精選版 日本国語大辞典 「ケルン」の意味・読み・例文・類語
ケルン
ケルン
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ドイツ西部,ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。フランス語でコローニュCologne。人口96万2507(1999)でドイツ第4位。ライン川下流域の水陸交通の十字路にあたり,EUの心臓部と深く結びついた,商業・工業・文化の中心地。ライン左岸に半円形をなす旧市街は,ローマ時代の遺跡,中央ヨーロッパ最大のゴシック式大聖堂(ケルン大聖堂),数多くの由緒ある教会,市庁舎,市門に過去の面影をとどめ,その郊外と右岸に新市街と港を備えた工業地帯が展開している。連邦と州の行政機関,商業会議所,諸外国の文化会館,名高い体育大学,音楽大学と総合大学,ローマ・ゲルマン博物館,ワルラフ・リヒャルツ美術館がおかれ,世界的商品たるオーデコロン,ドイツ発動機をはじめ各種の重化学・軽工業が立地している。市内では一年中国際的な見本市,さまざまな会議や文化,スポーツ・観光行事が催され,なかでもカーニバルは,ライン地方最大の市民的祭典として知られる。ケルンの名は,紀元50年ローマ皇帝クラウディウス1世がゲルマン人ウビイ族の居住地に建設した植民都市Colonia Claudia Ara AgrippinensiumまたはColonia Agrippinensisの略称Coloniaに由来する。313年司教座が設置され,450年フランク族の支配下に入った。785年カール大帝は司教座を大司教座に昇格させた。881年ノルマン人の劫略に遭って荒廃したが,10世紀に河岸に商人定住区がつくられ,中世都市への発展が始まった。1074年大司教アノーの暴政に対する商人たちの蜂起は失敗したが,1112年市民の宣誓共同体が結成され(異説あり),1288年ウォリンゲン会戦の勝利によって帝国自由都市となり,1475年皇帝の正式承認をみた。13~14世紀には,ハンザ同盟の有力都市としてヨーロッパ各地と通商関係をもち,毛織物業,皮細工,金属工芸など手工業面でも隆盛をきわめ,約4万の人口を擁するドイツ最大の都市となった。しかし富裕な門閥商人の寡頭的市政は,1371年織布工の反乱,96年無血革命を引き起こし,22のギルドからなる新参事会が生まれた。1388年ドイツ最初の都市大学(ケルン大学)が創設され,アルベルトゥス・マグヌス以来の伝統を継承した。16世紀には,反宗教改革の拠点となり,ネーデルラント避難民は追放され,三十年戦争後ハンザ同盟の没落とあいまって都市は衰退に向かった。1794年フランス革命軍に占領されたが,1803年ドイツで初めて商業会議所が開かれ,15年プロイセン王国への編入以降,近代工業の発達,蒸気船の航行,鉄道会社の設立にともない繁栄を取り戻した。三月革命期には,ライン地方の急進的ブルジョアジーと労働者階級の運動の中心地となり,マルクスが《ライン新聞》《新ライン新聞》の主筆として活躍している。80年代から市域の拡大が進められ,1920-25年アデナウアー市長のもとで市壁跡が美しい緑地帯に造成された。第2次大戦で市内は廃墟と化し,戦後の復興はきわめて困難であった。
執筆者:小倉 欣一
→積石塚
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ドイツ,ライン地方の都市。起源はローマの植民市コロニア・アグリッピネンシス。795年大司教座が置かれ,大司教は13世紀には選帝侯位を得ているが,都市ケルンは1288年に自立して帝国都市となる。ハンザ同盟にも加盟し,中世末には人口4万を擁してドイツ最大の都市であった。
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