ケルン(英語表記)Köln

精選版 日本国語大辞典 「ケルン」の意味・読み・例文・類語

ケルン

(Köln) (五〇年に古代ローマ植民市コロニア)として建設され、コロニア‐アグリッピネンシスと命名。そのコロニアが転化したもの) ドイツ西部の商工業都市。ライン川中流に臨み、中世にはハンザ同盟に加盟して一三~一四世紀に最盛期に達した。フランス革命のころフランスに、一八一五年以降プロイセンに支配された。

ケルン

〘名〙 (Kern)
① 穀物、やわらかい果実の種、固い殻の中の実。転じて、核心、本質、真髄をいう。〔モダン辞典(1930)〕
② 組織の中心人物。〔アルス新語辞典(1930)〕

ケルン

〘名〙 (cairn) 登山路、山頂などに、道しるべや記念としてピラミッド形に石を積み上げたもの。《季・夏》
※山行(1935)〈石橋辰之助〉「霧深き積石(ケルン)に触るるさびしさよ」

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デジタル大辞泉 「ケルン」の意味・読み・例文・類語

ケルン(Köln)

ドイツ西部、ノルトライン‐ウェストファーレン州の都市。ライン川沿いに位置する。ローマの植民地として建設され、8世紀以降、大司教座所在地として栄えた。代表的ゴシック建築のケルン大聖堂があり、オーデコロンの生産でも有名。フランス語名、コローニュ。人口、行政区101万(2010)。

ケルン(cairn)

山頂や登山路に、道標や記念として石を円錐形に積み上げたもの。 夏》

ケルン(〈ドイツ〉Kern)

中心の部分。核。中核。

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改訂新版 世界大百科事典 「ケルン」の意味・わかりやすい解説

ケルン
Köln

ドイツ西部,ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。フランス語でコローニュCologne。人口96万2507(1999)でドイツ第4位。ライン川下流域の水陸交通の十字路にあたり,EUの心臓部と深く結びついた,商業・工業・文化の中心地。ライン左岸に半円形をなす旧市街は,ローマ時代の遺跡,中央ヨーロッパ最大のゴシック式大聖堂(ケルン大聖堂),数多くの由緒ある教会,市庁舎,市門に過去の面影をとどめ,その郊外と右岸に新市街と港を備えた工業地帯が展開している。連邦と州の行政機関,商業会議所,諸外国の文化会館,名高い体育大学,音楽大学と総合大学,ローマ・ゲルマン博物館,ワルラフ・リヒャルツ美術館がおかれ,世界的商品たるオーデコロン,ドイツ発動機をはじめ各種の重化学・軽工業が立地している。市内では一年中国際的な見本市,さまざまな会議や文化,スポーツ・観光行事が催され,なかでもカーニバルは,ライン地方最大の市民的祭典として知られる。ケルンの名は,紀元50年ローマ皇帝クラウディウス1世がゲルマン人ウビイ族の居住地に建設した植民都市Colonia Claudia Ara AgrippinensiumまたはColonia Agrippinensisの略称Coloniaに由来する。313年司教座が設置され,450年フランク族の支配下に入った。785年カール大帝は司教座を大司教座に昇格させた。881年ノルマン人の劫略に遭って荒廃したが,10世紀に河岸に商人定住区がつくられ,中世都市への発展が始まった。1074年大司教アノーの暴政に対する商人たちの蜂起は失敗したが,1112年市民の宣誓共同体が結成され(異説あり),1288年ウォリンゲン会戦の勝利によって帝国自由都市となり,1475年皇帝の正式承認をみた。13~14世紀には,ハンザ同盟の有力都市としてヨーロッパ各地と通商関係をもち,毛織物業,皮細工,金属工芸など手工業面でも隆盛をきわめ,約4万の人口を擁するドイツ最大の都市となった。しかし富裕な門閥商人の寡頭的市政は,1371年織布工の反乱,96年無血革命を引き起こし,22のギルドからなる新参事会が生まれた。1388年ドイツ最初の都市大学(ケルン大学)が創設され,アルベルトゥス・マグヌス以来の伝統を継承した。16世紀には,反宗教改革の拠点となり,ネーデルラント避難民は追放され,三十年戦争後ハンザ同盟の没落とあいまって都市は衰退に向かった。1794年フランス革命軍に占領されたが,1803年ドイツで初めて商業会議所が開かれ,15年プロイセン王国への編入以降,近代工業の発達,蒸気船の航行,鉄道会社の設立にともない繁栄を取り戻した。三月革命期には,ライン地方の急進的ブルジョアジーと労働者階級の運動の中心地となり,マルクスが《ライン新聞》《新ライン新聞》の主筆として活躍している。80年代から市域の拡大が進められ,1920-25年アデナウアー市長のもとで市壁跡が美しい緑地帯に造成された。第2次大戦で市内は廃墟と化し,戦後の復興はきわめて困難であった。
執筆者:

ケルン(墳墓)
cairn

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百科事典マイペディア 「ケルン」の意味・わかりやすい解説

ケルン

ドイツ,ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。フランス語ではコローニュCologne。ライン川中流の両岸にまたがる河港都市で,商工業の一大中心。主要鉄道の連絡点で,空港もある。機械,車両,食品加工,化粧品,電気機器などの工業が行われる。古代ローマ時代の創設になり,8世紀に大司教座が置かれた。13世紀末自由市となり,ハンザ同盟の主要メンバーとなった。17世紀までドイツ最大の都市であった。ローマ時代の遺跡,ケルン大聖堂のほか多くの文化遺産,ケルン大学(1388年創立)がある。101万7200人(2011)。
→関連項目アウグストゥスブルク宮殿ラインラントレーバークーゼン

ケルン

山岳地方で石を積んで作った塔のこと。ゲーリック語のcarn(堆積)が語源。もともとは,石を積み上げて墓室を覆ったものをいう。近年では,登頂の記念に登降路や尾根・山頂にピラミッド型に積んだ石のことを意味するようになった。迷いやすい尾根などでは,指導標として重要な役割を果たす。→積石塚

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ケルン」の意味・わかりやすい解説

ケルン
Köln

英語,フランス語では Cologne。ドイツ西部,ノルトラインウェストファーレン州,ライン川左岸にあるドイツ第4の都市。前 38年ローマの軍営地,50年ローマの植民地 (コロニア) となり,4世紀に司教座がおかれ,8世紀には大司教座がおかれた。以後歴代大司教の政治的才腕が発揮されて,10~15世紀に繁栄をみ,ドイツ最大の都市の一つとなった。ラインの交通要地を占め,ハンザ同盟の一員として活躍したが,16世紀同盟の衰退とともに経済活動も沈滞。 1815年プロシア領となり,19世紀後半の鉄道の発達に支えられ,工業都市として再び繁栄を取戻した。第2次世界大戦で壊滅的打撃を受けたが,復興。交通 (鉄道,道路) の要地で,商工業が盛ん。ケルン大学,ケルン派絵画の収集で知られるワルラフ=リヒアルツ美術館,ローマ・ゲルマン博物館などがあり,ラインラント地方の文化,芸術の中心地である。工業には伝統的なワイン,織物のほか,鉄鋼,造船,車両,化学 (石油,薬品,ゴムなど) などがあり,化粧水オーデコロン (ケルン水の意) は世界的に有名。市内のケルン大聖堂はゴシック様式の代表とされており,六百余年の歳月をかけて 1880年に完成したもの。人口 99万8105(2010)。

ケルン
cairn

本来はアイルランド語で石で築いた塚をいうが,登山用語では登頂記念,あるいは登降路を示すためにつくられる積み石をさす。大きな石を土台に,ピラミッド状に積む。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ケルン」の解説

ケルン
Köln[ドイツ],Cologne[英,フランス]

ドイツ,ライン地方の都市。起源はローマの植民市コロニア・アグリッピネンシス。795年大司教座が置かれ,大司教は13世紀には選帝侯位を得ているが,都市ケルンは1288年に自立して帝国都市となる。ハンザ同盟にも加盟し,中世末には人口4万を擁してドイツ最大の都市であった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ケルン」の解説

ケルン
Köln

ドイツ西部,ライン川中流にあるドイツの都市
50年ごろ古代ローマの植民都市(コロニア)として建設。ケルンはコロニアの訛 (なま) ったもの。カール1世のとき(785),大司教都市となる。ケルンの大司教には歴代すぐれた政治力のある人物が出,のちに七選帝侯のひとりとなった。市民は経済的実力の充実とともに自治を要求し,大司教と争って,1288年帝国自由都市となった。ケルンの経済活動は遠隔地貿易が中心で,ハンザ同盟の指導的都市の1つでもあった。

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367日誕生日大事典 「ケルン」の解説

ケルン

生年月日:1833年4月6日
オランダのインド学者,仏教学者
1917年没

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