レーゲンスブルク(英語表記)Regensburg

デジタル大辞泉 「レーゲンスブルク」の意味・読み・例文・類語

レーゲンスブルク(Regensburg)

ドイツ南東部、バイエルン州の都市。ドナウ川と支流レーゲン川の合流地点に位置し、古代ローマ時代から水運の要衝となり、特に12世紀から13世紀にかけて、交通と交易の中心地として栄えた。ドナウ川南岸の旧市街にあるゴシック様式のレーゲンスブルク大聖堂、ドナウ川にかかる12世紀に建造されたドイツ最古の石橋、および対岸のシュタットアムホーフにある旧聖カタリナ慈善病院など、歴史的建造物が多く、2006年に「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。

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改訂新版 世界大百科事典 「レーゲンスブルク」の意味・わかりやすい解説

レーゲンスブルク
Regensburg

ドイツ南東部,バイエルン州の都市。人口12万5236(1999)。ドナウ川に沿い,河港をもつ。電機,化学,金属工業,織物,皮革製造が行われる。古称はラダスボナRadasbona(ラティスボナRatisbona)。古くから集落があったが,ローマの占領後179年城塞と屯営が設けられた。屯営は東西450m,南北530mで,その跡は旧市の町並みからうかがわれる。4世紀にゲルマン人に占領され,535年ころバイエルン族が来住してバイエルン大公の居城となった。670年ころ修道院が,739年司教座が置かれて南ドイツのキリスト教化の中心となった。カール大帝のころ王領となり,王国の集会が開かれ,ここからボヘミアへ出陣した。カロリング朝の崩壊後大公領となり,11世紀には領地が縮小した。レーゲンスブルクの黄金時代は商業の栄えた12~14世紀である。早くから市場が開かれていたが,12世紀にはロシアの商業中心地キエフやノブゴロドへ赴いて東方の産品を買い付ける〈ロシア行き商人〉がおおぜいいた。第2回と第3回の十字軍はここに集結して聖地へ向かった。イタリアとの商業も盛んで,ベネチアのドイツ人商館では同市の商人が首位を占めていた。商人の力と富を示すものは,ドナウ川にかかる長さ330mの〈石の橋〉(1146)や城のような豪邸である。イタリア風の塔のある邸宅が多く,かつては市中に60の塔がそびえていたといわれ,10層の〈金の塔〉はその代表。1245年に帝国都市となったが,14世紀以後ニュルンベルクアウクスブルクの商人に押されて衰退した。1519年ユダヤ人を追放し,42年宗教改革に加担したが,89年にはイエズス会の学校が建てられた。1663-1806年間には帝国議会が市庁舎で開かれた。1809年ナポレオンの攻撃で被害をうけ,翌10年バイエルン領となる。ローマ時代の門,大聖堂ザンクト・ペーター(13~16世紀),ザンクト・エメラム修道院教会(8~12世紀)をはじめとする教会堂,旧市庁舎(14~15世紀),新市庁舎(17世紀)などの歴史的建造物が残る。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「レーゲンスブルク」の意味・わかりやすい解説

レーゲンスブルク
れーげんすぶるく
Regensburg

ドイツ南東部、バイエルン州の都市。レーゲン川がドナウ川に合流する地点に位置する。人口12万5700(2000)。ドナウ川に河港をもち、鉄道・道路の結節点であることから商業都市としての性格が強い。中世を中心とした文化・芸術の遺産が多いことでも知られる。工業はつつましやかであるが、機械、化学、皮革、食品など多岐にわたっており、とくにソーセージの生産はよく知られている。また、バイエリッシャー・ワルト山地への観光拠点でもある。

 ドナウ川に川中島があり、徒渉しやすい地点であることから、紀元前5世紀ごろにケルト人が集落を建設した。古称ラダスボナRadasbona。紀元後179年にはローマ人が渡河地点を確保するために城塞(じょうさい)と屯営を建設したが、4世紀にゲルマン人が占領した。739年に司教座が置かれて南ドイツのキリスト教の中心地になり、788年にはカール大帝の王領となった。12~13世紀が商業のもっとも栄えた黄金時代で、1245年には帝国都市となり、都市自治を獲得した。しかし、14世紀以後、ニュルンベルクやアウクスブルクなどにその地位をとってかわられた。1663年から1806年の間は帝国議会の常設開催地であった。その後1810年にバイエルン領となる。19世紀後半にドナウ川の水運と鉄道によって活気を取り戻したが、工業の飛躍的な発展には乗り遅れた。第二次世界大戦中、連合軍にしばしば爆撃されたが、かつての繁栄を示す中世の建物が生き残り、中世的雰囲気をいまに残している。多くの歴史的建造物が残るが、ザンクト・エメラム修道院(8~12世紀)、ドナウ川に架かる石橋(1135~46)、ゴシック様式のザンクト・ペーター大聖堂(1275~1524)、ドイツ帝国議会が行われた広間をもつ旧市庁舎(14~15世紀)などがある。

[石井英也]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レーゲンスブルク」の意味・わかりやすい解説

レーゲンスブルク
Regensburg

ドイツ南東部,バイエルン州の都市。ニュルンベルクの南東約 90km,ベーマーワルトからのレーゲン川がドナウ川に合流する地点にある。ケルト人の集落に始まり,77年ローマの軍営が設けられ,179年砦が築かれた。530年以後はバイエルン公領(→バイエルン公国)の首都,その後フランク王国カロリング朝の首都となった。南ドイツの商業中心地として 12~13世紀に最盛期を迎え,1245年神聖ローマ帝国の直轄都市となったが,その後は三十年戦争などのため衰退。1810年にはバイエルン王国の一部となった。ドナウ川を年間を通じて大型荷役船が航行できる最終点。皮革,電機,化学製品,食品(ソーセージなど)を産する。聖ペテルス大聖堂(1275~1524)ほか多くの聖堂,バイエルン公宮殿(13世紀),旧市庁舎(14~15世紀),議会場(1350),狭い通りやドナウ川にかかる石橋(1135~46)などがあり,往時を偲ばせる。旧市街は 2006年世界遺産の文化遺産に登録された。ローマ時代の北門ポルタプラエトリアや城壁の一部も残る。人口 13万4218(2010)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「レーゲンスブルク」の解説

レーゲンスブルク
Regensburg

ドイツ,バイエルン州,ドナウ河畔の都市。ローマ時代の要塞が基となり,8世紀に司教座が置かれた。1245年帝国都市となり,しばしば神聖ローマ帝国帝国議会が開かれている。1663年召集の議会は以後解散されないまま1806年の帝国消滅まで続いたので,「永久帝国議会」と呼ばれた。

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百科事典マイペディア 「レーゲンスブルク」の意味・わかりやすい解説

レーゲンスブルク

ドイツ南部の都市。ミュンヘン北東約100km,ドナウ川に臨む。機械,化学,製糖,造船などの工業が行われる。大学(1962年創立)があり,古代ローマ時代の遺跡,多くのゴシック建築がある。中世南ドイツの商業中心。1663年―1806年神聖ローマ帝国の議会開催地。2006年旧市街地と対岸の地域が世界文化遺産に登録。13万6600人(2011)。

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世界大百科事典(旧版)内のレーゲンスブルクの言及

【バイエルン】より


【歴史】

[バイエルン大公国の成立]
 アルプス以北の高原地帯には,紀元前1千年紀の半ば以降ケルト人が住み,ドナウ川流域の大都市マンヒングをはじめ,ここにもラ・テーヌ文化が栄えていた。紀元前15年のローマによる征服以後は,レーゲンスブルクが,ドナウ川以北に進出したゲルマン人に対する要塞都市として,またアウクスブルクが,ローマに通じる街道の要地として発達した。バイエルン部族の名が初めて歴史に登場するのは,ゲルマン民族大移動の末期,6世紀中葉のことであるが,その由来については,ボヘミア方面からこの地に移住したゲルマン人の一派とする説,ゲルマン人と並んで基層としてのケルト人(およびローマ人)を重視する説など,諸説がある。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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