ドイツ中部、ニーダーザクセン州の大学都市。人口12万4100(2000)。ウェーザー川の支流ライネ川の谷に位置し、南北方向の主要交通路線がここを通り、中世に商工業都市として栄えた。1737年に大学が設立され、とくに自然科学と医学に優れ、18世紀なかば以来の金属加工、製薬、精密機器、光学機器、電子機器などの工業は、大学での研究により促進された。マックス・プランク(理論物理学者)研究所の本部もここにある。古い市街地にはロマネスク様式やゴシック様式の教会、市庁舎、家屋が多く大学の建物はその中に分散。最近、北と南に新しいキャンパスがつくられ、自然科学、医学、農学などの学部がそこに移った。
[齋藤光格]
記録上は10世紀なかばのグティンギGutingiという村落を起源とするが、都市としては1210年皇帝オットー1世(大帝)による都市法授与をその出発点とする。1235年ブラウンシュワイク‐リューネブルク公国成立と同時にその一都市となり、のち同公国領の大部分を再統合して成立したハノーバー選帝侯国に所属した。この間ハンザ同盟に参加(1351~1572)して最初の繁栄をしるしたが、三十年戦争で没落した。この都市が新たな興隆を迎えたのは、1737年ハノーバー選帝侯ゲオルク2世(イギリス王ジョージ2世)がゲッティンゲン大学を設立した以後で、同大学はベルリン大学創設以前はドイツ第一の大学とされた。またこの地は「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤(どとう))」運動を担ったハイン同盟、自由主義運動の画期となったゲッティンゲン七教授事件(1837)、ドイツ連邦軍の核武装に反対するゲッティンゲン宣言(1957)など、ドイツ史に大きな影響を与えた諸運動の発祥地ともなった。
[岡崎勝世]
ドイツ北部,ニーダーザクセン州の都市。人口12万4775(1999)。953年グティンギGutingiとして史料に初めて登場。1211-12年ごろ都市法を獲得。毛織物製造業によって繁栄し,1351年ハンザ同盟に加入,15世紀には中世都市としての最盛期を迎えた。ゲッティンゲンはニュルンベルクやリューベックのような帝国直属自由都市ではなかったが,1430年以降帝国議会に招かれ,のちには帝室裁判所の費用も負担。16世紀に都市貴族と新興ギルド市民との紛争や宗教戦争で衰退し,1572年にはハンザ同盟を脱退。三十年戦争によって壊滅的な打撃を受けたが,帝室裁判所の費用負担は1662年まで続いた。1737年,ハノーファー選帝侯によってゲッティンゲン大学が開設され,この町は北ドイツの学術・文化の中心地となった。20世紀には物理学者プランク,哲学者N.ハルトマンらが教鞭をとっている。1866年プロイセン領となる。現在は大学のほか,科学アカデミー,マックス・プランク研究所,教育大学など多くの研究教育施設があり,機械,車両,電機,製紙,印刷などの工業が行われる。また市の中心地にはヨハニス教会(14世紀),ヤコビ教会(14~15世紀)などのゴシック建築,市庁舎(14~15世紀),木組み民家など歴史的建築物が多く残る。
執筆者:別府 昭郎
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ドイツのニーダーザクセン州の都市。もとハノーヴァー選帝侯国に属し,1737年創立の大学とともに発展。この大学は宗教的寛容,また大学図書館やゼミナール制度によって,ドイツの近代大学の祖形となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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