士官学校卒業(1843)後、軍隊に勤務、その間にメキシコ戦争に従軍。退役後、農業、不動産業を営み、のちに父親の革製品業を助けた。南北戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、大佐としてイリノイ州義勇歩兵連隊を率いた。戦場での定石を破る強引な戦いで数々の武勲をあげ、1864年北軍総司令官になり、翌年アポマトックスにおいてリー将軍の率いる南軍を降服させて、南北戦争終結の大きな契機をつくった。戦後、陸軍臨時長官に任命された。68年の大統領選挙に共和党から出馬し当選、南部再建政策を、北部産業資本の利害を推進する共和党急進派に近い立場から遂行した。しかし2期目(1873~77)には南部改革の熱意はしだいに衰え、贈賄汚職事件も起こった。引退後、世界一周旅行の途中日本を訪問(1879)、琉球(りゅうきゅう)問題について日中間の調停を試みた。その後破産したが、回顧録を書き、鉄道会社社長に就任し、ふたたび財産を築いた。85年7月23日死去。
[竹中興慈]
グラント(Cary Grant)
ぐらんと
Cary Grant
(1904―1986)
アメリカの映画俳優。イギリスのブリストル生まれ。祖父が俳優であったため演劇に興味をもち、渡米してニューヨークの舞台を経て1932年に映画界に入る。初期は平凡な二枚目であったが、しだいにイギリス風の洒脱(しゃだつ)な風格をもつ二枚目大スターとなった。代表作に『コンドル』(1939)、『フィラデルフィア物語』(1940)、『毒薬と老嬢』(1943)、『めぐり逢(あ)い』(1957)、『シャレード』(1963)をはじめ、ヒッチコック監督との『断崖(だんがい)』(1941)、『汚名』(1946)、『泥棒成金』(1955)、『北北西に進路を取れ』(1959)の4作がある。
[畑 暉男]
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グラント
Grant, Cary
[生]1904.1.18. イギリス,ブリストル
[没]1986.11.29. アメリカ合衆国,アイオワ,ダベンポート
イギリス生まれのアメリカ合衆国の映画俳優。本名 Archibald Alexander Leach。長年にわたりハリウッド映画界きっての二枚目スターとして人気を誇った。すさんだ家庭と貧しさから逃れるため,13歳で家出。旅芸人一座の曲芸師となり,1920年に巡業先のアメリカに移住した。1932年パラマウント・ピクチャーズと契約を結び,経営陣からケーリー・グラントの芸名を与えられた。1941年,この芸名を本名とした。1930年代後半から 1940年代初めにかけて,ロマンチック・コメディとアクション・アドベンチャー映画で人気を確立。『ヒズ・ガール・フライデー』His Girl Friday(1940)は,映画史上最高の傑作コメディに数えられる。また,アルフレッド・ヒッチコック監督と組んだ作品群は両者にとって会心作となり,グレース・ケリーとのアドリブの演技が評判を呼んだ『泥棒成金』To Catch a Thief(1955)や,集大成と呼ぶにふさわしい『北北西に進路を取れ』North by Northwest(1959)などの名作を生み出した。アカデミー賞には 2回ノミネートされたが受賞にはいたらず,1969年アカデミー賞名誉賞を受賞している。
グラント
Grant, Ulysses S.
[生]1822.4.27. オハイオ,ポイントプレザント
[没]1885.7.23. ニューヨーク,マウントマックグレゴール
アメリカ合衆国の軍人,政治家。本名 Hiram Ulysses Grant。第 18代大統領 (在任 1869~77) 。南北戦争時の連邦軍総司令官。南北戦争勃発の際,エブラハム・リンカーン大統領の要望により北軍兵士の徴募,訓練にあたり,西部地域の諸作戦を指揮し,1864年3月北軍の総司令官に任じられた。同 1864年5~6月,ロバート・E.リー将軍の率いる南軍をミシシッピ川の線で分断し,リーの軍団をリッチモンド付近のピーターバラに固定させ,1865年4月,リーのピーターバラ防衛線を破ってアポマトックスで降伏させた。南北戦争後,共和党急進派から推されて,1869年大統領に就任。しかし,2期にわたる大統領在任中に政府と実業家との癒着が深まり,不正腐敗が続出した。 1884年以降文筆生活に入り,『センチュリー・マガジン』誌に寄稿した回想録は『グラントの回想録』 The Personal Memoirs of U. S. Grant (2巻,1885~86) として出版された。
グラント
Grant, James Augustus
[生]1827.4.11. ネアン
[没]1892.2.11. ネアン
イギリスの軍人,アフリカ探検家。 1861年以降,友人 J.スピークに同行して,ナイル川の源を求めるのに協力。アフリカの赤道地帯を踏査した。その旅行記が,『アフリカ徒行』A Walk Across Africa (1864) である。 68年エチオピア遠征に参加。
グラント
Grant, Duncan James Corrowr
[生]1885.1.21. スコットランド,ローシーマーカス
[没]1978.5.10. オールダーマストン
イギリスの画家。パリで学んだのち,1913~19年ブルームズベリー・グループの代表者の一人となる。 R.フライとともにイギリス画壇に後期印象派を導入した最初の画家の一人とされている。
グラント
Grant, Sir Francis
[生]1803
[没]1878
イギリスの画家。細密画法で狩猟を題材とした多くの絵を描いて名声を博した。 1851年ロイヤル・アカデミー会員,66年同会長。主要作品『2匹のスタッグハウンド犬とウォルター・スコット』 (1831,エディンバラ,国立肖像絵画館) 。
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グラント
英国の俳優。ブリストル生れ。1932年映画界入り。H.ホークス監督のスクリューボール・コメディ《赤ちゃん教育》(1938年)などの洗練されたコメディで人気があったが,A.ヒッチコック監督の《断崖》(1941年)と《汚名》(1946年)でシリアスな側面を見せるようになる。同監督の《泥棒成金》(1955年)と《北北西に進路をとれ》(1959年)では,生来持つ喜劇的な雰囲気に年齢による渋味が加わり,個性的な雰囲気を醸し出した。ほかにA.ヘプバーンと共演したS.ドーネン監督のサスペンス《シャレード》(1963年)など。
→関連項目ヘプバーン
グラント
米国の軍人。第18代大統領(1869年―1877年)。ウェスト・ポイント陸軍士官学校卒業後,米墨戦争で活躍。南北戦争中の1864年に合衆国陸軍総司令官となり,北軍を勝利に導いた。ビクスバーク,チャクヌーガの戦いでの勝利が特に有名。その名声により共和党から大統領に選出されたが,政府内に汚職事件が続発し,悪評をこうむった。
→関連項目グリーリー|リー
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グラント
没年:1885.7.23(1885.7.23)
生年:1822.4.27
アメリカ合衆国18代大統領。オハイオ州生まれ。陸軍士官学校卒。米墨戦争に参加。南北戦争(1861~65)に義勇軍大佐として従軍,勇名をはせ北軍総司令官,大将に累進。臨時陸軍長官を経て共和党から大統領に当選,2期務め(1869~77),在任中,岩倉具視遣外使節一行を接遇。引退後,世界漫遊の途,明治12(1879)年日本訪問,明治天皇と会談し国政に助言,日清両国互譲を説き琉球問題を斡旋し,翌年の北京会商に導く。<参考文献>国民精神文化研究所『グラント将軍との御対話筆記』,ヤング著宮永孝訳『グラント将軍日本訪問記』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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グラント
Ulysses Simpson Grant
1822.4.27~85.7.23
アメリカの軍人。第18代大統領(共和党,在職1869~77)。1846~48年の米墨(対メキシコ)戦争で活躍。南北戦争の勲功により北軍総司令官に任じられる。68年に軍事的名声を背景として大統領に当選。退任後の79年(明治12)世界一周旅行の途中で日本に立ち寄る。8月10日に浜離宮で明治天皇と会見し,憲法制定・国会開設・条約改正などの問題につき進言。琉球帰属問題でも日清間の調停を試みた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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グラント Grant, Ulysses Simpson
1822-1885 アメリカの軍人,大統領。
1822年4月27日生まれ。南北戦争で北軍総司令官をつとめ,のち陸軍大将。1868年18代大統領(共和党)となる。引退後,世界歴遊中の明治12年訪日し,明治天皇と会見,琉球の帰属問題について日本と清(しん)(中国)間の調停をおこなった。1885年7月23日死去。63歳。オハイオ州出身。ウエスト-ポイント陸軍士官学校卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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グラント
Ulysses Simpson Grant
1822〜85
アメリカの軍人・政治家。18代大統領(在職1869〜77)
オハイオ州の生まれ。南北戦争のときの北軍総司令官。1879年世界旅行の途中,日本にたちより,琉球帰属問題について日・清両国間に仲介の労をとろうとした。東アジアが列強により植民地化されようとしている危機を説き,日・清両国が同盟を結ぶことさえ勧告した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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グラント
Ulysses Simpson Grant
1822〜85
アメリカの第18代大統領(在任1869〜77)
アメリカ−メキシコ戦争で活躍し,南北戦争には北軍総司令官となって南軍を降伏させた。その名声により共和党から大統領に当選し,戦後処理にあたったが,資本家にあやつられ,金権政治をもたらし,不評を買った。引退後来日し,琉球問題で日本と清朝の調停を行った。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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グラント
Ulysses Simpson Grant
1822~85
アメリカの軍人,第18代大統領(在任1869~77)。南北戦争中,指揮官として頭角を現し,1864年合衆国陸軍総司令官となり,戦争を勝利に導いた。その名声により大統領となったが,政治家としては無能で,悪評を被った。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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グラント
生年月日:1620年4月24日
イギリスの統計学者,商人
1674年没
グラント
生年月日:1808年7月22日
イギリスの軍人
1875年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のグラントの言及
【南北戦争】より
…リー将軍は62年春北部に侵入したが,9月半ばアンティータムの戦で阻止された。早くから北軍に有利に展開した西部戦線では,北軍はオハイオ川から南下してミシシッピ川流域に入ったが,近代戦の性格を理解する[U.S.グラント]将軍が西部戦線の指揮をとるに至って戦局は急速に展開し,63年末北軍はテネシー州のチャタヌーガに入った。東部では再び北部に侵入したリー将軍を迎えうって,63年7月1~3日[ゲティスバーグ会戦]が行われた。…
【公害】より
… イギリスは暖房などの燃料に石炭を使用し,とくに首都ロンドンが大気汚染を起こしやすい地形であったため,早くから公害問題に悩まされていた。17世紀半ばには,有名な統計学の始祖J.グラントは,《死亡表に関する自然的および政治的諸観察》(1662)の中で,ロンドンの死亡率の高い原因を大気汚染に求めている。 産業革命は工場という〈魔法の杖〉で農村を都市に変えたが,当時の労働者の居住環境は地獄的なものであった。…
【生命表】より
…
[生命表の歴史]
最も古い生命表はローマ帝国のウルピアヌスDomitius Ulpianusが364年に作成したといわれる年齢別平均余命表である。しかし,近代的な意味で初めて生命表を作ったのは,統計学の一大潮流の一つであるイギリスの政治算術学派の生みの親でもあるJ.グラントであるといわれる。彼は1662年《死亡表に関する自然的および政治的諸観察》を公刊した。…
【統計学】より
…いずれも17世紀にそれぞれイギリス,ドイツ,フランスで生まれたものである。統計そのものの作成は古く古代ローマあるいは古代中国にまでさかのぼることができるが,統計的な数字を用いて社会の客観的な認識が可能になることを説いたのが[W.ペティ]であり,出生・死亡について法則性があることを実際に示したのが[J.グラント]であった。彼らの方法は政治算術と呼ばれる。…
※「グラント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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