日本大百科全書(ニッポニカ) 「グリム」の意味・わかりやすい解説
グリム(兄弟)
ぐりむ
Brüder Grimm
兄ヤーコプJacob Grimm(1785―1863)、弟ウィルヘルムWilhelm Grimm(1786―1859)ともにドイツの説話学の創始者。『グリム童話集』で有名。ヤーコプは古典語とゲルマン語の間にみられる子音対応に関する「グリムの法則」でもよく知られている。この2人の下に3人の弟と妹1人がいる。ヘッセン王国のハーナウで生まれる。1791年、父が地方裁判所の判事に栄転したためシュタイナウという村に移住。裁判所の2階が家族の住居となる(現在この建物はグリム博物館となっている)。5年後、父が45歳で病没。2年後、ヘッセン王国のカッセルの宮廷の女官長をしていた伯母ヘンリエッテが、兄弟を引き取り、ギムナジウム(9年制中学校)に就学させる。1802年、ヤーコプはマールブルク大学法学部に入学。翌1803年、ウィルヘルムも同学部に入学する。大学ではフリードリヒ・カール・フォン・サビニー教授から強い影響を受け、古代ゲルマンの文学や言語、法律、伝説、メルヒェンに興味をもった。またサビニーを通じてロマン派の詩人クレメンス・ブレンターノやアヒム・フォン・アルニムらと知り合い、影響を受ける。
1812年、アルニムの勧めで『子どもと家庭のメルヒェン集』を刊行。1815年その第2巻を刊行。以後1857年の第7版まで、主としてウィルヘルムが手を入れて改訂版を出す。ヤーコプは、1807年から、ドイツを占領したフランスから指名されて王になったジェロームJérôme Bonaparte(在位1807~1813)の軍政府書記、王室図書館員として働く。ナポレオン敗退後は、ウィーン会議にヘッセン王国使節団員として参加。1829年、兄弟ともにハノーバー王国のゲッティンゲン大学に招かれる。1837年、新王が進歩的憲法を破棄したため、兄弟は同僚5教授とともに、王に抗議書を提出するが、逆に大学を追放される。カッセルに亡命した兄弟を救うべく、同僚・友人たちの努力で『ドイツ語辞典』の編集が始まる(1838)。この辞典のF項なかばでヤーコプは没したが、作業は後輩に受け継がれて進み、第二次世界大戦後も東西ドイツで共同して編集され、1961年に完結した。
1840年、兄弟そろってプロイセン王国のベルリン大学教授に招かれ、王室学士院会員となり、晩年はベルリンで過ごした。
兄弟は、口承文芸学分野では、メルヒェンのほかに『ドイツ伝説集』(1816、1818)を出した。法律学分野では、ヤーコプが『ドイツ法律古事誌』(1828)、『慣習法令集』(1840~1863)、語学分野ではヤーコプが『ドイツ語文法』(1819~1837)、古代・中世文学分野では、兄弟で『古エッダの歌』(1815)、ウィルヘルムが『古代デンマークの英雄歌謡』(1811)、『ローラントの歌』(1838)、『韻の歴史』(1851)などをそれぞれ発表した。
[小澤俊夫 2018年6月19日]
グリム童話集
グリム兄弟はマールブルク大学在学中に、メルヒェンや伝説に興味をもち始め、1807年には聞き書きを始めた。1810年にはブレンターノの求めに応じて約50編の手稿を送った(この手稿は後年ブレンターノの遺品のなかに発見され、初版以前の姿を示す貴重な資料となった)。1812年、アルニムの仲介で、ベルリンのライマー社から『子どもと家庭のメルヒェン集』Kinder- und Hausmärchen der Brüder Grimm第1巻(87話)を出す。兄27歳、弟26歳という若い時期の仕事だが、そこには、小さく無名の庶民の文化への愛がにじみ出ている。そのころの語り手のおもな人は、近所の薬屋ビルト家の娘ドルトヒェンDortchen Wild(1793―1867。『おいしいおかゆ』『歌う骨』)とグレートヒェンGretchen Wild(1787―1819。『マリアの子』『ネコとネズミの仲間』)、ハッセンプフルーク家の娘マリーMarie Hassenpflug(1788―1856。『いばら姫』『白雪姫』『親指小僧』)とジャネットJanette Hassenpflug(1791―1860。『赤ずきん』『コルベスさん』)であった。1813年、カッセル郊外の仕立屋の妻フィーメニンDorothea Viehmann(1755―1815)と知り合い、ここで初めて農村の年寄りの語りを直接聞き書きすることになった(『ガチョウ番の娘』『もの知り博士』)。またこのころ、ウェストファーレンのハクストハウゼン家の人々からも話を聞いたり、聞き書きを書いてもらったりした(『三人の幸運児』『ブレーメンの音楽隊』)。1815年の第2巻の多くはこれらの人々の話である。
グリム童話の語り手の「マリー」は、ハッセンプフルーク家のマリーばあやとされ、生粋(きっすい)のヘッセン農民であるマリーばあやの語った話であるから、グリム童話集は純ゲルマン的なものと長年解されてきた。ところが近年の諸研究により、同家の長女マリーであることが証明され、同家が16世紀にフランスから亡命したユグノー派の子孫であることから、その娘たちの話はフランスで好まれていた話だったことが判明した。
グリム兄弟は初版以後、各話に手入れをし、また話の入れ替えをしつつ、1857年の第7版に至るのであるが、その手入れは1815年以降は主として弟のウィルヘルムが受け持った。彼は、早い時期に出合ったビルト家などの娘の話は、かなり大幅に書き換えていて、魔女などの悪の性質を強調し、状況描写を増やし、創作の児童文学に近づいたということができる。他方1813年以降に知り合ったフィーメニンやハクストハウゼン家の人々の語ったものにはあまり手が入れられていない。つまり、いい語り手の語りとはいかなるものかを兄弟はよく知っていたといえる。
こうした手入れによって口伝えのメルヒェンからは離れたが、読み物や絵本として、長く子供たちに愛好されるものとなった。
[小澤俊夫 2018年6月19日]
『高橋健二訳『グリム童話全集』全3巻(1976・小学館)』▽『金田鬼一訳『完訳グリム童話集』全5巻(1981・岩波書店)』▽『小澤俊夫訳『完訳グリム童話』全2巻(1985・ぎょうせい)』▽『植田敏郎訳『グリム童話集』全3巻(新潮文庫)』▽『矢崎源九郎他訳『グリム童話集』全5巻(偕成社文庫)』▽『田中梅吉著『グリンム研究』(1947・矢代書店)』▽『高橋健二著『グリム兄弟』(1968・新潮社/新潮文庫)』
グリム(Hans Grimm)
ぐりむ
Hans Grimm
(1875―1959)
ドイツの小説家。若いとき商人として南アフリカで13年を過ごし、その体験をもとに小説を書く。代表作は『土地なき民』(1926)。作品のほとんどが1933年以前に書かれているのに、ナチス文学の代表的作家の一人とみなされるのは、この作品の題名によるところが大きい。しかし、狭小な国の活路を海外植民地に求めた点、ナチスの政策と合致しているとはいえない。
[関 楠生]
『星野慎一訳『土地なき民』(1940~41・鱒書房)』
グリム(Herman Grimm)
ぐりむ
Herman Grimm
(1828―1901)
ドイツの美術史家。W・グリムの長男。ゲーテに深く傾倒し、ベルリン大学における講義草案をもとにした著書『ゲーテ』(1877)は、本業のミケランジェロやラファエッロに関する研究書以上に有名になった。『ゲーテとある子供との文通』(1835)を書いたベッティーナ・フォン・アルニムの末娘と結婚していたこともあり、ゲーテは彼にとってまだ身近な存在であった。
[木村直司]