アメリカの精神医学者。ニューヨーク州に生まれる。1917年にシカゴ医学校で医学博士の学位をとり、各地の病院勤務のあとメリーランド大学で教える。病院勤務中に統合失調症(精神分裂病)患者の処置に成功して、臨床医として有名になった。フロム、ホーナイとともに新フロイト派に属するといわれているが、A・マイヤー、G・H・ミード、サピア、R・F・ベネディクトらの影響が強く、人間関係を重視する社会心理的パーソナリティーの理論をたてた。生前に発表された著書は『現代精神医学の概念』(1947)だけで、その他の著作は死後に彼のノートをもとに編集されたものである。
[宇津木保]
アメリカの建築家。ボストンに生まれ、マサチューセッツ工科大学に学ぶ。卒業後はパリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)への短期留学を挟んで、おもにシカゴで活動を続け、のちにシカゴ派の中心人物となった。シカゴでは、初めダンクマール・アドラーDankmar Adler(1844―1900)のもとで働いたが、まもなくその手腕を買われて、1881年にはアドラー‐サリバン共同建築事務所がつくられた。デザイン分野にその才能を発揮したが、シカゴのオーディトリアム・ビル(1889)は初期の代表作として知られる。サリバンならではの繊細にして躍動的な装飾は、このあと、セントルイスのウェインライト・ビル(1891)、シカゴ博覧会における交通館(1893)、バッファローのギャランティ・ビル(1895)と、個性的な作例を次々に生み出してゆく。彼の主張は「形態は機能に従う」ということばとともに、機能主義的な側面が強調されるが、弟子フランク・ロイド・ライトがくみ取った、詩的で有機的な空間意識を忘れてはならない。晩年は恵まれず、地方の中・小規模の仕事が多かったが、高い完成度を示した。
[宝木範義]
『竹内大・藤田延幸訳『サリヴァン自伝』(1977・鹿島出版会)』
アメリカの代表的な精神医学者。新フロイト派ないし文化学派に属し,正統的な精神分析が生物学的要因を重視したのに対して,社会的,文化的要因の影響を重視し,〈対人関係の学〉としての精神医学を作り上げた。アイルランド系移民の子として,ニューヨーク州で生まれた。ワシントンでC.トンプソンの教育分析を受け,1923年から30年まで,シェパード・アンド・イノック・プラット病院で,当時としてはきわめて先駆的な,統合失調症に対する積極的な精神療法を推し進めた。30年,ニューヨークで開業し,強迫神経症を中心とした診療に従事した。38年には雑誌《精神医学》を主宰し,43年にはウィリアム・アランソン・ホワイト精神分析研究所を設立して,教育と研究に専念した。社会科学,文化人類学との交流も深め,広範な活動をしたが,ユネスコの国際会議出席中,パリで客死した。
彼の理論の基本的特徴は対人関係の意義を重視した点にあり,パーソナリティの形成や精神障害と幼児期の母子間の共感empathyや不安の関係を指摘した理論,医師は患者を客観的対象として観察することはできず,人間関係の中で相互に影響し合いながら観察するのだという〈関与しながらの観察participant observation〉の概念,医師患者間に働く不合理な非現実的心理に注目した〈パラタクシックな歪曲parataxic distortion〉の概念などが広く知られている。生前刊行された著書は《現代精神医学の概念》(1940)だけであったが,死後弟子たちによって,講義記録をもとに,《対人関係の精神医学》(1953)や《精神医学的面接》(1954),《精神医学における臨床研究》(1956)などが刊行された。
執筆者:馬場 謙一
アメリカの建築家。ボストン生れだが,中西部で活躍。19世紀末のシカゴの発展を背景に,高層ビル建築を推進した建築家の一群〈シカゴ派Chicago School〉の最大の指導者。有名な〈形態は機能に従う〉という機能主義建築の定義づけでも知られる。1881年アドラーDankmar Adlerと事務所を開き,オーディトリアム・ビル(1886)で名声を得,ウェンライト・ビル(1891),ギャランティ・ビル(1894)などによりシカゴを中心とする中西部独特の高層商業ビルの様式を確立する。アドラーと別れた後は,カーソン・ピリー・スコット百貨店(1904)以外大きな仕事に恵まれなかったが,ナショナル・ファーマーズ銀行(1907)など小規模ながら独特な装飾豊かな作品を残す。晩年は仕事も少なく,むしろ自叙伝(《Autobiography of an Idea》1923),《幼稚園談義》(1902)などの執筆に力を注ぎ,アメリカらしい建築家と建築の出現を熱心に説いて,F.L.ライトをはじめ若い建築家に大きな影響を与えた。
執筆者:山口 廣
イギリスの作曲家。ローヤル音楽アカデミーやライプチヒ音楽院に学び,1866年ローヤル音楽アカデミー教授,76-81年ナショナル音楽学校校長,71年台本作者のW.S.ギルバートと組んでオペラ《セスピス》を発表して以来,《軍艦ピナフォア》(1878)や《ミカド》(1885),《ゴンドリエ》(1889)などいわゆる〈ギルバート・サリバン・オペラ〉を数多く世に出した。これらは19世紀イギリスを代表するオペラに数えられる。このほか多くの賛美歌,ピアノ曲がある。
執筆者:西原 稔
アメリカのプロボクサー。マサチューセッツ州出身。アイルランド移民の家に生まれる。1878年にプロボクサーとなり,82年にパディ・ライアンを倒し,素手で戦うベアナックルのヘビー級チャンピオンとなった。89年にキルレーンと75ラウンドを戦った試合は有名である。これが素手で争われたヘビー級タイトル戦の最後となった。91年にJ.J.コーベットに敗れるまで王座を保持し,〈偉大なジョン〉〈ボストンの豪勇少年〉と呼ばれた。
執筆者:広畑 成志
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…一方ベルリン風オペレッタはリンケR.Lincke(1866‐1946)の《ルーナ夫人》(1899)に始まり風刺や活力あふれる簡潔なオペレッタが書かれ,第2次大戦後はアメリカのミュージカルの逆輸入によって1948‐65年に130以上ものオペレッタが作曲された。イギリスでも1875年ころからA.S.サリバンが《ミカド》(1885)その他の風刺的作品で評判をとり,彼の作品はニューヨークで上演されアメリカにオペレッタ旋風を送る。V.ハーバートはJ.シュトラウスのオペレッタにならった作品を書いたが,J.カーンの《ショー・ボート》あたりからミュージカルへと移っていった。…
…1860年代に滑稽詩やバーレスク劇を発表し始めたが,最も有名な作品は1871年から96年にかけて上演された14編の音楽劇である。これらはA.S.サリバンが曲,ギルバートがせりふと詞を作ったもので,その多くがロンドンのサボイ劇場で演じられたため〈サボイ・オペラ〉と呼ばれることがある。《軍艦ピナフォア号》(1878初演),《ペンザンスの海賊》(1879初演),《ペーシェンス》(1881初演),《ミカド》(1885初演),《ゴンドラの舟人》(1889初演)などが代表作。…
…イギリスの劇作家W.S.ギルバートが台本と詞,イギリスの作曲家A.S.サリバンが曲を書き,1871年から96年にかけて発表された14編のオペレッタ。サリバンの初期の作品の収益によりドイリー・カートRichard D’Oyly Carteが建てた劇場が1881年にサボイ劇場として開場し,以後はここがおもな上演場所となったため,〈サボイ・オペラ〉の名がある。…
…彼は人格の漸成的発達の理論として八つの年代の発達図式を提示した。新フロイト派に属するアメリカの精神医学者H.S.サリバンの発達理論は認知3段階とそれに対応する言語発達段階から構成される。人格の形成を対人関係の場における経験が決定してゆく過程としてとらえ,人格そのものが人間相互関係の状況の比較的持続するパターンであり一種の仮説的存在にすぎないとみている。…
…いわゆる新フロイト派は,アメリカにおける正統精神分析学派に対する批判者の一群であるが,フロイトの生物学主義的な本能論と決別し,パーソナリティの形成や神経症の発生に関し,文化的・社会的要因を強調する点で共通する。この派に入れられる最大の人物はH.S.サリバンであった。彼は精神分析とはいわず精神医学それ自体が〈対人関係の学〉にほかならぬことを強調し,フロイトの精神性的発達は,子どもと親との対人関係の様態の焦点を示すものであると考えた。…
…その基盤には,開拓者による農村型経済から都市型社会に次第に変貌しつつあったアメリカの経済発展があった。1891年ニューオーリンズで行われたタイトルマッチ,クインズベリー・ルール下での最初の世界ヘビー級チャンピオンと認められたサリバンJohn Lawrence SullivanとコーベットJames J.Corbett(アメリカ,1866‐1933)の一戦が,それまでの果し合い的な見せ物から,スポーツ・ボクシングの興行へと成長する大きな節目となった。圧倒的な人気を誇った豪腕サリバンは,ベアナックル時代そのままの戦法で一撃必倒のパンチを狙い,一方,カリフォルニアのアマチュア・クラブで育った元銀行員のコーベットは,優雅なフットワークと軽快なジャブでこれをかわす。…
…南北戦争前後にはハントRichard Morris Hunt(1828‐95)に代表されるギリシア様式とゴシック様式,ルネサンス様式の折衷が見られた。この傾向を批判的に乗り越えようとしたのが20世紀初頭のL.H.サリバン,F.L.ライトたちの〈シカゴ派〉で,工業技術の進歩を背景に鉄骨構造の商業的高層ビルを発達させ,スカイスクレーパー(摩天楼)の端緒をひらいた。1920年代に入ると消費社会に適合するマーケットからモーテルにいたる機能的な様式が現れ,30年代のWPA計画ではローコストによるハウジングと並行して古典様式や国際様式が出現している。…
…同じウィーンで活躍したA.ロースは〈装飾は罪悪なり〉と断じ,歴史様式からの決別を促した。他方,アメリカのL.H.サリバンは〈形態は機能に従う〉といい,近代資本主義が建築に要求する経済性をとらえ,強い説得力を持って語り継がれた。その後の近代建築家も社会が要求する機能に常に関心を払い,たとえば丹下健三は〈美しきもののみ機能的である〉といい,アメリカのL.I.カーンは〈機能は形態を啓示する〉などさまざまな論の提示がなされている。…
…アール・ヌーボーの代表的作例であるオルタによるタッセル邸(1892‐93)やギマールによるパリの地下鉄入口では,創意に満ちた曲線的モティーフが見られた。同時にアール・ヌーボーの周辺では,〈シカゴ派〉に属するL.H.サリバンが高層ビルの原型を実現しつつあり,グラスゴーではマッキントッシュがオーストリアに影響を与えることになる直線的様式を発展させつつあり,またスペインのガウディは,ゴシック原理に基づきつつ,うねるような曲線を多用した独自の造形を追究していた。北欧やオランダでは中世建築の手づくりの造形を新しく再生させる試みがつづけられ,20世紀に入ってから,〈アムステルダム派〉を形成してゆく。…
…再建にあたり市は中心街での木造建築を禁じ,煉瓦,石,鉄の使用を義務づけ,保険会社の政策もその傾向を助長した。シカゴは建築家にとって絶好の市場となり,のちに多数のスカイスクレーパー(摩天楼)を設計・建築したL.H.サリバンをはじめ多くの建築家をひきつけた。サリバンは73年,シカゴに移住してジェニーWilliam Le Baron Jenneyの弟子となったが,ジェニーは最初の鉄筋建築ホーム・インシュアランス・ビル(1885完成)を建て,シカゴに摩天楼の時代を開く(シカゴ派)。…
…アメリカにおけるポストモダニズムと東南アジアの超高層建築ブーム)である。
[高層建築の誕生]
W.L.B.ジェニーやL.H.サリバンらの建築構造技術者や建築家らは,在来工法であった組積造の建築に代わり,当時開発されたばかりのベッセマー鋼と鋳鉄を柱やはりといった構造部材として採用した,〈シカゴ構造Chicago Construction〉と呼ばれる高層建築をシカゴの町に次々と建設していった。それらは当時実用段階に入り始めていた電動式エレベーターや水圧エレベーターを備えていたため,従来4~5階建てであったシカゴの町のスカイラインを一新した。…
※「サリバン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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