ドイツ北部,シュレスウィヒ・ホルシュタイン州の都市。人口21万1874(2004)。バルト海に注ぐトラーベTrave川河口より約20km上流沿岸に位置する港湾都市で,エルベ川とは運河で結ばれる。河口に外港トラーベミュンデTravemündeをもつ。造船業など重工業の一中心地。中世にはハンザ同盟の盟主として繁栄し,旧ドイツ帝国内ではケルンと並ぶ大都市であった。ケルンなどローマ時代以来の歴史を有する西方都市とは異なり,中世における東部植民の進展に応じて建設された比較的歴史の浅い都市である。12世紀中ごろに領内の経済発展を願うザクセン公ハインリヒ獅子公が,西方から企業心に富む人々を招いてバルト貿易の拠点とするために建設させた。当初から市民団の独立性が強く,ケルンの都市法に淵源をもつ独自の都市法が許された。建設後のバルト貿易は進展し,1226年には帝国都市の地位が与えられ,国法上明確な完全独立自治都市となった。リューベックを拠点として展開したバルト貿易はやがて北海貿易とも結合し,北ヨーロッパに東西に伸びる一大貿易圏が成立した。東はロシアのノブゴロド,西はロンドンに及び,リューベックは東方産の穀物,材木,毛皮等と,西方産の毛織物,ワイン等の中継貿易を通じて,ベネチアに相当する北方圏最大の商都に成長した。この間,進取の気性に富む市民はバルト海岸沿いにロストク,ウィスマルなどの新都市を建設し,リューベックの都市法はこれら新都市を通じて北方に広く行きわたった。それとともに,リューベックは商業拡大・維持のために都市間協力が必要であることを痛感し,周辺諸都市との連係に努力した。こうして成立したのがハンザ同盟である。ハンザ同盟は自然発生的な産物なので,その発生にリューベックがどのように関与したかは定かではないが,リューベックが早くからハンザ同盟の中心となり,その維持に並々ならぬ情熱を傾けたことは確かである。ハンザ総会もたいていはリューベックで開催され,ハンザ全体の重要な政策決定に際してのリューベックの発言力も高かった。しばしば多くの加盟都市が分離的傾向を示したなかで,リューベックはしんぼう強くハンザ結束のために努力を払い続けた。
また,自治独立都市として封建君主・諸侯と対等に渡り合ったが,内部的には商人層,とくに遠隔貿易に従事する商人層の勢力が圧倒的に強く,有力商人による寡頭政治が施行され,中小商人や手工業者はつねに市政から閉め出されていた。中世末期にはこれらの人々による政権奪取の暴動が起こり,一時的に成功を収めたことはあったが,有力商人の寡頭支配は近代にいたるまで揺るがなかった。しかし,南ドイツに見られる門閥支配型の都市に比べて中産層が比較的厚く,それが体制安定に寄与したのではないかといわれる。バルト貿易が大きな比重を占めていたリューベックは,近世に入り,新航路開拓や商圏の大西洋への移動によってしだいに繁栄から遠ざかり,近世以後はハンブルク,ブレーメンなど西方との関係が深い都市に往時の地位を奪われた。第2次大戦中の爆撃により甚大な被害を受けたが,往時の町並みがよく復興されている。ドイツ有数の壮麗な市庁舎(13~15世紀),大聖堂(12世紀)や煉瓦造によるゴシック建築として重要なマリーエンキルヘ(13世紀)等の教会堂,二つの尖塔をもつホルステン門(15世紀)などが,かつての繁栄をしのばせる。文学者のマン兄弟は,当地の富裕な穀物商に生まれた。
執筆者:高橋 理
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ドイツ北部、シュレスウィヒ・ホルシュタイン州の港湾・商工業都市。人口21万3400(2000)。バルト海に注ぐトラーフェ川の河口近くに位置する。中世以来、ドイツのバルト海への窓口であったが、第二次世界大戦後は旧東ドイツが分離したためその機能は弱まった。しかし貿易は今日も市の経済的基盤であり、木材、農産物、鉄鉱石、銅鉱石を輸入し、石炭、鉄鉱石、塩などを輸出する。その関連業種である貿易商社が多く立地する。工業は19世紀におこり、鉄や銅の精錬、機械、食品などの製造が行われる。中世にハンザ同盟の盟主として「ハンザの女王」とよばれた歴史を反映し、教会の七つの塔がそそり立つ旧市街を中心に歴史的建造物が多く残る。マルクト(市場)広場周辺には聖マリア教会(13~14世紀)、市庁舎(13世紀)、15世紀の城門ホルステン門、妻入の民家などが多く、れんが造の北ドイツ・ゴシック様式の典型がみられる。歴史や地理の協会、博物館、資料館など、文化施設も多い。その古い町並みは1987年「ハンザ同盟都市リューベック」として世界遺産の文化遺産に登録されている(世界文化遺産)。
[齋藤光格]
市の起源は、スラブ人の集落リウビケLiubiceにさかのぼる。この地に1143年ホルシュタイン伯アドルフ2世が都市集落を設けたが、1156年大火で焼失し、1158/59年ザクセン公ハインリヒ獅子(しし)公がこの地を譲り受け、改めて都市を建設した。当初の市民はフランドル、ライン川下流、ウェストファーレンから誘致された商工業者であった。ハインリヒが賦与した都市法は、リューベック都市法としてのち多くの都市で採用された。ハインリヒの失脚後、リューベックは1188年皇帝より自治特許状を受け、1226年には帝国直属都市となった。翌27年、リューベック市はシュレスウィヒ・ホルシュタインを支配するデンマーク王をボルンヘーフェトの戦いで撃破し、北欧における有力な政治的指導都市となる。
バルト海と北海を連結する地点に位置するところから、バルト海貿易の集中点となり、そこで結成されたハンザ同盟の盟主となった。1358年以来ハンザ会議の開催地となる。1368年ふたたびデンマークと戦い、コペンハーゲンを占領し、シュトラルズントの平和(1370)を結んだときが、リューベックの全盛期である。1397年にはシュテクニッツ運河によってハンブルクと直結された。15世紀後半になると、オランダ、イギリスがズント(エアスン海峡)直航でバルト海に入ってきて、リューベックの経済的優位に決定的な打撃を与えた。宗教改革時には、新教派の市長ウッレンウェーファーが実権を握ったが、デンマークとの戦いに敗れて失脚し、同時にリューベックの政治的覇権も失われた。以後、自由都市の地位を維持したが、1937年ナチスに自由を奪われた。現在は一地方都市となっている。
[瀬原義生]
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ドイツ,シュレースヴィヒ‐ホルシュタイン州にある都市。トラーフェ河口近くに位置する。1143年建設されたが大火にあい,58年ザクセン公ハインリヒ獅子公により新設された。1226年帝国都市。ハンザ同盟の盟主として指導的役割を果たした。
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…一方,北ヨーロッパにおいては,13,14世紀にハンザ同盟に所属する都市の商人の活動が活発化し,バルト海からフランドル,イングランドへ穀物,木材,毛皮,蠟,ニシンなどを運び,逆に東方へ毛織物,塩,ブドウ酒を輸送した。リューベックがその中心であった。ドイツの東方植民の進展とともにバルト海沿岸からの穀物輸出が増大した。…
…こうして特許状または市民の自由意思にもとづく照会により,母都市と娘都市とのつながりができ,いわゆる都市法家族Stadtrechtsfamilienが形成された。もっとも重要な母都市はリューベックとマクデブルクである。リューベックの法はドイツの諸都市やバルト海地域のハンザ居留地を経てノブゴロドにまで達し,マクデブルクの法は東ザクセンおよびブランデンブルクだけでなく,ボヘミア,シュレジエン,ポーランドやさらに遠くの地方まで広まっていった。…
…13世紀から17世紀へかけて北ヨーロッパに成立していた都市連合体で,リューベック,ハンブルク,ケルンなどドイツ都市を圧倒的多数とする。日本では古くから〈ハンザ同盟〉という名で知られているが,〈同盟〉という呼称は適当ではない。…
…大聖堂をはじめとして由緒ある建物も多い。同じ北ドイツのハンブルク,リューベックなどと同様,建造物は主として煉瓦造りで,北ドイツで最も景観の美しい都市の一つに数えられる。フランク王国時代の787年に司教座が置かれ,北方伝道の拠点となったことがブレーメンの起源であり,ハンブルクにすでに置かれていた大司教座もやがてブレーメンに移された。…
※「リューベック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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