スイスのドイツ系作家で、19世紀ドイツ・リアリズム文学を代表する。チューリヒの木工業者の家に生まれる。5歳のとき父を失い、少年時代を貧困のうちに過ごした。教師排斥運動の首謀者と誤解され、実業学校から放校されたのち、画家を志し、1840年ミュンヘンに赴くが、2年間の苦学のすえに断念。帰郷後、当時スイスに亡命中のドイツの政治詩人たちと交わり、政治詩を書き始め、46年『詩集』を発表。48年チューリヒ州の政府奨学金を受けてハイデルベルク大学に留学。ことに哲学者フォイエルバハの影響を受け、独自の現世的ヒューマニズムに基づく人生観、芸術観の立場を確立した。50~55年ベルリン滞在中に、青年期までの体験に基づく自伝的長編小説『緑のハインリヒ』(1854~55)を完成。スイスの架空小都市の市民生活を、小市民的俗物性を風刺しつつユーモアをこめてとらえた短編集で『村のロメオとユリア』を含む『ゼルトビラの人々』第1巻を書き上げ、新進作家として帰国する。祖国の政治に参画し、あわせて経済的自立のため、61年立候補してチューリヒ州政府第一書記の要職につき、以後15年間忠実に職責を果たす。かたわら中世の宗教伝説をユーモラスな、人間味あふれる物語に仕立てた『七つの伝説』(1872)および『ゼルトビラの人々』第2巻(1874)などを出版。57歳で退職後は文学活動に専念し、故郷の歴史に取材した『チューリヒ短編集』(1878~79)、全面的改作の『緑のハインリヒ』(1879~80)、生涯愛にあこがれながら独身を通した作者が、男女の愛の種々相を円熟した筆で描く短編集『白百合(ゆり)を紅(あか)い薔薇(ばら)に』(1881)、当時の市民社会の病弊を鋭くえぐり出す社会小説『マルティン・ザランダー』(1886)など、後期傑作を次々に発表し晩年まで精力的に創作を続けた。
[杉本正哉]
『道家忠道訳『白百合を紅い薔薇に――原題寓詩』(『世界の文学14』所収・1965・中央公論社)』
アメリカの盲聾唖(ろうあ)の著述家、社会福祉事業家。「三重苦の聖女」とよばれる。6月27日アラバマ州に生まれ、生後19か月で熱病のため、目・耳・口の機能を失った。7歳のときからサリバンAnne Sullivan Macy(1866―1936)によって教育を受け、サリバンの献身的指導と本人の不屈の闘志とにより障害を乗り越え、1904年ハーバード大学ラドクリフ・カレッジを優等で卒業。三重の障害をもって大学教育を終了した世界最初の人となった。彼女の努力と精神力は障害をもつ人々に希望を与え、その多彩な活動によって彼女は〈光の天使〉ともよばれた。1906年マサチューセッツ州盲人救済委員、1924年からはアメリカ盲人協会にもかかわった。アメリカ全土、海外各地に講演旅行を行い、障害をもつ人々の教育、援護のための基金を集め、福祉活動に大きな貢献をした。日本には1937年(昭和12)、1948年(昭和23)、1955年の三度にわたって訪れ、1948年には身体障害者福祉法(1949)の制定の動きに影響を与えた。この来日の記念事業としてヘレン・ケラー協会が創設されている。障害をもつ人々への友、その光ともなった生涯に対しフランスのレジオン・ドヌール勲章(1952)、グラスゴー大学の法学博士号(1932)などが与えられた。著書に『私の生涯』(1902)、『暗闇(くらやみ)から』(1913)、『流れの中で――私の後半生』(1930)などがある。1968年6月1日死去。
[小倉襄二]
『川西進訳『ヘレン・ケラー自伝――私の青春時代』(1982・ぶどう社)』▽『岩橋武夫訳『わたしの生涯』(角川文庫)』▽『J・P・ラッシュ著、中村妙子訳『愛と光への旅――ヘレン・ケラーとアン・サリヴァン』(1983・新潮社)』
スイスのドイツ語作家。チューリヒのろくろ職人の息子として生まれたが,5歳の時父を事故で失い,以後妹と共に母の手ひとつで育てられる。小学校を出て実業学校へ進んだが,1834年にささいな事件で退学処分を受け,それから画家になろうと修業を始めた。40年から2年間ミュンヘンに留学したが,結局十分な成果が得られず失意のうちに帰郷し,画業は諦め文学の道に進む。この波乱に富んだ生い立ちは,後に,母への感謝と悔恨の気持をこめて,自伝的長編小説《緑のハインリヒDer grüne Heinrich》(1854-55)にまとめられた。
文学に転身したケラーは,まず詩人を志し,恋愛詩や政治詩を書いて認められ,《詩集》(1846)を出した。政治詩には,当時チューリヒに亡命していた急進的詩人ヘルウェークやフライリヒラートの影響があり,また当時スイスを二分していたプロテスタント諸州とカトリック諸州との抗争に積極的関心を示し,プロテスタント義勇軍に2度も参加している。1848年にチューリヒ州の奨学金を得て,ドイツのハイデルベルクに留学,ここで無神論の哲学者フォイエルバハの講義を聴き,決定的影響を受けた。50年にベルリンに移り,ここに5年間滞在,苦しい生活を送りながら,少年の人間形成の過程を描く教養小説《緑のハインリヒ》や,スイス人の生活をユーモアをこめて批判的に扱った短編集《ゼルトウィーラの人々》(第1巻1856,第2巻1874)を執筆。61年にチューリヒ州政府第一書記に選ばれ,以後15年間在任,その間はもっぱら政治生活に専念する。退職後文筆生活に戻り,故郷の歴史に取材した《チューリヒ短編小説集》(1878-79),《緑のハインリヒ》の改作(1879-80),恋愛小説集《寓意詩》(1882),時代批判的な長編小説《マルティン・ザーランダー》(1886)をやつぎばやに発表し,ドイツ語リアリズム文学の最高峰と目されるに至った。
執筆者:石井 不二雄
アメリカの女流著述家,社会事業家。アラバマ生れ。2歳時の疾病によって盲,ろう,啞の三重障害者となったが,家庭教師であるアン・サリバンAnne Sullivan Macy(1866-1936)の献身的努力と本人の不屈の自立精神で障害を克服。パーキンス盲学校を経て,ラドクリフ女子大学を1904年に優等で卒業。その後,アメリカ,ヨーロッパ,アジアに講演旅行。それによって集まった基金を,盲その他の障害者の訓練・教育事業のために投じた。その社会的貢献に対してテンプル大学より31年に人文博士,グラスゴー大学より32年に法学博士の称号が授与された。37年以来再三訪日し,それを記念してヘレンケラー協会が設立され,日本の戦後の盲人を含む障害者福祉の発展に大きな影響を与えた。著書は《私の生涯》(1903),《私の住む世界》(1908),《私の宗教》(1940)など多数。
執筆者:小島 蓉子
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…ボルティモアの慈善組織化協会に事務員として勤務する中で社会事業に興味をもち,協会が行っていた友愛訪問が,道徳的基準によって対象をふるいわけている方法に疑問を感じ,科学的処遇技術としてのソーシャル・ケースワーク(個別的処遇技術)を体系化した。リッチモンドのケースワーク論は,家庭教師アン・サリバンAnne Sulliven Macyが障害児ヘレン・ケラーに対して行った社会環境を利用して人格の発展を図る教育方法に学んだところから環境決定論的といわれ,心理主義的な立場にたつケースワーク論に対比される。代表的な著書に《社会診断》(1917)および,《ソーシャル・ケースワークとは何か》(1922)がある。…
※「ケラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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